公開: 2022年4月15日
更新: 2022年4月15日
従来の日本の考古学では、人々が一つの地域に家を作り、そこに住み続けるようになる「定住」は、稲作が始まり、田畑を耕作するようになってからだと言われていた。しかし、縄文時代でも、三内丸山遺跡のように、広大な土地に数十人から数百人が定住した例が発見され、一部では栗などの植物を栽培していたことが分かってきた。
古代人が定住を始めると、「村」のような共同体が形成され、村の間で分業による生活用具などの分業生産が始まる。縄文時代では、黒曜石を使った石器の生産や、ヒスイを使った装飾品などが生産され、異なる村の間で交換されていたことが分かっている。
日本の国内で、「村」が巨大になったのは、弥生時代に稲作が普及し、田畑で食べ物を作る農耕が一般化してからである。田んぼの場合、稲を植える田んぼを毎年整備することは、無駄で、同じ田んぼに植える方が効率的である。そのような理由で、日本に定住が一般化したのは、弥生期以降と言える。