公開: 2022年5月17日
更新: 2022年6月8日
1429年、ランスでフランス国王、シャルル7世の戴冠式を済ませた後、ジャンヌはパリの包囲戦を主張しましたが、国王はブルターニュとの和平交渉を優先しました。その和平交渉が決裂したことで、ジャンヌはパリへの進軍を始め、パりを包囲してイングランド軍と対峙しました。ジャンヌに率いられたフランス軍とイングランド軍との戦いが始まりましたが、シャルル7世は、バリからのフランス軍の撤退を命じました。
その後、フランス軍とイングランド軍との間で停戦協定が締結され、一時的に平和な日々が訪れました。ジャンヌとその家族は、シャルル7世によって、貴族の位を授けられました。停戦協定の期間が終わり、フランス軍とイングランド軍との戦いは、再会しました。そして、ジャンヌは、フランス国王軍を助けるために、ブルターニュ軍が守っていたコンピエーヌ包囲戦へ参加しました。この戦いで、ジャンヌは、戦闘の最中に敵の矢を受け、落馬し、ブルターニュ軍に捕らえられてしまいました。
ブルターニュ軍の捕虜になったジャンヌの身柄引き渡しを、シャルル7世が要求しなかったため、イングランドが身代金を支払って、ジャンヌの身柄を引き取り、ジャンヌを宗教裁判にかけることとなりました。ジャンヌを「魔女」の異端として、処刑するためでした。
1429年8月、フランス国王とブルターニュ公との和平交渉は、ブルターニュ軍がパリの守りを固めようとしていたイングランド軍に援軍を送ったことから失敗に終わり、フランス国王軍は、パリヘ兵を進めることを決め、パリへ軍を進める途中にあった諸都市を、<戦うことなく開城させながら パリ近郊に迫ってゆきました。イングランド軍とフランス軍がパリの近郊で対峙したのは1429年8月15日で、戦線はそのまま、こう着状態に陥りました。9月8日になってフランス軍はパりを包囲するための攻撃(パリ包囲戦)を開始しました。この戦いでは、ジャンヌも石弓の矢が足に当たり、負傷しましたが、最後まで戦場に残り、軍の指揮を執り続けたと記録されています。翌9月9日の朝、シャルル7世の宮廷侍従長であった、ラ・トレモイユの意見を取り入れたシャルル7世の撤退命令を受け、フランス軍はパリ包囲戦から撤退し、パリ包囲作戦は失敗に終わりました。
ジャンヌは、パりの包囲戦の後、1429年の10月にフランス軍に復帰し、いくつかの戦いに参加しました。11月から12月に戦った包囲戦は、失敗に終わっています。1429年12月、ジャンヌとその家族は、国王によって貴族の位を授けられました。そして、フランスとイングランドとの間で休戦協定が締結され、少しの間、ジャンヌは平穏な日々を過ごしました。1430年3月、ジャンヌはカトリック教フス派に宛てた書簡を書き取らせ、送りました。その書簡では、異端として迫害されていたフス派に対して、異端的な教義を捨てるように説得しています。ジャンヌは、農家の生まれだったため、文字の読み書きを知りませんでした。ですから、内容を話し、それを文字を知っている人に書き取らせたのです。
1430年5月、休戦協定の期限が来ると、ジャンヌは、コンピエーニュ包囲戦を戦っていたフランス軍を助けるために、コンピエーニュへ向いました。5月23日、ジャンヌが率いた軍は、マルニーに陣取っていたブルターニュ公国軍を攻め始めました。ところが、ブルターニュ公国軍には、新たに6,000人の兵士が援軍として加わっていたことから、ジャンヌが率いていた軍は、攻めきれず、劣勢に立たされました。ジャンヌは、兵士達にコンピエーニュ城近くまで撤退するように命じました。しかし、自分はその戦場で最後まで戦い抜く決心をしていました。ブルターニュ公国軍は、戦っていたジャンヌ達の退路を断ち、有利に戦いを進めました。この時、ジャンヌに敵の兵が射た矢が当り、ジャンヌは馬から転げ落ちましたが、戦いを続けることを諦めませんでした。ジャンヌは、ブルターニュ公国軍に捕らえられ、捕虜となりました。
この時代の戦いでは、敵に捕まり捕虜になった人に対しては、捕虜になった人の身内が身代金を支払い、捕虜の身柄の引き渡しを求めるのが慣例でした。しかし、ジャンヌの場合、シャルル7世は、ジャンヌの身柄引き渡し交渉を命じることはありませんでした。フランス国王から見捨てられたジャンヌは、何度か脱走を試みたと記録されています。監禁されていた城の塔から、21メートル下の堀に飛び込んだこともあったようです。しかし、脱走には、成功しませんでした。
ジャンヌ・ダルクが捕らえられてから、ブルターニュ公とイングランド軍の双方に知人のあったフランス人司教コーションは、イングランドのウィンチェスター司教ボーフォート枢機卿と話し合い、イングランドがブルターニュ側に身代金を支払って、ジャンヌの身柄を引き取ったとされています。コーション司教は、その後、ジャンヌの異端審問(宗教裁判)でも、重要な役割を果たしました。