公開: 2020年5月8日
更新: 2020年6月15日
私たちは、思いをめぐらせる「ものごと」について、その「何について考えるべきか」を決めなければなりません。その「何について考えるべきか」を決めることができたら、次にすべきことは何でしょう。古代ギリシャの哲学者、アリストテレスは、その「答えを必要としている状況を調べ、それをはっきりと書くこと」だと述べました。
このアリストテレスのやり方は、「何が良い答えかは、それが必要とされている状況によって違ってくる」と言う考え方に基づいています。「全ての問題には、どのような場合にも「最も良い」と言える答えがある」と考えていた古代ギリシャの哲学者プラトンは、問題をよく考え、その問題の最も重要な部分を抜き出して、それを「新しいイデア」とするならば、必ずその「イデア」に対して最も良いと言える答えが見つかるとしています。
これらの考え方は、どちらも「間違っている」とは言えないでしょう。数学の問題であれば、プラトンの考えは正しいと言えるでしょう。しかし、実際の宇宙の問題を考えている物理学では、アリストテレスの考え方の方が、合っていると言えます。それは、物理学の場合、「今のところ、これが最も正しそうな答えです」と言う答えを探しているからです。
私たち人間が答えなければならない問題の多くは、数学の問題よりも、物理学の問題に似ています。ですから、私たちが解かなければならない問題の多くは、その答えを必要としている状況を踏まえて、その状況に合った答えを探すことが大切な場合が多いでしょう。そのような、私たちがしばしば解くことを求められる状況の中で、私たちが「思いをめぐらせるべきこと」について考えてみましょう。
私たちは、思いをめぐらせる「ものごと」について、最初に、その「何について考えるべきか」を決めなければなりません。その「何について考えるべきか」を決めることができたら、次にすべきことは何でしょうか。古代ギリシャの哲学者、アリストテレスは、その「答えを必要としている状況を調べ、それをはっきりと書くこと」だと言いました。これに対して、古代ギリシャを代表するもう一人の哲学者プラトンは、「答えを必要としている人々が置かれた状況を調べあげ、それらの様々な状況に「共通して言えること」を探し出し、はっきりと書くこと」であると教えました。
現代の専門家達は、プラトンやアリストテレスたちが言った、そのような「状況」のことを、「スコープ」と言う「条件」に関する言葉と、「ステークホルダー」と言う「誰が」に関する言葉で表しています。「スコープ」は、思いをめぐらさなければならない人々の考え方、国々の歴史や文化、考えなければならない場所が、どこからどこまでかを意味する場所の範囲、そして考えなければならない時間が、いつからいつまでかを意味する時間の範囲、などを意味する言葉です。「ステークホルダー」は、何かを行うとき、そのことによって何かを得たり、何かを失ったりする、損をしたり得をしたりする様々な人々のことを指す言葉です。「スコープ」は、思いをめぐらせるとき、私たちがどこまで考えておかなければならないのかを決めます。「ステークホルダー」は、めぐらせた思いに基づいて、私たちが何かをしようとする場合。そのことによって損をするかも知れない人々にそのことを知っておいてもらうため、予めそのことを説明し、分かっておいてもらわなければなりません。
例えば、医師がけが人を助けようとしている時、どのけが人から手当をするのかの、順番を決めなければなりません。飛行機や電車の事故などで、多数のけが人が出ている場合、誰を最初に助け出し、手当てするべきなのかを決め、全てのけが人にそのことを分かってもらっておかなければなりません。この順番の決め方としては、重大なケガをしている人、そして命を助けられる見込みがある人、命が助かってからも長く生きられそうな人から手当をするのが普通です。つまり、命を救えそうな重症の患者で、若い人から先に手当を始めるのが普通です。助けなければならない人の数が多く、医師の数、病院のペッド数が限られている場合、災害の現場では、このような「助けるべき人々の順番決め」が行われます。
