生きる力 〜 我々は物事をどう思い、どう振舞えばよいか

公開: 2020年4月28日

更新: 2020年6月15日

あらまし

私たちは、思いをめぐらせる「ものごと」について、これまでの人々は、その「ものごと」をどのようにとらえ、それに対してどのように振る舞ったのかを振り返って見ることです。このことによって、私たちの頭の中で、自分は何について思いをめぐらせるべきかの考えがまとまってきます。

「何について考えるべきか」とは、普通、これまでの人々が何に注意して「ものごと」に思いをめぐらせていたのかを振り返ることで、これまでの人々が見逃していたことや、見誤っていたことに気づくことから始まります。これまでの人々が、こう考えるべきだと思っていたことに、落とし穴があったことに気づくからです。

この「気づき」こそが、新しい考え方の始まりと言えます。その「気づき」こそが、新しい思いのめぐらせ方について、何に注意して、何を問題にすれば、ものごとに思いをめぐらして、そのことについて、本当に正しいと言える答えに、私たちを導いてくれるきっかけになります。

何に答えるべきかを決める: 問題を明らかにする
これまでの人々が、その「ものごと」をどのように「とらえ」、「どのように振る舞うこと」を、正しいと思っていたのかを、調べることについて考えてみました。それは、似たようなこと、同じことについて、これまでの人々はどのように思いをめぐらせ、どのような思いに至ったのかを調べて、それを書くことでした。このことによって、すでに、誰かが思いをめぐらせ、答えを得ているかもしれないことについて、もう一度、同じことをする無駄をはぶき、もっと良い答えを見出すようにします。

「もっと良い」答えとは、思いをめぐらしていることに対するいくつかの答えの中でも、今までの答えよりも、より多くの場合にも正しい答えとなるものであったり、今までの答えよりも、もっと詳しい答えを与えるやり方であったり、今までの答えよりも、もっと簡単に答えが得られるやり方であったりします。多くの場合、これらのやり方は、これまで多くの人々がやっていた思いのめぐらせ方をよく調べて、古いやり方の無駄をはぶいたり、新しいやり方を入れて良くしたりすることで成しとげられたりします。

つまり、これまでの普通の考えでは、「こうすることが当たり前」と信じられていた部分を、ひとつひとつ確認をして、それらが本当に大切なものであることを確認することです。もし、それらの中に、本当に大切なもので、無くてはならないものがあった時には、もっと良いものに置きかえられるからです。これは、これまで人類が行って来た道具の「改良」のやり方を、「思いをめぐらせる」問題に当てはめて、やってみようとするものです。どう変えるかは、あまり大切な問題ではなく、変えられものを変えて、その結果を見ることで、新しいやり方を見つけ出すやり方です。その問題について考えましょう。

その第一歩として私たちが思うべきことは、注目している「ものごと」について「これまでの見方や、考え方には間違いがあった」かも知れないということです。そのものごとについて思いをめぐらせているやり方のどこかに、「何か間違いが入り込んでいる」と思うことで、古いやり方では、正しくない答えが与えられ、それをやってみても「うまくゆかない」場合があると言うことです。このような「間違い」は、難しい問題を考えるとき、人間がよく起こすもので、長い間、その間違いに気づかないことがしばしばです。例えば、「地球は平らな板のようなもの」であるとする考えや、「地球は止まっていて、天が回っている」と言う考えなどです。

私たちの祖先は、「地球が平らである」と信じていました。それは、大きな地球の上を歩いている時、その大地が球のような形をしているとは、思えないからでした。しかし、砂漠を旅する人々や、海を船で航海する人々は、遠くから近づいてくる人々や船が、地平線や水平線の向こうから現れてくることに気づいていました。それは、地球が球体であることを物語っていました。そしてそのことは、深い井戸の水面に太陽の光が当たる時間が、場所によって少しずつ違っていることからも分かりました。こうして、古代ギリシャ時代に、地球の大体の大きさを計算することができていました。「地球が平らである」と考えることは、地球が巨大な球であることから、その一部分を見ると、「平らであるかのように見える」ことから自然なことでした。

古代ギリシャの数学者、エウクレイデスは、そのようなことから、紙の上に描かれる図形の性質について考えました。これを基本としているのが、「ユークリッドの平面幾何学」です。ユークリッドの平面幾何学では、平行線は長さを無限に伸ばしても、交わることはありません。三角形も平面上の三本の直線によって作られる図形です。しかし、そのような三角形でも、巨大な球形の表面上に描かれたものは、少し違います。平面図形では、どこまで延ばしても交わらない2本の平行線も、巨大な球体の表面上では、球の中心を円の中心とした同心円の大きな弧の部分になっています。ですから、球体上の平行線は、球の頂点(地球の北極と南極)で交わります。平行線が描かれている大きさが限られた平面上でのみ、二本の平行線は交わらないのです。地球で言えば、東経135度と136度の経線は、北緯36度の緯度上では、平行線ですが、北極と南極では交わっています。

