公開: 2020年5月26日
更新: 2020年7月6日
思いをめぐらすために、どのような順番で、「何を、どう考えてゆかなければならないか」をできるだけ細かく決めることが大切であることを説明しました。特に、最近の構造主義的なやり方について説明しました。ここでは、一つ一つの細かな問題について、どうやって思いをめぐらせるのかは、ひとまず横において、まず「何を考えるべきか」に思いをめぐらせなければならないことを説明しました。
これは、モノを作るために、図面を作成するのに似ています。図面を描いた後、設計では、図面の中に描かれている個々の部品を一つ一つ指定する「部品票」を作成します。一つのモノは、いくつかの部品を組込んで作られます。そして、その一つ一つの部品も、「子部品」と呼ばれる、もっと小さな部品を組合わせて作られるので、それぞれに図面と部品票が作られます。これと似たようなことを、思いをめぐらせる時にも行わなければなりません。
モノの設計の成果は、この図面と部品票が全部です。しかし、設計をしている人たちは、図面を描いている時、一つ一つの部品について、どのような部品が必要なのかに思いをめぐらせます。普通、そのような一つ一つの部品には、いくつかの候補があります。それらの候補は、基本的にはどれを採用しても同じなのですが、よく考えると、部品によってそれを作るためにかかる費用が違います。さらに、どの部品を選ぶかによって、でき上ったものの「良さ」が変わることもしばしばです。
安くて、できの良いモノができる部品があればよいのですが、よく起こることは、安く作れる部品を選ぶと、モノの「でき」が悪くなると言う問題があるのが普通です。さらに。候補になる部品は、2つではなく、いくつかあることが普通です。また、モノの「でき」の良さにも、「故障が起き易い」や、「長く使えるモノができる」、「普通の人が使い易いモノになる」、「モノの動きが速くなる」や「反応が速くなる」、「見た目が良くなる」、「故障したときに部品の交換が簡単になる」などなど、様々な見方があります。それらの見方を、全体的にまとめて考えなければなりません。
ここでは、思いをめぐらせている時、いくつかの案が出ている「細かな問題」に対する解決案として、どの案を採用するのが良い選択になるのかについて、最近の社会に広く受け入れられているやり方について、紹介します。このやり方も、構造主義的なやり方です。
お伊勢参りの例で、図1に示されるような、思いをめぐらせなければならない問題の展開図ができたら、その展開図に従って、図の中の最も下に描かれている一つ一つの問題に焦点を当てて、その答えを探してゆきます。答えを探していると、一つの問題に対して、2つか、それ以上の数の答えの案が出てくる場合が少なくありません。そのような場合には、実際に答えとして、どの案を選ぶかが大切になります。この最終的な答えの案を選ぶ作業では、それぞれの案の良い所と悪い所を並べて、案を見比べて、最も良さそうなものを「見きわめ」て、選ぶことが大切になります。
この「見きわめる」という作業は、思いをめぐらすときに行う仕事の中で、最も難しい仕事です。なぜ、難しいのかと言えば、それは、まだ分かっていない、未来になってはっきりと分かることについて、「多分、こうなるだろう」と考え、「もしそうだとすれば、どんな問題がありそうか」について、思いをあれこれと、めぐらさなければならないからです。これは、誰にとっても難しいのですが、特に初めて経験するような問題の場合は、「何が起きそうか」について全く、経験が役に立たないため、それを想像して考えることが難しいからです。この色々なことを「想像する力」も、自分の経験によって培(つちか)われる場合が多く、経験が少ない人々には難しいことです。
ある候補案の良し悪しを「見きわめる」ためには、どのようなことが「起きそうか」を想像するだけでなく、そのことが本当に起きてしまった時に、「どんな問題が起きそうか」と言う問題そのものの予想と、その問題によって生み出される「悪い影響の大きさ」を見きわめなければなりません。これらのこと全てを一人の人だけで行うことは難しいだけでなく、間違えてしまう結果になり易いでしょう。ですから、そのような仕事は、何人かの人が集まって、互いに自分の見方や、自分の意見を述べながら、あまり極端(きょくたん)ではない結論を探すことが大切です。極端な見方や、極端な意見は、しばしば分かり易く、良さそうに聞こえることが多いのですが、実際には正しくない例が多いようです。
古代ギリシャの哲学者、アリストテレスは、「真ん中の考え」と言う意味の「中庸(ちゅうよう)」と言う言葉を使って、「中庸こそ正しい」と説明しました。極端な、実際にはあまり起こらない場合を思い描いて考え出された結論は、実際に起こっている現実からは「かけ離れている」ことが多いからです。特に、「想像された問題」と、その結果として起こる「悪い影響の大きさ」について思いをめぐらせるとき、あまり極端な見方をとってしまうと、悪い影響の大きさを見誤ってしまう結果になりかねません。その意味で、ごく「当たり前」の見方から、「悪い影響の大きさ」を見積(みつ)もることが大切になります。
