学校では教えない歴史


ジャンヌ・ダルクは、なぜ火あぶりにされたのか

公開: 2022年5月13日

更新: 2022年6月7日

あらまし

1429年、イングランド軍はフランス国王と対立していたブルターニュ公国軍と協力して、フランスのイングランド支配地域の財政立て直しに着手しました。イングランド・ブルターニュ公国軍は、フランス王の軍を攻め、オルレアンを包囲し、攻撃していました。オルレアンの陥落が目前に迫った時、農民の娘、ジャンヌが国王シャルル7世に面会を求め、積極的にイングランド軍を攻めなければ戦争に負けることを予言し、自分をその戦いに参加させるように求めました。国王はそれを許可し、ジャンヌは、フランス軍を率いてオルレアン防衛軍の支援に向かいました。

オルレアンの戦いに勝ったジャンヌが率いたフランス軍は、イングランド軍が支配している他の地域を攻めながら、歴代の国王が戴冠式を挙行するランスに向かって勝ち進みました。ジャンヌに率いられたフランス軍は、食料の供給に苦しみながらも、ランスを攻め落とし、シャルル7世の戴冠式を挙行することに成功しました。戴冠式を済ませたシャルル7世は、ブルターニュ公との和平を優先して、ジャンヌらが主張したパリ包囲戦を許可せず、和平交渉を進めました。

ジャンヌ・ダルク: フランスを救った少女

1419年、フランスのブルターニュ公は、イングランドと同盟を結び、イングランド・フランス統一王国の設立に向けた第一歩を踏み出しました。1420年、イングランド・ブルターニュ同盟派は、フランス王シャルル6世の王位を終生認めることを約束する代わりに、シャルル6世の娘とイングランド王ヘンリー5世との婚姻を認めさせ、その子をフランスの王位継承者とする合意案を、フランスのオルレアン派との間でとりまとめました。これによって、イングランド・フランス連合王国は、現実的なものとなりました。しかし、1422年にヘンリー5世が急死し、シャルル6世も死ぬと、再び、情勢は混迷しました。ヘンリー5世の王位を引き継ぎ、イングランド王に就いたヘンリー6世が幼かったため、フランスでは、シャルル6世の子がシャルル7世を名乗り、ヘンリー6世による王位継承に抵抗しました。

幼いヘンリー6世の後見人であったその叔父は、フランス国王と対立していたブルターニュ公と協力し、イングランドが支配していた地域の財政の立て直しを図ろうとしました。これに対して、フランス国王のシャルル7世と彼を支援するオルレアン派は、反イングランド軍の編成を進めました。イングランド同盟軍は、シャルル7世の反イングランド軍をオルレアンの戦いで破り、シャルル7世の拠点があったブールジュまで軍隊を進める計画を立てました。

1429年、イングランド・ブルターニュ連合軍は、オルレアン市街を包囲していました。このとき、オルレアン防衛軍を救うために、ジャンヌ・ダルクとフランス軍が防衛軍に合流しました。5月4日から5月7日の戦いで、ジャンヌ・ダルクに率いられたフランス軍は、イングランド・ブルターニュ同盟軍の包囲砦を次々と攻め落とし、5月8日には、イングランド・ブルターニュ連合軍を撤退に追い込みました。この戦いを、オルレアン包囲戦と呼びます。この戦いによってオルレアンは、解放され、その功績からシャンヌ・ダルクは、救世主や聖女と呼ばれるようになりました。オルレアンの包囲網を突破したフランス軍は、ロワール川沿いを進んで、1429年6月、パテーの戦いでもイングランド・ブルターニュ連合軍を破り、パリの東北東約130キロメートルに位置する主要都市のランスに進軍しました。この結果、シャルル7世は、ランスの、歴代の国王が戴冠式を行ってきたノートルダム大聖堂で、戴冠式を行いました。

ジャンヌ・ダルクは、神聖ローマ帝国領のドンレミ村で、約20ヘクタールを所有していた裕福な農民の子供として生まれました。父親は、農作業に従事するだけでなく、村の農民から税金を集める租税徴収係も務めていました。ジャンヌの裁判記録によると、ジャンヌは、1412年頃に生まれたと証言しました。ジャンヌが12歳の頃、ジャンヌは、初めて『神の声』を聴いたと証言しました。この時、ジャンヌは、「イングランド軍を駆逐して、シャルル7世をランスで戴冠させよ」と神から命じられたと証言していました。ジャンヌは、16歳の時、ボードリクール伯に会い、「王宮を訪れ、国王に面会する」許可を求めたが、拒絶されました。翌年、ジャンヌは、二人の貴族と知り合い、この二人の助けをかりて、再度、ボードリクール伯に会い、「オルレアン近郊のニシンの戦いでフランス軍は敗北する」と予言しました。この予言が的中したことに驚いたボードリクール伯は、ジャンヌが王宮を訪れることを認めました。