2020年の冬に、中国から始まり、急速にヨーロッパ諸国で広まった「新型コロナウイルス感染症」の治療では、イタリアなどのいくつかの国々で、医師の不足、病院の不足、人工呼吸器の不足などのため、治療する患者を病院の医師が決めなければならない状況に追い込まれました。つまり、手当を受けられずに死を迎えるしかなかった病人も多くいたのです。この場合、病気をなおす医師や看護師(かんごし)や、コロナウイルスに感染した患者が、全員、「ステークホルダー」です。さらに言えば、コロナウイルスに感染していなくても、感染するかもしれない他の国民も、ステークホルダーと言えます。そのような場合、国民の多くが受け入れ、納得(なっとく)して受け入れられる「助けるべき人々の順番決め」の方法を見つけ出すことが大切になります。
私たちが思いをめぐらせるときに、心にとめておかなければならないことの一つに、「スコープ」があると説明しましたが、このスコープは、思いをめぐらせて、解決を見つけ出すときに、その解決のやり方や見つけ出された「もの」が守らなければならない「やくそく」を意味しています。つまり、どのような人々がそのやり方を行って、問題を解決するのかや、そのやり方で問題を解決しなければならない国や地方、場所はどこなのかなどかです。さらに言えば、そのやり方で問題を解決しようとしているのは、どんな時代なのかも関係があります。全く同じ問題であっても、それをやる時代が、縄文時代の日本なのか、平安時代なのか、鎌倉や室町時代なのか、江戸時代なのか、明治時代なのか、第2次世界大戦後の日本なのかで、何が良い「答え」なのかは変わってきます。経済的に発展した第2次世界大戦後の日本と、それ以前の日本とでは、守るべき法律や道徳など、社会の様子やルールが全く違うからです。
江戸時代の末期、日本の社会では、「鎖国を止めて、海外の国々と交流した方が日本は発展できる」と考える「開国派」の人々と、「古来からの日本独自の文化を守り、鎖国を維持した方が、良い国になる」と考える「攘夷派(じょういは)」の人々がいました。特に、幕府の勢力を倒そうとしていた長州藩の人々には、もともと「攘夷派」の人が多かったのですが、実際に江戸幕府が倒れて、自分たちが日本を治めるようになると、「攘夷派」の人々でも少しずつ「開国派」の考え方に変わってゆきました。それは、日本の社会を発展させるためには、ヨーロッパ諸国の進んだ技術や習慣を取り入れて、産業を活発にして、国を豊かにしてゆかなければ、日本が世界の国々との競争に負けてしまうことが分かったからです。負けた幕府の役人の中には、勝海舟(かつかいしゅう)のように「開国しなければ、日本は発展できない」と考えていた人も少なくありませんでした。実際に、徳川幕府に開国を迫(せま)った米国のペリー提督(ていとく)が率いてきた米国艦隊の軍艦を見て、日本と世界の国々との戦力の差を実感していたからです。
しかし、明治維新を起こしたときの「攘夷派」のもともとの考え方は、明治になってからも根強く、人々の心の中に残りました。特に、1905年のポーツマス条約締結によって、大国ロシアとの日露戦争に勝って、日本の国民は日本の国力を実際よりも高く考えるようになりました。実際には、ロシアとの戦争には、「勝った」と言える状況ではなかったのですが、ロシアとの停戦条約締結に成功したことで、日本国民は「ロシアとの戦争に勝った」と考え違いしたのです。そして、少しずつ「攘夷派」的な考え方に傾いてゆきました。特に、日本の国が、天皇を中心とした『神の国』であると信じる国民が多くなりました。このことが、第2次世界大戦で、日本が米国との戦争を始める原因になりました。当時の日米の国力の差を考えれば、それが無謀(むぼう)なものであったことは、否定できません。しかし、その人々は、「日本は『神の国」だから、日米の戦いには負けない」と信じていたようです。
私たち日本人には、この「スコープ」を明らかにして、思いをめぐらせるという習慣がありません。ですから、歴史的に見ても、日本人は似たような誤りを何度も繰り返しています。第2次世界大戦で、米国との戦争を始めるとき、日本の政府は、当時の米国の経済力との差を考えると、2年間以上の戦争を続けることができないことは、分かっていました。それでも戦争を始めるやり方をとりました。しかし、「戦争を始める」場合、どのようにしてその戦争を終わらせるのかの方針がなければなりません。その方針を決めるためには、戦争の相手国にどのような国々を予め考えておくのかや、何年ぐらい続く戦争を考えるか、どれくらいの戦費を予め考えるかなどについて、全体的な様子を描いておく必要があります。これが、「スコープ」です。そのような「スコープ」を決めずに戦争を始めた場合、戦争をいつ止めるのかがきまっていないので、ずるずると泥沼状態(どろぬまじょうたい)に陥(おちい)ります。
