公開: 2022年5月22日
更新: 2022年6月16日
ジャンヌが男装をしていたこと、中世においてカトリック教の教義では、「女性の男装」は許されていなかったことは、事実です。なぜ、戦場でジャンヌが兵士の服装を着ていたことが許されなかったのでしょうか。現代に生きる私たちには、理解できません。それは、当時のカトリック教徒は、人間には、「男性と女性」の区別しかなく、男性と女性とのあ間には、決定的な違いがあると考えられていたことが関係しています。
現代の医学では、男性と女性を決めているのは、染色体の組合せであり、そのことと、ヒトの身体的な特徴が完全に一致するとは限らないことなどが分っています。ジャンヌの男装問題は、ジャンヌがそのような特殊な遺伝的に特徴を持っていたと考えると、納得できます。そのような説を主張している研究者も出現しています。これが、悩んだ末に、ジャンヌが自らの生命をかけても訴えようとしたことではないでしょうか。
ジャンヌは、なぜ、火あぶりの刑にされたのでしょう。異端審問で、何人かの聖職者が、牢に入れられていたジャンヌが兵士の服装をしていたことを証言していました。これは、ジャンヌも認めていたことです。中世のヨーロッパでは、女性は男性が身にまとう服装を着ることが、キリスト教の教えに反していると考えられていました。この教えに反した行為は、異端審問で問題にされる行為でした。裁判では、その事実が審査され、ジャンヌは「男装」の罪を認め、悔い改めることを約束する誓約書に署名しました。
誓約書に署名したジャンヌが、再び、「男装の罪」を犯せば、再犯審査が行われ、再犯と認められれば、ジャンヌには処刑が言い渡されることになります。コーション司教は、そのことを想定して、牢に戻されたジャンヌに、兵士の服装をさせるように仕向けようとしたと考えられます。異端審問で、男装の罪を認めたジャンヌは、同じ罪の再犯を犯したことで、火あぶりの刑に処されることになっているからです。このことが、異端審問でコーション司教が、ジャンヌの「男装の罪」を糾弾し、誓約書に署名するように仕向けた理由であると考えられます。
ジャンヌがブルターニュ公国軍の捕虜になり、フランス国王のシャルル7世がジャンヌの身柄を引き取る交渉をしなかったために、イングランド軍が身代金を支払い、身柄を引き取りました。イングランドは、シャルル7世がフランス国王の座に就くことに反対していました。本来であれば、イングランド王がフランスとの統合王国の王位に就くことが約束されていたからです。その意味で、シャルル7世の戴冠式の挙行を支援したジャンヌは「魔女」であり、シャルル7世の国王就任は無効であることが宣言されることを望んでいたと考えられます。イングランドは、ジャンヌが魔女であることを異端審問で明らかにしようと考えていたでしょう。
異端審問で判事に就任した反国王派のコーション司教は、フランス国内におけるジャンヌの名声の高まりを快く思っていなかったようです。その意味では、イングランド軍と同じ意図で、ジャンヌが「魔女である」ことを、異端審問で明らかにしようと考えていても不思議ではありません。『聖女』であるとか『聖人』であるとかと言うジャンヌの名声を壊そうと考えるコーション司教にとっては、異端審問は、その絶好の機会と見えたでしょう。その目的のためには、ジャンヌが聴いたとする『神の声』が、真実ではないことを証明することは、異端審問の中心的な争点になるはずでした。
異端審問では、陪席した聖職者などから、この「『神の声』を聴いた」と言うジャンヌの証言が真実ではなく、嘘であったとする証言を取るための質問が繰り返されましたが、ジャンヌはそのことに関する明確な答えをしませんでした。その理由は、シャルル7世との約束があったからだとされています。このことが、コーション司教による異端審問の方針に影響を与えました。コーション司教は、ジャンヌを「魔女」とする異端審問の方針を放棄し、ジャンヌを男装の罪で断罪し、火あぶりにする方針に変えたのでしょう。早く異端審問の審理を終えなければ、ジャンヌを火あぶりにすることも難しくなるからでした。
普通審問で、「男装」の罪を認め、「悔い改め」の誓約書に署名し、元の牢に戻されたジャンヌは、数日後、再び兵士の服装を身につけたとの理由で、男装の罪で再審問にかけられることになりました。再審問で「男装の罪」が認められれば、ジャンヌは誓約書に反した行為で、「火あぶりの刑」に処されます。それは、コーション司教の企て通りの結果になります。そして、コーション司教の思惑通りに、ジャンヌは再審問にかけられ、男装の罪を再び犯したとの理由で、火あぶりの刑に処されることが、正式に決まりました。5月30日には、ジャンヌの処刑が行われました。
ジャンヌは、誓約書に反する行為を行えば、「火あぶりの刑に処される」ことは理解していたはずです。だとすれば、なぜ、それでもジャンヌは、兵士の服装をまとったのでしょうか。1455年に行われた「復権裁判」では、「コーション司教がジャンヌに罪を犯させる目的で、拘束中のジャンヌに兵士の服装をせざるをえないようにした」との結論を記しています。実際に、牢を監視していたイングランド兵は、ジャンヌに兵士の衣装だけを渡し、それを着るように仕向けたとの公証人の証言も残されています。ではなぜ、火あぶりになることを知りながら、ジャンヌは与えられた兵士の服を身につけたのでしょう。
このジャンヌの行動には、特殊な事情があったと考えられます。現代の研究者の中には、そのような特殊な事情として、ジャンヌが遺伝的に特殊な性質を持っていたのではないかと指摘している人がいます。それは、ジャンヌが遺伝的には男性であったとする問題です。現代でも、1万人に数名程度、男性の遺伝的性質を持つにもかかわらず、肉体的には女性の特徴をもった人々がいます。これは、男性が遺伝的にはXとYの両方の染色体をもつのに対して、女性はX染色体だけを持つのが普通です。きわめてまれな例ですが、XY染色体をもちながら、肉体的な特徴は女性と同じ特徴をもつ人々がいます。ジャンヌも、そのような特徴をもった人だったのではないかと主張する人々がいます。
このような遺伝的特徴をもつ少数者は、出生時の性別は女性とされますが、成長して思春期になると、自分の性別と性格との不一致に戸惑いを感じる例は、少なくないと言われています。ジャンヌが、そのような特性の人であったとすると、「兵士の服装を着る」ことを自然と考え、「戦いで兵士を指揮すること」に能力を発揮し、「神の声を聴いた」と証言したことなど、納得できる理由と考えられます。特に、『神の声』を聴いたとする証言は、ジャンヌの複雑な事情から引き起こされた幻視・幻聴の症状で、統合失調症の症状であると理解できます。15世紀の社会では、そのような医学的背景を分析することは不可能だったでしょう。
結論として、ジャンヌが火あぶりの刑に処せられたのは、コーション司教が、「ジャンヌを宗教裁判で魔女と認定しようとした」こと、その目的が果たせなくなった時に、「ジャンヌを火あぶりにしようとした」こと、そのような背景があったにもかかわらず、「ジャンヌは、火あぶりになることを理解していながら、敢えて兵士の服装を身につけた」と、考えられます。そのジャンヌの覚悟は、ジャンヌの遺伝的な特殊性が関わっていたのかも知れません。ジャンヌが、フランス軍の有能な指揮官として、オルレアンの解放に貢献し、フランスの国をイングランドとの統合から救ったと言う意味で、フランスの「救世主」であったことは、歴史的な事実であり、ジャンヌが女性であったかどうかは、本質的な問題ではないでしょう。特に、ジャンヌの男装は、本質的な問題ではありません。