公開: 2022年3月31日
更新: 2022年4月19日
2010年代のリーマンショック後の世界経済の中で、給与が増えない日本の労働者は、似たような生産物であれば、より安価な生産物を求めるようになり、多くの消費者向け製品やサービスを提供する企業は、より低い価格で製品やサービスを提供して、市場競争での生き残りを図ろうとした。その時、そのような企業では、可能な限り安価な労働コストでの生産を可能にするため、非正規の労働力を利用したり、外国人の労働力を低い賃金で利用とするのである。
そのような理由で継続する日本経済のデフレーションの後、世界経済の回復とともに起こった原材料の値上がりは、日本社会では、労働賃金の上昇圧力を生み出し、結果として物価上昇を引き起こし始めている。しかし、日本社会では労働力の向上を目指した積極的な投資や、生産性の向上を目的とした積極的な投資の流れは起きていない。一部の専門家は、そのようにして起きる物価上昇を、「悪いインフレーション」と呼んでいる。
2010年代に入って日本銀行によって超低金利政策が継続的に実施されても、日本社会における物価の下落傾向は続き、経済成長もなかった。GDPで言えば、「ほぼゼロ成長が続いた」状態に陥ったままであった。エコノミストの中には、OECDのデータベースを参考にして、「日本企業における労働生産性の低さが、経済が成長しない原因である。」とする分析を述べる人々もいた。特に、「企業の労働環境における情報通信技術の活用の遅れが問題の根源である。」とする意見も多かった。この流れを反映して、経済産業省は「日本社会のデジタルトランスフォーメーションを推進する」と言う政策の導入に踏み切った。この政策によって、企業の情報投資が増え、情報技術を学ぶ個人の教育投資が増え、情報交換の需要増に伴う情報通信基盤への投資も増えるため、社会全体への波及効果も大きいと期待されたからであった。
その一方で、企業間や企業と個人間、個人と個人の間でインターネットを介した通信が増加することは、社会に様々な副作用を及ぼす。特に、インターネットの利用は、通信者間で保持されなければならない情報の秘匿が容易ではなくなる。通信を傍受(盗聴)する方法が、多岐にわたり、通信が傍受されていることを検知することにも専門知識が必要になるからである。1990年代の中頃まで、インターネットが普及していなかった日本の社会では、一般の人々の間に情報セキュリティに関する認識が深まらず、通信路、通信に利用される端末装置(コンピュータやスマートフォンなど)、端末装置に蓄積されているデータなどを、悪意のある第三者の意図的な盗聴や解読から守ろうとする意欲が低くかった。この情報セキュリティ保護の意識の低さは、インターネットの利用が広く一般化すればするほど、悪意のある人々からの攻撃で、社会が混乱する原因になる。特に、企業を標的としたインターネット上の攻撃を、正しく守れなければ、社会は経済的にも打撃を受けることになる。
新入社員一括採用・終身雇用を前提とした日本企業では、職業の専門分化が徹底していない。入社時に仕事の専門分野を限定し、職務の内容を定めた「職務記述書」に基づいた採用を実施せず、高等教育機関でどんな専門分野を学び、訓練を受けたかに関係なく、新入社員を学歴だけで採用する習慣が定着している。このため、従業員が従事する職務は、その人材が高等教育で学んだ専門分野と一致している例は、決して多くない。特に、情報関連分野を見れば、その職務に従事している人材が、高等教育機関で学んだ専門分野は、工学系や理学系の専門に限られず、社会科学系の専門や、文学系の専門までもが含まれている。このような例は、世界的にもまれなものである。情報の専門知識を学んでいない人材に、情報セキュリティに関係する職務を担当させることには、本質的に無理がある。このため、企業内に情報セキュリティを専門に担当する部署が存在していても、企業の情報システムを悪意のある社外の専門家の攻撃から守れないのである。
日本の労働力の生産性が、国際的な比較で、他国に劣っている理由には、この日本社会に根付いている雇用制度や教育制度に起因する問題が関係している。労働生産性が低ければ、その国の産業が生み出す製品やサービスの価値は、他国の産業が生み出す製品やサービスの価値よりも市場で低い評価を受ける。特に、グローバルな市場での競争にさらされている製品やサービスほどその傾向が強い。国際競争力が低下している製品やサービスを提供する企業の利益は、低減することが当然の帰結である。それでも、企業は生き残りを懸けるために、労働コストを圧縮し、製品やサービスの価格を低減して、利潤を確保し、将来のために内部留保を増やそうとする。
これが、2010年代のリーマンショック後の世界経済の中で、日本の企業に起きた現象である。収入が増えない日本の労働者は、似たような生産物であれば、より安価な生産物を求めるようになり、多くの消費者向け製品を提供する企業は、より低い価格で製品やサービスを提供して、市場競争での生き残りを図ろうとする。その時、そのような企業では、可能な限り安価な労働コストでの生産を可能にするため、非正規の労働力を利用したり、外国人の労働力を低い賃金で利用しようとするのである。そのような低い労働コストの労働力が社会で広く利用可能になれば、国民全体の生活水準も低下し、社会全体の平均賃金も低下する。それでは、日本銀行が超低金利政策を採用しても賃金も物価もあがらない。人為的に、物価の上昇を引き起こすことはできない。
このような現実を目の当たりにして、専門家の中には、「良いインフレーション」と「悪いインフレーション」があると説く人々が登場した。良いインフレーションとは、健全な経済成長を起こす、賃上げ、物価高の循環が生まれるインフレーションである。悪いインフレーションとは、経済成長につながらない、為替レートの変化での原材料費の高騰、そして物価高の循環で、社会で生活する人々の生活水準が向上せず、ただ物価の上昇だけを生み出すインフレーションである。
この「良いインフレーション」と「悪いインフレーション」の違いは、経済的には、差がない。同じ現象を、社会で生活する人々が「どう見るか」で決まる問題である。本質的には、経済が成長する社会で起きる、結果としてのインフレーション現象が、良いインフレーションであり、経済成長のない社会で起きるインフレーション現象が、悪いインフレーションである。その経済成長を生み出す要因は何か。それは、経済拡大を必要とする人口の増大である。つまり、インフレーションは、経済成長の結果として観測される物価高であり、経済成長がなくても、起こすことができる、貨幣価値の下落による物価高騰の結果であることもある。貨幣価値の下落は、人為的に引き起こすこともできるが、経済成長を人為的に引き起こすことは、難しい。