学校では教えない歴史


ジャンヌ・ダルクは、なぜ火あぶりにされたのか

公開: 2022年5月11日

更新: 2022年6月7日

あらまし

100年戦争の前半が終わった1336年、フランス国王のジャン2世は、イングランド軍に捕らえられ、捕虜になってしまいました。捕虜になったジャン世は、フランスが身代金を支払って釈放されましたが、ジャン2世の身代わりとなったフランスの兵士が逃亡したため、責任を取って再びロンドンへ行き、ロンドンで死んでしまいました。ジャン2世の身柄引き渡しの時、イングランドとフランスの間でカレー条約が締結され、フランスの沿岸地域の一部が、イングランド領となりました。

ジャン2世の死の後、フランス国王になったのは、シャルル5世で、戦費の負担を賄う努力をしました。そのために、シャルル5世は、フランスの中世的な税制度を改革して、近代的な税制度を導入しました。この税制の改革によって、国王シャルル5世の権力は、従来とは比較にならないほど強くなりました。さらにシャルル5世は、フランス貴族間の婚姻にも、国王の影響力を働かせ、国王の統治を強くすることに成功しました。

1366年、シャルル5世は、現在のスペイン東部にあったカスティーリャ王国の国王を決める争い事にも関わりを持ち、国王の異母兄がフランスに亡命すると、フランス軍をカスティーリャ王国へ遠征させました。このため、国王は、フランス国王と敵対していたイングランドが支配していたアキテーヌへ亡命しました。これによって、フランス軍とイングランド軍は、再び、戦うことになりました。

イングランド軍は、フランス国王と敵対していたブルターニュ公国と同盟を結び、フランス国王軍と戦いましたが、フランス軍に勝つことはできませんでした。1373年に、イングランド軍は、ブルターニュ地方に攻め入りましたが、フランス軍に撃退されました。1375年、イングランド軍とフランス軍は、停戦協定を締結しました。停戦協定の期間中、両国の中では、戦費の負担が重くなっていたため、国内問題を抱え、その処理に追われました。

この休戦の期間中に、フランス国王のシャルル5世が死に、シャルル6世が王位を継承しました。イングランドでも、エドワード3世から王位を継承した孫のリチャード3世が、議会派の貴族達と対立し、リチャード3世は、ロンドン塔に幽閉された後、謎の死を遂げました。このリチャード2世の死によって、プランタジネット朝は途絶え、ランカスター朝のヘンリー4世が、国王に就きました。この後、フランスでは、シャルル6世が精神錯乱となり、イングランドではヘンリー5世が王になりました。

100年戦争: 窮地に陥ったフランス軍

1336年、フランス国王のジャン2世がイングランド軍の捕虜となったことから、後に国王となるシャルル(5世)が、国内政治を行うようになりました。1360年、教皇インノケンティウス6世の仲介により、イングランドとフランスの間でブレティニー仮和平条約が締結され、後にカレー条約として成立しました。これにより、フランスの沿岸地域の一部、カレーなど、がイングランドに割譲され、ジャン2世の身代金も最終決定されました。ジャン2世は、釈放されましたが、その後、身代わりの一人が逃走したため、その責任を取ってジャン2世が再びロンドンを訪れ、その最中にロンドンで死亡しました。

フランス国王、ジャン2世の死去によって、シャルルは、シャルル5世として国王の座に就きました。シャルル5世は、フランス軍の敗戦による戦費負担を賄(まかな)うため、それまでの国王の直轄領からの税収を中心とした、中世的な税制を改革して、1363年から近代的な国税制度(国王課税)を導入しました。これによって、フランス国王の財力は、他の領主と比較して著しく強大となり、国王の権力も強まりました。さらにシャルル5世は、外交的な政治力も使い、ローマ教皇の力などを借りて、フランス国内の領主一族間での婚姻などにも介入し、国王の政治的な影響力を強めました。

1366年、フランス南西部に位置するカスティーリャ王国(現在のスペイン東部)を支配していたペドロ1世の弾圧によって、ペドロ1世の異母兄エンリケがフランスに亡命したことをきっかけに、シャルル5世は、エンリケをカスティーリャ王国の国王に推し、フランス軍をカスティーリャ王国へ遠征させました。この争いでフランス軍に負けたペドロ1世は、カスティーリャに隣接した、フランス南西部のイングランド領アキテーヌへ亡命し、イングランド軍の援助を得て、復権を目指し、カスティーリャに侵攻しました。1367年、ナヘラの戦いでペドロ1世とイングランド軍は勝利し、ペドロ1世は復権しました。しかし、イングランド軍は、赤痢の流行と、多額の戦費負担に悩まされることとなりました。この戦費負担は、当初はペドロ1世が負担する約束だったのですが、その約束は守られず、フランスにあったイングランド支配領域のアキテーヌ領からの税金で賄われました。

このアキテーヌ地方への課税に対して、南部のガスコーニュに領地を持つ貴族が反対を唱え、パリの高等法院に不服申し立てをしました。シャルル5世は、アキテーヌ地方を治めていたイングランド王、エドワード3世の長男に対して出頭命令を出しました。しかし、その出頭命令が無視されたため、1369年、シャルル5世は彼を告発しました。これに対して、イングランド王、エドワード3世は、アキテーヌ地方は、イングランドが支配している地域であるとして、この処分に異議を唱え、改めて、自分がフランス国王であると主張しました。これに対してフランス国王シャルル5世は、アキテーヌ地方の支配権をイングランドから取り上げる決定をしました。

