公開: 2022年5月21日
更新: 2022年6月8日
捕虜として捕らえられたジャンヌの身柄は、ブルターニュ派のコーション司教の斡旋(あっせん)でブルターニュ軍からイングランド軍に引き渡され、宗教裁判にかけられました。その判事は、コーション司教が務めました。この宗教裁判については、数々の手続き上の問題が指摘されています。裁判では、最初、ジャンヌが公言していた『神の言葉』を聴いたとするジャンヌの証言が真実かどうか問題になりました。しかし、ジャンヌは、このことに関して、明確な証言をしませんでした。
ジャンヌの弁論を崩すことができなかったため、裁判の後半では、ジャンヌが兵士の服装を付けていたことが、「女性の男装」の罪を犯していることが問題にされ、ジャンヌもその事実を認めていたため、裁判では、この「男装」の罪を犯したことを理由に、異端としての行為が認定されました。ジャンヌは、その罪を「悔い改める」ことを約束し、処刑されることを免れました。しかし、その契約書の書名から数日が経った日、ジャンヌは再び男装したことが発覚し、すぐに誓約を破ったことを理由に、ジャンヌは火あぶりの刑に処せられました。
イングランド軍に身柄を引き渡されたジャンヌは、イングランドの占領統治政府が置かれていたフランスのルーアンで、異端審問(宗教裁判)にかけられることになりました。イングランドは、国王ヘンリー6世に正式なフランス国王としての王位継承権があるとして、シャルル7世のフランス王への即位に反対していました。イングランド側から見れば、ジャンヌは、そのシャルル7世の即位に力をつくし、戴冠式を成功させた人物であり、すでに決まっていたトロワ条約に基づき、イングランドのヘンリー6世が、正当なフランス王位の継承によって、イングランド・フランス統合王国を実現することを妨害した人物でした。とは言え、なぜ、ジャンヌを宗教裁判にかけられなければならなかったのかについては、現代に生きる私達にも理解できる、明確な理由はありません。
このジャンヌの異端審問は、ジャンヌが農民の娘であったこともあり、当時の社会を精密に記録した文書を後世に残しました。ジャンヌの身柄をイングランドに売り渡すことに貢献したフランス人司祭のコーションは、ルーアンの宗教裁判で判事を務める資格を持っていなかったにもかかわせず、この裁判では判事を務めました。それは、彼が教区の臨時責任者に任命されたことで、正当化されました。この宗教裁判の正当性については、後に疑義が提起され、再審議されることとなります。裁判記録は、公証人3人によって、フランス語で作成され、後にラテン語に翻訳されました。この裁判での、陪席者の数は、130人と記録されています。彼らは、大学関係者、高位聖職者、教会参事会員、宗教裁判所の弁護士などでした。
宗教裁判の本審理に先立って、1431年1月から3月にかけて予備審理が行われました。最初に、ヘンリー6世の叔父の妃アンヌの監視下で、ジャンヌが処女であったことを確認しましたが、この結果は裁判記録には記載されませんでした。つぎに、ジャンヌの性格や生活習慣についての聞き取りと、故郷のドンレミにおける何人かの証人からの聞き取りが行われました。コーション司教は、証人からの聞き取り結果についても、裁判記録に記載しませんでした。
普通審理は、予備審理が終わった翌日から始まりました。この審理では、70カ条の検事論告、12カ条の告発文に対する教会の判断、そして5月24日のジャンヌの悔悛で永久入牢への減刑を申し渡した第1回判決等が審理記録に残されています。70カ条の告発文について、ジャンヌは、真理に先立って認めていた告発以外については、否認しました。この審理におけるジャンヌの陪席者からの質問に対する返答は、つねに適切で、「異端である」ことを疑わせる内容はありませんでした。陪席者からの質問は、次第に異端の根拠として、ジャンヌの戦闘時の兵士としての服装が問題になってゆきました。1431年5月24日、ジャンヌは、『神の教えに従い、悔い改めることを約束する』悔悛誓約書への署名に同意し、審理が終了しました。
普通審理が終わった後、ジャンヌが悔悛誓約書に反して、再び兵士の服装をしたとして、異端再犯の審理が、1431年5月28日に牢内で行われました。5月29日の審議では、3人を除くすべての陪席者が、もう一度誓約書をジャンヌに読み聞かせ、本人の確認を取るべきだと主張しましたが、陪審者達には議決権が与えられていなかったことから、コーション司教はその意見を無視しました。5月30日、入牢中のジャンヌが誓約を破ったとして破門が宣告され、ジャンヌは処刑されることとなりました。、
この異端審問で、最も中心的な問題とされたのは、ジャンヌが聴いたとされていた『神の声』が、真実かどうかでした。ジャンヌは、異端審問の間、さまざまな表現で問われたこの問題については、ことごとく証言を拒否したと記録されています。その理由として考えられるのは、ジャンヌがフランス国王、シャルル7世に面会したとき、シャルル7世との間で「機密保持」の誓いをしていた事実であると言われています。現代の多くの研究者や宗教家が述べていることは、ジャンヌの信仰が「心の底からの、偽りのない」ものであったと思われることです。つまり、ジャンヌが「嘘を言った」とは、考えられません。
現代の医学で考えると、ジャンヌが聴いた神の声や、ジャンヌが見たと言った天使の幻視などの現象は、「幻視・幻聴」と呼ばれます。その症状は、今日、統合失調症と呼ばれるものです。アメリカ精神医学会による『精神障害の診断と統計マニュアル』に基づくと、ジャンヌの証言や記録された行動からは、この統合失調症の症状に適合するとは言えないようです。特に、統合失調症の症状で、「天使の姿を見た」と言う症例は、極めてまれなことだとされています。米国のイェール大学の心理学教授、ラルフ・ホフマン博士によると、精神疾患がなくても「インスパイアード・ボイス」は、経験される神秘体験であり、ジャンヌの体験は、その例であると考えられるとのことです。
最終的に、異端審問では、ジャンヌが「『神の声』を聴いたとする証言は、真実ではなかった」とする主張を証明することはできませんでした。そのため、審問では、ジャンヌが、当時、禁じられていた「女性の男装」が問題とされました。戦闘でも、牢の中でも、ジャンヌは兵士の服装をしていたため、ジャンヌもそのことを否定はしませんでした。結果として、審問の結果、ジャンヌは男装の罪を認め、「悔い改める」ことを誓うことになりました。しかし、その誓いに署名した数日後に、再び、ジャンヌが男装したことで、ジャンヌには、中世の「しきたり」に従って、火あぶりの刑が言い渡されました。