公開: 2022年5月22日
更新: 2022年6月8日
ジャンヌの異端審問(宗教裁判)は、詳しく記録されました。そのほとんどは、ラテン語での記録ですが、フランス語の記録も残されています。その裁判記録を見ると、ジャンヌが文字を知らなかったことが分かります。そのジャンヌが文字を読めなかったこと、特にラテン語を理解できなかったことを利用し、コーション司教は、ラテン語で書かれたジャンヌの誓約書の内容を、ジャンヌが理解できたフランス語で正確に訳さなかったことなども分かっています。
ジャンヌが男装した理由についても、ジャンヌがどのように弁明していたのかが、裁判記録に残されています。このような詳細な記録から、100年戦争後に、ジャンヌの母親の要請で開かれた名誉回復審査で、裁判の手続きに誤りがあったことが認められました。そして、「男装」の罪でジャンヌが火あぶりの刑に処されたことも、適切な処分ではなかったことが明確にされました。
1431年5月24日に開かれた異端審問で、ジャンヌは、「悔悛(かいしゅん)と男性の服装を身につけることをやめる」ことを約束する誓約書に、すぐに署名することを要求されました。正式な裁判記録に記載されたラテン語の誓約書の内容は、フランス語でジャンヌに読み上げられた誓約文の内容との間に違いがあったとされています。ジャンヌは、その誓約書に署名をし、約束通り処刑されずに、牢に戻されました。
審理に参加した聖職者の中に、ジャンヌは審理が行われていた数か月の間、牢内では兵士の服装を着用していたと証言していました。これは、ジャンヌが、男性の牢番がジャンヌに暴力をふるうことを怖れていたためだと言われています。ジャンヌは、「普通の宗教裁判のように、修道女が看守を務めれば、女性の服装を身につける」と主張していたと伝えられています。誓約書に署名した後、ジャンヌは元の牢に戻されましたが、二人の看守は、修道女には変わりませんでした。2日後にジャンヌは、兵士の服装に戻ったと記録されています。これは、男性の看守がジャンヌに、兵士の服装だけしか与えなかったためだとの記録もあります。
誓約書に書かれていた「男装をやめる」と言う内容に反した再犯の罪で、中世の「しきたり」に従い、ジャンヌは再び裁きにかけられました。ジャンヌは、「男性の中で生活している以上、男性と同じ格好をしている方が自然だと考えた」また「ミサに参加させてもらうことが許され、鉄の鎖を解かれることが約束されていたにもかかわらず、それらが許されず、牢番も修道女にならなかった」ことなどが、再び兵士の服装を着用した理由であると説明しました。このことによって、ジャンヌは、異端再犯者と宣告され、裁判所がジャンヌに処刑を言い渡す正式な理由となりました。
1431年5月30日、コーション司教は、ジャンヌに最終宣告を言い渡し、ルーアンの市場が立つ広場で火あぶりの刑に処されました。この時、ジャンヌは、十字架を自分の前に置くように死刑執行人に願い出ました。死刑執行人は、小さな十字架をジャンヌから見える場所に置き、薪に火をつけたと記録されています。火あぶりにされたジャンヌの死体は、一片の骨も残ることがないように、全てが灰になるまで、もう一度焼かれ、残った灰は、すべて川へ投入れられました。