1370年、フランス軍は、モンティエルの戦いでペドロ1世を討ち取り、その後、ポンヴァヤンの戦いでブルターニュへ撤退しようとしていたイングランド軍との戦闘に勝ちました。1372年には、フランス軍は、ラ・ロシェルの海戦でイングランド海軍との戦いにも勝利し、フランス国王と敵対していたブルターニュ公との軍事同盟を結びました。1373年、イングランド軍はブルターニュ地方に攻め入りましたが、フランス軍はこれを撃退し、ブルターニュ地方の支配を確実なものとしました。1375年、フランス軍が優勢な状況の中で、イングランドとフランスは、2年間の休戦協定を結びました。この休戦期間の間、エドワード3世の長男が1376年に、エドワード3世が1377年に死亡しました。

1378年、フランス国王シャルル5世は、ブルターニュ地方を王領に編入することを宣言しました。しかし、その地域の貴族達はそれに賛同しなかったため、シャルル5世は、課税額を減額する決定をせざるを得ませんでした。1380年、シャルル5世は、死亡しました。シャルル5世の死の結果、ブルターニュ地方は、フランス国王の領地には併合されず、ブルターニュ公領として、ブルターニュ公家のジャン4世が支配し続けることになりました。

1375年に休戦協定が結ばれ、両国間で、和平条約締結の交渉も始められました。イングランドの国王は、エドワード3世から孫のリチャード2世に引き継がれ、フランス国王は、シャルル5世から長男のシャルル6世に引き継がれていました。和平協定の締結に至りませんでしたが、休戦協定はずるずると引き延ばされていました。1380年、イングランドでは、戦費調達のための追加課税に反対した国民によって、ワット・タイラーの乱が起りました。リチャード2世は、この乱の鎮圧に成功しましたが、リチャード2世の統治に反対する貴族らと議会による抵抗に苦しみました。1387年、リチャード2世の統治に反対する貴族達は、ラドコット・ブリッジの戦いで国王軍を破り、1388年には、国王を支援していた王の家臣達を反逆罪で告発しました。

フランスとの和平交渉に忙殺されていたリチャード2世は、交渉が一段落した1397年、フランスとの和平案にも反対した貴族達を捕らえ、処刑しました。これによってリチャード2世と、議会派の貴族達との反目はますます強まり、1399年、ランカスター卿の死後、その領土の一部を後に国王の座に就くヘンリー4世の手から、国王が没収を決めた処分を発端に、議会派の貴族達が蜂起し、リチャード2世を逮捕し、退位を迫って、王をロンドン塔に幽閉しました。リチャード2世は、ロンドン塔の幽閉中に命を落としました。ブランタジネット朝のリチャード2世の死後、議会派のヘンリー4世が、イングランド国王に即位し、ランカスター朝が成立しました。この間、1392年のリチャード2世とシャルル6世との直接交渉をきっかけとして、1396年、パりで1426年までの全面休戦協定が結ばれました。

フランス国内では、幼いシャルル6世の統治を助けるために、後見人達による統治が行われていました。このため、後見人達は、国の税金を私的な目的で利用するようになり、国内政治は、不安定になりました。1388年、シャルル6世は、自らが政治を行う「親政」を宣言し、それを支持したオルレアン公や官僚集団がそれを支援し、国王の後見人達を追放しました。しかし、1392年、シャルル6世は突如、精神錯乱を起こし、国王の権威を失ったフランスの政治は、混乱しました。この国王の精神錯乱によって、貴族たちは、反国王のブルターニュ派と国王を支持するオルレアン派に分裂して、政争を繰り返すようになりました。オルレアン公は、財務長官として行政を担っていましたが、ブルターニュ公は1405年にパリを軍事制圧し、1407年にオルレアン公を殺害して政権を掌握しました。この両派の対立は、その後、大きな国内紛争に拡大してゆきました。

このフランスのオルレアン派とブルターニュ派の争いは、双方がイングランドからの応援を求める状態にまで発展しました。1412年、オルレアン派と同盟を結んだイングランドは、フランスのノルマンディーに上陸し、ボルドーに向かって進軍しました。しかし、オルレアン派とブルターニュ派が和解したため、イングランド軍は、撤兵しました。1413年、イングランドではヘンリー4世の死去により、ヘンリー5世が国王に即位しました。ヘンリー5世は、1414年、ブルターニュ派と同盟を結び、フランス王国に対して、王権と、アキテーヌ地方、ノルマンディー地方、アンジュー地方の支配権を要求しました。1415年、政治的に混乱していたフランスを攻めるために、イングランド軍は、ノルマンディーに再上陸しました。このとき、パリを支配していたオルレアン派は、イングランド軍を撃退するために、アジャンクールに進軍しました。

フランス軍は、イングランド軍の4倍の勢力をもっていたものの、アジャンクールの戦いではイングランド軍に大敗しました。この戦いで、オルレアン公は捕らえられ、フランス軍は弱体化しました。1417年、ノルマンディーに再上陸したイングランド軍は、フランス軍を破り、ルーアンを陥落させ、イングランドがフランスのノルマンディー一帯を支配することになりました。

(つづく)