円安とインフレーション


経済成長と人口

公開: 2022年3月31日

更新: 2022年4月20日

あらまし

近代日本の社会は、明治維新以降、100年以上に渡り継続的に人口を増加させてきた。それ以前の江戸時代、日本の人口は約3,000万人で安定していた。自然災害などで、一時的な人口減少に見舞われることがあったが、農業生産が安定していたため、ほぼ3,000万人を限界にして、その限界を大きく超えることはできなかった。つまり、食料生産の技術革新がなければ、人口を増加させることができない状態だったと言える。明治になって、富国強兵を目標にした新しい社会は、工業生産を増強するための投資を拡充し、経済規模を拡大することに成功し、人口を増やすことが可能になった。しかし、第2次世界大戦が終わるまで、日本の人口が1億人の水準に達することはできなかった。

第2次世界大戦に敗戦した日本社会は、戦後復興に力を注ぎ、徐々に経済を発展させ、1990年頃、日本のGDPはアメリカ合衆国の2分の1程度に迫った。当時、日本の人口は、アメリカ合衆国の約2分の1にまで迫っていた。つまり、国民一人当たりのGDP(すなわち、国民一人一人の豊かさ)は、アメリカ合衆国に並んだのである。その後、クリントン政権のドル安円高政策の導入で、名目GDPは、さらに増加し、日本の国民はアメリカ合衆国の国民より豊かになった。

この間の日本の社会は、人口増加に連動した経済成長を続けたのである。しかし、現在の日本の社会は、人口減少局面に差し掛かっている。このことは、経済の活力を失わせる。特に、人口減少の局面で急速に進展する人口の高齢化は、日本社会による生産力の低下や生産性の低下を招く。そのような経済が縮小する局面で、低金利政策を持続させ、円安を維持して輸出企業の経営を支援できても、輸入原材料の高騰によって、国民の生活水準は低下する。日本のGDPは、増大するどころか、減少するのである。

経済成長と人口

歴史的に日本社会は、明治維新以降、100年以上に渡り継続的に人口を増加させてきた。それ以前の江戸時代、日本の人口は約3,000万人で安定していた。自然災害などで、一時的な人口減少に見舞われることがあったが、農業生産が安定していたため、ほぼ3,000万人を限界にして、その限界を大きく超えることはできなかった。つまり、食料生産の技術革新がなければ、人口を増加させることができない状態だったと言える。明治になって、富国強兵を目標にした新しい社会は、工業生産を増強するための投資を拡充し、経済規模を拡大することに成功し、人口を増やすことが可能になった。しかし、第2次世界大戦が終わるまで、日本の人口は1億人の水準に達することはできなかった。

明治維新から第2次世界大戦に突入するまでの期間、日本の経済は急激に成長した。しかし、日本のGDPは、アメリカ合衆国のそれと比較すると、10分の1以下の水準であった。第2次世界大戦に敗戦した日本社会は、戦後復興に力を注ぎ、徐々に経済を発展させ、1990年頃、日本のGDPはアメリカ合衆国の2分の1程度に迫った。当時、日本の人口は、アメリカ合衆国の約2分の1にまで迫っていた。つまり、国民一人当たりのGDP(すなわち、国民一人一人の豊かさ)は、アメリカ合衆国に並んだのである。その後、クリントン政権のドル安円高政策の導入で、名目GDPは、さらに増加し、日本の国民はアメリカ合衆国の国民より豊かになった。

この頃、日本の人口動態は増加傾向から減少傾向に変わった。1990年代ごろから顕著になっていた、出生率の低下が進み、2.0を下回る状態が継続していたからである。日本政府は、1990年代から、消極的にではあったが、出生率の低下傾向に歯止めをかける政策を実施してきたが、不十分だったことが影響して、出生率の低下は止まらなかった。終身雇用を前提とした現在の日本社会では、女性の労働力を活用することが容易でなく、さらに、労働力の移動を推進することが難しい。それは、正規従業員を解雇することが、企業に多大な損失を与える可能性があるからである。企業ができることは、正規雇用の従業員に対して、自発的な自己都合退職を促す早期退職プログラムを導入することだけである。一部の大企業では、導入された例があるが、それには多大な財政支出が不可欠である。