日本人全体に、ものごとを思うとき、そのような「スコープ」に当たることをしっかりと考える習慣がなかったことは、もともと日本語にそのようなことを意味する言葉がなかったことが関係しているでしょう。私たち人間は、言葉がなければ、そのことを意識して考えることができないからです。今から2,000年以上も前に、プラトンやアリストテレスたちが、ものごとにどう思いをめぐらせれば良いのかについて考え、そのやり方を整理して、弟子たちに教えようと努力した結果、数多くの「新しい言葉」を作り出しました。古代の日本では、そのように「どのように思いをめぐらせるべきか」を深く考え、整理した人々がいませんでした。その結果、最近になってヨーロッパやアメリカから、「どのように思いをめぐらせるべきか」についての教えが伝えられるようになって、初めてそのことに思いをめぐらせるようになりました。ですから、日本語にはなかった意味の言葉が、入ってきました。その言葉をカタカナ語にして、そのまま使わざるをえませんでした。
ところで、「ステークホルダー」と「スコープ」との間には、強い関係があります。「ステークホルダー」が決まらなければ、「スコープ」を決めることができない。と言う関係です。「思いをめぐらさなければならない人々」、すなわち「誰が得をして、誰が損をするのか」を明らかにできなければ、「スコープ」を明らかにすることはできません。戦争を始める場合でも、その戦争をすることで、誰の得になり、誰が損をするのかを明らかにして、戦争に勝った場合に得られる「得」と、戦争によって失われる「損」に思いをめぐらせながら、どの国々を相手として、どの国々と手を組んで、何年間ぐらいをかけて、との程度の「お金」をかけて、戦うのかを考えなければならないのです。第2次世界大戦では、日本はドイツと手を組んで、中国、アメリカ、イギリス、オランダ、フランス、そして当時のソ連などを相手にして、戦うことになりました。この戦いで「得ようとした」のは、中国大陸東北部において日本が持っていた「利権」(りけん)でした。失われるかも知れなかったものは、兵士として戦う日本人の「生命と財産」だけでした。
第2次世界大戦が始まる以前、日本の国民には、自分たちが「ステークホルダー」であると主張する「つもり」はありませんでした。ですから、日本の政府は、日本政府の中国大陸における利権だけを考えて、中国東北部での戦いを始めたようです。この戦いが長引き、戦争は中国全土に広がりました。そして、アメリカ合衆国政府による、日本と中国との戦争の終結のための調停(ちょうてい)が不調に終わると、ヒットラーが率いていたナチス・ドイツと手を組み、シンガポールを占拠していたイギリス軍や、ハワイに巨大な基地を持っていたアメリカ合衆国を攻めて、連合国との戦争を始めました。「中国大陸で、長年に渡り、日本政府の持つ利権を維持(いじ)する」と言う元々の主旨を考えれば、イギリスやアメリカが、中国軍を支援していたとは言え、これらの国々を相手に戦争を始め、日本と不可侵条約を結んでいたソ連をも敵に回して、4年間に渡って戦争を続け、東京大空襲、沖縄での地上戦、広島・長崎への原爆投下で、50万人以上の一般市民の生命をも失う理由はありませんでした。
世界情勢に変化が生じた時、当初に考えていた「スコープ」の前提になっていた状況は変わってしまったので、もう一度、「スコープ」をどのように変えるのかについて、よく考えなければなりません。中国と日本との戦争で言えば、日本と中国との戦争から、日本軍がハワイのアメリカ艦隊を襲撃(しゅうげき)して第2次世界大戦に突入(とつにゅう)した時こそ、そのような「スコープ」の変化をしっかりと考えるべき時でした。この時、日本の政府の中では、ソ連のスパイであったゾルゲと関係のあった新聞記者が逮捕され、その記者が近衛文麿首相と関係が深かったため、首相の責任問題に進展して、近衛内閣が総辞職(そうじしょく)しました。そして、東條英機陸軍大臣が首相に座に着きました。この時、近衛内閣で決めていた、日米開戦の条件をそのまま当てはめて、1941年12月の日米開戦が、十分な検討がされないまま決定されました。このことは、当時の日本人には、「スコープ」の重要性が分かっていなかったことを示しています。