ジャンヌは、オルレアンへの派遣軍を財政的に支援していたシャルル7世妃とアンジュー公妃に願い出て、オルレアン派遣軍に同行すること、騎士の軍装を身につけることを許されました。ジャンヌには、甲冑、馬、剣、軍旗と、ジャンヌの協力者への軍備一式が与えられました。神の声を聴いたと公言したジャンヌの参戦は、イングランドとフランスとの戦争を、宗教的な戦いに変化させ、劣勢に立たされていたフランス軍の兵士の士気を鼓舞しました。しかし、シャルル7世の顧問の中には、「ジャンヌは異端の魔女かも知れない」と心配する人々がいました。このため、シャルル7世は、ジャンヌの身元調査を命じ、1429年にそれを審議する委員会が開催され、「ジャンヌが良きキリスト教徒である」ことが認められました。神学者たちは、ジャンヌが本当に「神の啓示を受けたかどうか」については、判定できないと結論づけました。

ジャンヌの言葉が「嘘ではない」とする審議の結果は、オルレアン派遣軍の士気を大いに高めました。ジャンヌは、イングランド軍指揮官に宛て、降伏勧告分を送り、1429年3月末に、フランス軍に参加してオルレアンへ向いました。1429年4月29日、ジャンヌとフランス軍の兵士は、イングランド軍に包囲されていたオルレアンに到着しました。当時、オルレアン公はイングランド軍に捕らえられており、その異母弟がオルレアン防衛軍を率いていました。彼は、ジャンヌが作戦会議や戦闘に参加することを認めませんでしたが、ジャンヌは、それを無視して作戦会議に参加し、戦闘に加わりました。この戦いで、ジャンヌが有能な指揮官として勝利に貢献したかどうかについては、専門家の間には議論があります。後の裁判記録には、ジャンヌは戦闘では「積極的に旗手を務めていた」という自らの証言の記述が残されています。

ジャンヌは、フランス軍のそれまでの消極的な戦い方を一変させました。ジャンヌが戦いに参加した5月4日の戦闘では、フランス軍は攻勢に出て、オルレアン郊外で東の要塞を攻略し、5月5日の戦いでは、南の要塞を占拠しました。5月6日に行われた作戦会議では、ジャンヌは、指揮官の慎重策に反対し、さらなるイングランド軍への攻撃を主張しました。司令官はこれ以上の戦線拡大を防ぐために、全ての城門を閉じて防御態勢を取ることを命じました。しかし、ジャンヌは、一部の兵士を率いて市街を抜け出し、イングランド軍のサン・オーギュスタン要塞を攻め、その攻略に成功しました。その後の作戦会議で、援軍が到着するまで新たな軍事行動を取らないことが決定されましたが、ジャンヌは、その決定を無視して、5月7日にイングランド軍主力の拠点であったレ・トゥレルへの攻撃を主張しました。この戦いで、ジャンヌは、首に矢傷を負いましたが、直ぐに戦列に復帰し、指揮をとったと記録されています。

このオルレアンの戦いでの劇的な勝利で、フランス軍は勢いづきました。期待以上の戦果をあげたジャンヌは、シャルル7世を説得して、自分をフランス軍全体の副官に任命し、国王の戴冠式をランスでとり行うため、フランス軍をロワール川沿いに進軍させる勅命を出させました。ランスは、イングランド軍が支配しているパリよりも遠方にあるため、この作戦は無謀に思えるものでありました。しかし、オルレアンを解放したフランス軍は、イングランド軍を次々と打ち破り、フランス軍は、領土を取り返してゆきました。ジャンヌの上官で、フランス軍の総指揮官であったジャン2世は、ジャンヌが立案した全ての作戦を承認したと記録されています。この一連の戦いの中で、フランス軍には、新たに援軍に参加する将軍が続々と現れました。その中でも、リッシュモンは、宮廷では疎(うと)まれていましたが、多くの将軍がその力量を認めていました。リッシュモンとジャンヌは、互いに協力することになりました。

1429年6月18日、イングランド軍とフランス軍は、北フランス中部のパテーで、100年戦争の流れを決めた戦いを行いました。リッシュモンが指揮を執ったこの戦いで、フランス軍前衛部隊は、イングランド軍の大型を扱う弓部隊の体勢が整う前に攻撃を仕掛け、イングランド軍が総崩れになって、フランス軍が大勝しました。イングランド軍は、この戦いで、多くの兵を失い、大量の捕虜を出しました。また、多くの指揮官も捕虜となりました。これに対して、フランス軍の被害は少なかったと記録されています。フランス軍は、6月29日に、再びランスへ向けて進軍を開始しました。途中、フランス軍は、食料の不足に苦しみましたが、7月16日、フランス軍は、ランスへ入場しました。その翌日、シャルル7世の戴冠式がとり行われました。ジャンヌとジャン2世は、すぐにパりへ進軍することを進言しましたが、シャルル7世はブルターニュ公との和平条約締結を優先して、交渉に入りました。

(つづく)