学校では教えない歴史


ジャンヌ・ダルクは、なぜ火あぶりにされたのか

公開: 2022年5月10日

更新: 2022年6月6日

あらまし

100年戦争は、最初、フランス軍が優位に戦いを進めました。それは、イタリアのジェノバ艦隊の支援を受けたフランス艦隊が、海軍の整備が不十分であったイングランド艦隊を破り、イングランド本土を攻めたからでした。しかし、1340年代になると、イングランドは、ジェノバ艦隊に補償金を支払って、フランス艦隊への支援をしないように約束させました。そして、フランドル地方での戦いで、フランス艦隊を全滅させました。

フランス艦隊を全滅させたイングランド軍は、イギリス海峡の制海権を手にして、フランス侵攻を開始しました。イングランドは、フランス国内で国王派と対立していたブルターニュ派の貴族と反フランス同盟を結び、フランス国王派の軍を攻めようとしましたが、戦いは一進一退の状態となり、休戦協定が結ばれました。イングランドでは、戦費の負担から、戦争に反対する声が上がり始めました。フランスでも、戦費の負担は大きく、国家の財政再建が問題になりました。1351年には、イングランド軍、フランス軍から、30名ずつの騎士が選ばれ、中世の騎士道に従って戦った、有名な「30人の騎士の戦い」が行われ、フランスが勝ちました。

100年戦争: 騎士の戦いと組織的戦争

1337年、イングランド国王のエドワード3世は、自らがフランス国王であると宣言し、フランス国王、フィリップ6世に対して宣戦布告を行い、100年戦争を始めました。しかし、その頃のイングランドは、財政状態が悪く、戦費が不足していたため、スコットランド軍に攻め込まれました。フランドル地方では、フランドル地方を治めていたフランドル伯がフランス国王側に立ち、イングランドとの交易を禁止しました。これに対して、地域の手工業者達が反乱を起こし、自治政府を設立してフランドル伯を追放したのを機会に、エドワード3世は、市民側を財政的にも支援して同盟関係を結びました。

フランス国王フィリップ6世は、この間にイタリアのジェノバ艦隊の力を借りて、海軍の整備が不十分であったイングランドの海軍を攻め、イングランド本土を攻めて、成果をあげました。1330年代末までの戦争は、フランス軍が、ジェノバ艦隊の支援もあり、有利な立場に立っていました。イングランドは、資金を集めるために、国内だけでなくイタリアの金融機関からも、資金を調達しなければならない状態にありました。1330年代の戦いでは、このイングランドの資金調達の遅れが、フランス軍優位な状態を作り出していたのです。

1330年代末にフランスを支援していたジェノバ艦隊の中で、分配金をめぐる内紛が起こり、ジェノバ艦隊はイタリアへ帰還してしまいました。そのため、フランス軍とイングランド軍の戦いは、こう着状態に陥りました。ただ、フランス軍との戦いで戦費を消費していたイングランド軍は、スコットランド軍との戦いに苦戦して、イングランドのバースまで攻め込まれていました。エドワード3世は、イタリアの金融機関(銀行)からの借り入れが限界にまで達していたため、イングランドの大商人から高利で資金を借り入れなければならなくなりました。

一方で、1339年9月、戦費の資金を集めたイングランド王エドワード3世は、フランス侵攻での成果をねらって、フランスへの侵攻を試みましたが、成果をあげることができませんでした。他方で、フランドル地方においては、市民との同盟関係は強固になっていたものの、中世の倫理観では否定されていた「国王に対する反逆」とされるため、フランドル地方の人々は、イングランド国王と反フランス同盟を結ぶことができない状態でした。この局面を打開するため、1340年1月、エドワード3世は、「自分がフランス国王である」との宣言を行いました。

イングランド軍は、ジェノバに対して補償金を支払い、ジェノバの艦隊がフランス軍に支援しないことを約束させ、フランスに攻め込みました。1340年の6月、イングランドの艦隊は、フランドル地方のスロイスに集まっていたフランスの艦隊を攻め、スロイスの海戦が始まりました。この海戦で、イングランド艦隊は、フランス艦隊をほぼ全滅させました。これによって、イギリス海峡の制海権は、イングランド海軍が確保し、イングランド側は、フランス海軍の攻撃を受けずに、イングランド陸軍をフランス領に上陸させられるようになりました。イングランドは、フランス国王派のオルレアン公と対立していたブルターニュ公派と、反フランス国王同盟を結び、フランス国王軍と対峙するようにしましたが、戦いは「一進一退」の「こう着状態」に陥りました。

