公開: 2022年3月31日
更新: 2022年4月19日
終身雇用制と呼ばれる、日本独自の雇用慣行によって、日本社会では被雇用者が企業内で経験を積み、業務遂行能力が高まるに従って、年功賃金によって、給与水準が少しずつ上昇する仕組みを採用している。このような、賃金の上昇は、労働者の収入増につながり、労働者個人個人の生活水準を、少しずつ向上させた。その賃金の上昇を支えるために、雇用者である企業は、生産した製品の価格を、毎年、少しずつ上昇させる必要があり、日本経済全体としては、物価の上昇傾向が定常的に継続するようになった。
そのようにして発生したインフレーションの記憶が、好景気とインフレーションとを結びつける俗説の誕生につながった。
日本の戦後の経済発展の歴史を振り返ると、敗戦直後の数年間、戦時国債の発行と物資の極端な不足などによって起こったインフレーションを止めるために、日本政府は大変な努力を迫られた。この時、日本政府が採用した政策の一つとして、「通貨切下げ」があった。これらの経済政策と、朝鮮半島で勃発した連合国軍と北朝鮮・中国軍との間で起こった朝鮮戦争による、莫大な戦争需要の発生によって、日本の経済は大きく成長し、経済危機を脱した。
その後、朝鮮半島での戦争が停滞し、停戦状態が続くようになり、日本経済はそれまでの軍需に依存した経済構造を、民需主体の経済構造に転換しなければならないため、一時的に景気後退に見舞われた。しかし、日本全体では、戦後に発生した人口増大によって引き起こされた国内需要の成長と、米国市場の拡大に伴った需要の増大によって、国内における生産増大への圧力が続き、戦後の回復期にあった工業生産への投資も順調に増加したため、日本経済は少しずつ成長し始めた。
当時、日本円は、国際的には1ドル360円の固定相場制で守られており、人口増大の効果もあって、日本国内の労働力は、国際的に見れば、極端な低コストで供給されていた。にもかかわらず、富国強兵のため、戦前からの高度な義務教育制度が浸透していたため、日本の労働力は、高い質を保っていた。このことは、労働力の質と量は、供給から考えると、高い国際競争力があった。さらに、日本の経済構造は、戦前の農業を主体とした産業構造から、戦後の工業を主体とした産業構造への転換が進み始めていた。つまり、労働力の農業から工業分野への移動が生じており、労働力の供給が十分にあった。
以上のような経済状況から、主として米国市場向け工業製品の輸出は、昭和30年代に入ると、拡大の一歩を辿り始めていた。日本の首都東京や首都圏の工業地帯には、地方の農家から、若く安価な労働力が大量に流入し始めていた。戦前からの労働慣行で、日本では、若い労働者に対しては、雇用している企業が教育や育成に責任をもっていた。そして、被雇用者である労働者は、長期に渡って同じ企業で仕事に従事することが、暗黙の了解になっていた。
このことは、後に終身雇用制と呼ばれる、日本独自の雇用慣行になってゆくが、被雇用者が企業内で経験を積み、業務遂行能力が高まるに従って、年功賃金によって、給与水準が少しずつ上昇する仕組みを完成させてゆく。このような、賃金の上昇は、労働者の収入増につながり、労働者個人個人の生活水準を、少しずつ向上させた。その賃金の上昇を支えるために、雇用者である企業は、生産した製品の価格を、毎年、少しずつ上昇させる必要があり、日本経済全体としては、給与の上昇、製品価格の上昇、物価の上昇、さらなる給与の上昇という循環によって、毎年の物価上昇傾向が恒常的に継続するようになった。
この賃金上昇と、それを実現するための製品価格への転嫁、それによって発生する物価上昇、それによって支えられたさらなる賃金上昇は、「ゆるやかなインフレーション」を引き起こした。大学を卒業した新入社員の初任給は、当初数千円であったものが、10年ほどで、数万円にまで上昇し、さらに1973年のオイルショック後の物価高を経ると、十万円程度にまで上昇した。1973年の中東戦争で引き起こされたオイルショックによって起きた世界的インフレーションは、一時的に日本の輸出産業を直撃したが、日本企業は省エネルギー対策などを講じて、その波を乗り越え、経済の拡大基調を回復した。大学を卒業し、企業の第一線へ配属され始めたベビーブーム世代の労働力が大量に供給されていたため、経済成長は堅調に続いた。
1973年のオイルショックの前に、アメリカ合衆国は、1972年、通貨ドルの変動相場制への移行を行っており、その結果、日本円は1ドル350円台に上昇していた。しかし、それでも質が良く、豊富で安価な日本の労働力供給に支えられ、日本製品は米国市場で、高品質で合理的な価格の製品として認知されていた。日本製テレビや日本製小型自動車は、米国の大学生を中心に若年層の心を捕らえ、売り上げを伸ばしていた。特に、日本企業は、輸出品の価格を決定するために、主として変動費のみを原価計算に入れるやり方を採用していたため、米国市場における日本製品の価格は、場合によっては、日本市場での価格よりも安くなっていた。
このような事情もあって、電気製品や小型自動車製品の輸出企業を中心に、日本企業は大量の外貨を稼ぎ出し、日本の経済発展に貢献した。特に、当時の米国社会では、労働力の中心が、40歳代から50歳代で、少し高齢化が進み始めていたのに対して、日本社会では、まだ20歳代や30歳代の、労働コストが安く、技量は十分ではないが、伸び盛りの人材が中心で働いていた。さらに、まだ通貨の為替レートは、1ドルが300円以上の水準にあったが、日本企業は労働コストの面でも、まだ優位な立場にあった。このことが、1970年代を通じた、日本国の経済成長を支えたのである。
この経済の高度成長期に日本人が学んだことは、「経済成長を続ける限り、インフレーションは止まらない。」という現実であった。しかし、これは、「インフレーションだから経済が成長している。」とする説が正しいことを裏付けているわけではない。