私たち日本人は、歴史的にそのような、「解決案の良し悪しを見きわめる」と言う問題に直面した経験が多くありません。昔から、中国などの進んだ国々での歴史を調べると、日本が直面している問題に似た例が見つかり、それを真似ればよいことが、よくありました。このため、「ものをよく知っている人」が大切にされてきました。しかし、近年になって、日本が大きく発展し、新しい問題に直面することが増えたため、単に、「ものをよく知っている人」に聴いて、その意見に従ってものごとを進められる状況ではなくなってきています。最近では、私たちが直面している問題をよく理解して、自分で考えて、解決策を探し、それを実際にやることができる人が求められるようになりつつあります。
昭和の時代までの日本では、「昔はこうやった」とか「前の人たちは、このようにした」と言う「先例」とか「前例」に従うやり方が多かったため、たくさんの例を記憶して、その中から、最もよく似た例を探して、その問題に対する解決策を真似られる人が、優秀な人と言われました。最近では、そのような「先例」がなく、先例が役立たなくなりました。先例がある場合には、それを参考にすることは良いことですが、先例がない時には、自分で目の前の問題に思いをめぐらし、解決策を探して、そのような解決策の候補の中から最も良さそうなものを見きわめて、選び、その選んだ解決策を行わなければなりません。そのような場面では、何人かで思いをめぐらし、解決策を選ぶことが必要になります。
そのような解決法は、構造主義的なやり方で、問題を分解しながら、難しい問題を少しずつ解決がし易い、小さな問題へと分けてゆき、一つ一つの問題が簡単に解ける程度にまで分解されたところで、その分解で得られた一番下の水準の問題に焦点を当てて、解決してゆきます。つまり、問題を分割した図の一番下に描かれている四角に書かれた問題を、一つ一つ、順番に解決してゆきます。例として展開した「お伊勢参り」の問題では、分解した図の左端の一番下に、「街道を選ぶ」という問題があります。最初に、この問題を選んで、その解決策に思いをめぐらしましょう。この問題の場合、答えとしては、「東海道を選ぶ」と「中山道を選ぶ」のどちらかになるでしょう。東海道は江戸から京都までを海沿いに行く道です。中山道は、江戸から信州長野を経て、木曽路を通って関ヶ原を通る道です。
東海道を行く場合、小田原の先で箱根の山を越えなければなりません。箱根山の頂上には、有名な箱根の関所があり、通行手形を持っていなければ通れません。東海道は、距離が短かったため、往来する人も多く、幕府の警戒も厳しかったと言われています。さらに、通行する旅人が多かったこともあり、宿場の宿賃は少し高かったと言われています。中山道は、木曽の山道を通り抜けるため、道が険しく、距離も少し長かったようです。宿場町は多かったようですが、宿賃は安かったとされています。中山道には、碓井の関と木曽福島の関の二つの関所がありましたが、箱根程の厳重さはなかったようです。東海道には、安倍川のように、橋のない大きな川を渡る必要がありました。そのために専門の人を頼む必要がありました。
江戸から尾張名古屋までの道のりを考えると、以上のように、東海道を選ぶ道と中山道を選ぶ道があります。この2つの解決案を図2に表してあります。図2には、選択する街道の次の段に、それらの良さ悪さを見きわめるときに考えなければならない点について、「関所」、「難所」、「宿場」の3つの問題を挙げてあります。
図2に示されているように、それぞれの選択肢(せんたくし)の良し悪しについて、考えなければならない3つの問題が、四角の中に示されています。左側の東海道については、下の段の左側の四角に「関所」の問題が示されています。特に、箱根の関所では、取り調べの順番を待つための行列で、数日間、待たされるかも知れないことが書かれています。下の段の真ん中の四角には、東海道の難所である安倍川渡りが書かれています。川は、橋がかけられていなかったため、人足の背中に背負われて渡らなければなりませんでした。最後に、下の段の右側の四角に、東海道の宿場について、値段が高いことなどがかかれています。中段の右側に、中山道を選択する場合についての良い点と悪い点が書かれています。全体としては、次のようになります。
これらの点について心にとめ、よく考えて、どちらを選択するべきかを決める必要があります。最近のやり方では、これらの考えるべき点のそれぞれについて、数で点を付けてゆき、それらを足し合わせて、全体を見きわめるやり方が採られています。最近では、このようにすることで、しっかりとものごとを見つめ、自分の好き嫌いや勝手な思い込みで、誤って特定の案を選んでしまうことを防ぐようにしています。、
私たち人類は、思いをめぐらせることが、簡単なことではないことを知りました。それは、思いをめぐらせても、結論として得た思いに、しばしば誤りが入り込んでいたことに気づき、できるだけ誤りが入り込むことがないようにする方法について考えてきました。20世紀に入って、人類は、構造主義的な方法をとることで、誤りが入り込むことを多くの場合に防げることを確認しました。しかし、この構造主義的な方法は、どのような問題にも正しい方法かどうかは分かりません。数学や科学の問題のように、問題を明確な文で書き表すことができる場合には、役に立つ方法ですが、明確な文で書き表すことが難しい問題もあることは、事実です。