この米国との開戦を決定した会議で、当時の昭和天皇は、「日本は米国と戦って勝てるのか」と質問したそうです。当時の日本政府の責任者達の中には、「勝てます」と断言できた人はいなかったようです。しかし、「勝てません」と言った人もいませんでした。そのような「あいまい」とした会議の流れの中で、既に決められていた「1941年10月までに米国政府の譲歩(じょうほ)が得られなければ、開戦準備に入る」と言う方針に従って、開戦が決まったようです。これは、天皇が開戦を決定したかのように見えますが、実態は、首相が開戦案を提案し、会議に参加していた首脳達の間に、積極的な反対がなかったので、「開戦が決まった」と言うことなのです。天皇は、「中国との戦争は短期に終わる」と聞いていたものの、何年も続いており、米国との戦争に勝つ見込みがあるとも思えなかったため、その思いを、「米国との戦いに勝てるのか」と言う質問に込めたようです。しかし、その思いは、当時の政府首脳達には無視されたようでした。明治時代に制定された大日本帝国憲法では、天皇は内閣の決定を「くつがえす」ことはできないようになっていたからでした。
私たちが、ものごとに思いをめぐらし、その結果に基づいて何かをしようとする時、もの思いをめぐらし始める前に、そのことによって、得をしたり損をしたりする人々が誰なのかを明らかにし、そのことに基づいて「スコープ」を明らかにして、言葉で書き表さなければなりません。さらに、思いをめぐらしている間に、その「スコープ」を変化させるようなできごとや、新しい気づきがあった場合には、最初から「スコープ」を考え直し、書き直さなければなりません。「ステークホルダー」についても似たようなことが言えます。思いをめぐらしている途中で、それによって得する人、損をする人が増えたり、減ったりすることがあります。特に、「スコープ」を明らかにしようと思いをめぐらしている時に、新しいステークホルダーがいたことに気づくことがあります。そのような場合、「ステークホルダー」の一覧表を書き変え、その新しい表に基づいて「スコープ」を書き直すようにしなければなりません。このような手順をしっかりと踏まなければ、しっかりとした思いをめぐらせることはできません。
アリストテレスは、ステークホルダーが変われば、どんな思いをめぐらせることが「正しい」のかの結論も変わってしまうと主張して、プラトンのイデア論が言う、誰がステークホルダーであっても、変わることのない絶対的な真理は存在しないと教えました。プラトンは、何が正しいかは、様々な場面に登場するステークホルダーの特徴をよく調べ、そのステークホルダーの共通点から、そのイデアを見つけ出すことによって、問題のイデアによく合った解決策を見つけ出すことができると主張していました。個々のステークホルダーを考えるよりも、それを代表するイデアを探し、それらの「ステークホルダーのイデア」を考えたスコープを思い、思いをめぐらせることこそに、問題解決の本当の意味があると考えていたようです。ステークホルダーのイデアを、どこまで細かく考えるかが違っていたようです。アリストテレスは、「人間」のような余りに広い意味をもったイデアを考えると、個々の問題に対する答えとしての意味は失われると主張したのでしょう。
アリストテレスとプラトンの教えの違いは、「ステークホルダー」としてどのような人々を考えるのか、「スコープ」としてどの世界の、どの国の、いつの時代を考えるべきかについての、基本的な態度の違いがあったと言えます。アリストテレスは、ある国の王や市民が、どの時代に、どのような状況で、どのようにして考えるべきかについて思いをめぐらせました。プラトンは、ギリシャの市民の見方を基本にしながらも、将来の全世界の人間を対象として、時代には関わらずに、皆がどうのように思いをめぐらせるべきかについて教えました。アリストテレスの立場は、より具体的な見方から、より具体的な疑問に答えるために大切なことを述べることでした。プラトンは、全ての人間にとって、より大切と思われる疑問について、どう思いをめぐらせれば良いのかについて教えました。プラトンは、個々の問題を解決することよりも、「人間としてどう思いをめぐらせるべきか」の問題を大切にしたようです。これは、プラトンが若い時に数学を学んだことから来ていると思われます。