このような、長期的な人口減少に、日本社会は歴史的に直面した経験がない。日本社会が経験しているのは、定常的な人口が継続する状態か、人口が長期的に増加し続ける状態だけである。日本列島に人類が定着し、狩猟採取社会を形成し始めた縄文時代、千数百年に渡り、人口はほぼ一定であったと推定されている。当時、日本列島は温暖で、食料になる植物や小型動物に恵まれており、25万人前後の人口を支えるのに十分な食料を供給できたのである。縄文時代末期から弥生時代の始め頃に、かなりの数の人々が、中国大陸や朝鮮半島から、日本列島の西部に移住した。この新しく流入した人々は、稲の農耕や、鉄製の道具を、日本社会にもたらし、急速にそれ以前から日本列島に居住していた人々(原日本人)と混じり合った。現在の日本人の遺伝子を調べると、そのほとんどは弥生人の遺伝を引き継いでおり、一部に縄文人の遺伝を引き継いでいることが分かっている。

この大陸や朝鮮半島から日本列島に流入した人々によってもたらされた農耕文化や鉄器文化によって、弥生文化が生まれ、弥生時代が始まったとされている。狩猟採取が中心の縄文時代とは違って、農耕文化では、人々は定住して、田畑を耕作し、食料を生産するようになる。農耕によって、食料生産に技術革新が起こり、日本の食糧生産量が大幅に増加した。その結果、日本国内の人口は急激に増加し、約60万人に達したとされている。その反面、農耕のための土地に関する所有権の争いが増え、縄文時代にはなかった部族間の「戦い」が増加した。長期に渡る部族間の抗争を通して、日本列島には、各地方を支配する豪族が生まれ、社会の階層化が始まった。大きな人口を抱える集団ほど、集団間の戦いに勝つ確率が高まるからである。

そのような部族間の抗争の過程から、青銅器や鉄器の利用が進んでいた朝鮮半島や大陸から渡来した人々の血を引く部族長が導く村が力を持ち、彼らの中から後に大王や物部氏などの有力部族の祖先になる人々が出現した。これらの大王や有力部族の長は、中国から伝えられた文字(漢字)を使って物事を記録する方法を導入し、日本の文字文化成立に尽力した。それは、その後の日本社会において、中国式の法制度を確立するための基礎となった。社会に法制度が整備された奈良時代になると、日本社会の人口は約450万人にまで大きく成長し、平安時代には約550万人、戦国時代が終わりを迎え、徳川幕府が成立した1600年前後には、人口は約1,220万人、江戸時代の後半になると人口は3,000万人を超えるようになった。明治時代に入ると、富国強兵政策によって、日本社会の人口は約1,000万人増加して、約4,600万人にまで増加した。その後、昭和10年には、人口は約7,000万人を超えた。日本社会は、2,000年間に渡り、継続的に人口を増加させ、それに合わせて少しずつ経済を成長させた。

このような歴史を通して人口を増加させ、経済を成長させてきた日本社会であったが、今、日本社会は人口減少の局面に入ろうとしている。人口が減少すれば、生産労働人口も減少する。さらに、その過程では、現在の日本社会が直面している人口の高齢化が訪れる。高齢化社会の問題は、生産労働人口の減少によって消費に対応した生産が不可能となり、需要に見合う供給が不可能になるため、物価高になることが予想されることである。これは、現在の日本銀行が実施しているような、人為的にインフレーションを引き起そうとして発生する物価高ではなく、市場の需要と供給の不均衡によって、自然に発生する物価高である。それは、高齢者の生活を直撃し、貧しい高齢者達を大量に生み出す。

人口減少が予見される社会においては、人々はそのような将来の経済危機に備えて、自己防衛のための貯蓄行動を取る。そのことが、物価の上昇を抑え、デフレーション現象を引き起こすのである。1990年代の終り頃から日本社会に続いているデフレーション現象と、それによる不況感の蔓延現象は、そのような将来の日本経済に対する人々の不安感が原因となって起こっているのが、現在までの経済の後退である。これを解消するために、意図的にインフレーションを起こそうとしても、市場の需要が減少しているため、インフレーションは発生しない。

つまり、インフレーションと好景気、経済成長が、論理的に結びつく前提には、市場における需要の拡大が予想される前提状況が存在しなければならない。「適度なインフレーションは、好景気を意味する。」は、全くの迷信である。そのインフレーションを、超低金利をテコにして、人為的に起こそうと言う政策は、自分達の限られた過去の経験だけを頼りにまとめ上げた、誤りの政策であり、専門家の見識と洞察に基づいた真の政策とは言えない。現在の日本経済を前提に考えれば、むしろ低金利によって引き起こされる通貨円の下落や、日本国債の利回り上昇のリスクなど、副作用の方が大きく、危険である。それでも、この政策を続けようとする日本政府や日本銀行の専門家の見識を疑わざるを得ない。

(つづく)