1340年9月、イングランド軍とフランス軍は、9カ月間の休戦協定を結び、休戦状態に入りました。この休戦期間中にブルターニュ公との反フランス同盟軍は解体されました。イングランドは、それまでの戦争で膨大な戦費を費やしていましたが、結果として得たものはほとんどありませんでした。このため、イングランド国内でも、戦争に反対する声が上がり、イングランド政府は、イタリアの銀行家から借り入れた資金を返済することができなくなり、イタリアの銀行家の多くが破産する結果となりました。

この時代、中央集権的な社会となりつつあったイングランドでは、人々に重税がかけられ、借金をまかなうために休戦期間中、エドワード3世は財政の再建に取り組みました。中央集権化が遅れていたフランスでも、フィリップ6世は、財政再建に取り組んでいましたが、封建社会から抜け出せていないフランスでは、税金は各地方を支配する貴族によって徴収されていたため、十分な税収は見込めませんでした。フィリップ6世は、貨幣の鋳造法を変えて、国の収入を増やそうとしたが、うまくゆきませんでした。さらに、フランスの貴族達は、フィリップ6世の戦争の進め方に不満を抱くようになっていました。

1346年7月、エドワード3世は、約1万の兵を率いて、本格的な侵攻に着手しました。イングランド軍は、はじめにノルマンディーのコタンタン半島に上陸し、戦闘と略奪を続けながら北東のフランドル地方に向かって進軍を続けました。フィリップ6世が率いるフランス軍も、これを追って北に進みました。両軍は、クレシーで対峙し、戦いが始まりました。兵の数で上回るフランス軍であったのですが、度重なる騎馬隊の攻撃でも、イングランド軍が使っていた大型の弓矢の防御に阻まれ、多くの兵を失って、フランス軍は撤退しなければなりませんでした。さらにエドワード3世は、港湾都市カレーの市街を包囲して、陥落させました。

スコットランドとの戦争においても、イングランド軍は、スコットランド軍をネビルズ・クロスの戦いで破り、デービッド2世を捕虜にして、戦いに勝ちました。これによって、イングランドは、スコットランドの攻撃の脅威を軽減することができました。しかし、1350年頃になると、ヨーロッパで伝染病のペストが大流行し、イングランド、フランスとも、戦争の継続は不可能となりました。1350年、フランス王フィリップ6世が死に、その子のジャン2世がその跡を継ぎました。1351年には、イングランドとフランスの両国から、それぞれ30人の騎士を選出し、中世の騎士道に従って戦いを行いました。これが、「30人の騎士の戦い」と呼ばれるもので、フランス側が勝利し、多額の賞金を獲得しました。

ペストの流行が収まった後、イングランドは財政状態を回復させ、1356年にエドワード3世の子、イングランドの黒太子は、フランス軍優位な情勢の下で、フランス軍の失敗からポアティエの戦いで勝利を収め、フランス国王となったジャン2世を捕虜とし、ジャン2世をロンドンへ連行しました。ジャン2世が捕らえられたことで、フランス政府は破綻し、国内政治が不安定化し始めました。1359年のロンドン条約締結により、ジャン2世は多額の身代金との交換で釈放されることが合意され、イングランドはフランスの海岸線に沿った領地を獲得しました。この間、フランスでは、ジャックリーの乱が1358年が勃発した後、つぎつぎと国内で大きな反乱が起こり、国内政治は乱れました。

ヨーロツパ社会は、ゆっくりと中世から近代への変化を始めていました。1359年には、フランス国内の会議でロンドン条約の承認が否決され、イングランドのエドワード3世はフランス国王として戴冠することを目的として、フランスに攻め込みました。フランス軍は、イングランド軍の進軍に伴う資金枯渇を狙って、イングランド軍との直接の戦いを避けました。にもかかわらず、イングランド軍は、フランスの首都、パりを占領することはできませんでした。中世のような騎士同士の戦いによる戦争ではなく、大量の資金を投入し、大規模な軍隊同士が弓を撃ち合い、歩兵同士の組織的な戦いによって勝敗を決する、鉄砲が導入される前の近代的な戦争に変わりつつありました。

(つづく)