これらの議論のように、それぞれの問題は、ある見方でそのものごとに思いをめぐらせている時、その思いのめぐらせ方自体に必ずしも誤りがないとしても、全く異なる見方から思いをめぐらせてみると、その思いのめぐらせ方や、そのもの思いめぐらせて得た結果は、正しくないこともあります。これは、平面が四角い紙のようなものであると考えることが当たり前とするか、地球のような巨大な球体の表面の一部に広げられた平面であるかの違いから生じる問題と同じです。このようなことは、現実の世界では、しばしば起こる問題です。20世紀の物理学で最も大きな貢献(こうけん)をしたとされているアインシュタイン博士の相対性理論も、宇宙空間に重力の「ゆがみ」があるのではないかと言う、空間の「ゆがみ」を考えに入れることで、それまでの物理学とは異なる結論に到達しました。

このように、ものごとに思いをめぐらせるとき、どのような条件が成り立つ場面や状況での問題を考えるかで、思いをめぐらせる道筋(みちすじ)や、その結果に大きな違いを生み出すことがあります。そのようなことから、ものごとに思いをめぐらせようとするとき、私たちは、どのような状況で、どのようなことが「当たり前」に成り立つとされる状況を考えるかをはっきりとさせ、これまでの人々が行って来た思いのめぐらせ方と、私たち自身が行おうとしている思いのめぐらせ方との違いを、言葉で書くことが大切です。そうしなければ、ものごとをどのように考えてゆくことが「良いのか」、「当たり前」なのかが決まらなくなります。このような、ものごとに思いをめぐらせるときに、その問題を考えるときに、「当たり前」に成り立つものとする状況や条件のことを、専門的な言葉で、「前提」(ぜんてい)と呼びます。

つまり、ここで大切だと考えられていることは、私たちがものごとに思いをめぐらせるとき、これまでの人々が行って来た思いのめぐらせ方と、新しい思いのめぐらせ方の違いをはっきりとさせるために、それぞれの考えの「前提」のどこに違いがあるのかに注意をしなければならないと言うこどです。普通、これまでの人々が思いをめぐらせてたどり着いた結論と、私たちが得た結論に大きな違いがある場合、その違いの原因は、この「前提」の違いにある場合が多いのです。アインシュタイン博士の相対性理論が、それまでの物理学の理論と違う原因も、この「前提」の違いによって生じたものです。その理由から、現実の宇宙空間では、光は直進するのではなく、空間のゆがみによって、最も速く観察者に到達する道を選んで進んでいるのです。日食の時に、太陽の裏側に隠れているはずの星の輝きが見えるのは、光が太陽の重力で曲がって進んでいるからなのです。

もちろん、私たちがものごとに思いをめぐらせるとき、私たちは思いをめぐらせている途中で、間違いを起こすことがあります。これは、専門用語で、「論理的な誤り」とか「推論(すいろん)の誤り」と呼ばれるものです。例えば、私たちは、「動物は、死ぬ」と「人間は、動物である」の2つの言葉で表された正しい説明から、「人間は、死ぬ」と言う正しい結論が得られることを知っています。これは、「Aであれば、Bが成り立つ」と「Bであれば、Cが成り立つ」から、「Aであれば、Cが成り立つ」が正しいことを導く推論のやり方を使った言い方です。しかし、「動物は、走ることができる」、「人は、動物である」、「山田太郎さんは、人間です」、から「山田太郎さんは、走ることができる」も、正しい説明と言えるでしょうか。ちょっと見ると、正しそうなこの説明も、山田太郎さんは「寝たきりの病気で、走ることができない」状態だとすれば、間違った説明になります。

これは、「動物は、走ることができる」と言う、動物ができることについての説明が、いつも正しいものではなく、「元気な動物」や「普通の動物」に限って正しいと言える説明なので、そのことは、「動物としての人間」にも当てはまり、「元気な人間」や「普通の人間」について成り立つ説明だということが分かります。これは、「動物は、走ることができる」と言う「前提」の書き方が精確(せいかく)でないために起こる問題ですが、私たちはこのような間違いを時々してしまいます。そして、その説明が、多くの場合は正しいことから、「どんなときにも正しい」と信じ込んでいることも珍しくありません。私たちが信じている迷信などには、そのようにして生まれ、私たちの社会に根付いてしまった習慣や人々の「くせ」のようなものがたくさん残っています。たとえば、インフルエンザに感染しないようにつける「マスク」なども、その例です。

1918年から世界中に流行した「スペイン風邪(かぜ)」は、新しいインフルエンザでした。このウイルスは、当時の日本にも上陸し、結果として数十万人の人が死んだと記録されています。このスペイン風邪が日本で流行したとき、日本国内では、「手洗い、うがい、マスク」が予防のための方法として、広く伝えられました。しかし、空気感染するインフルエンザのウイルス対策として、「マスク」はほとんど役にたちません。空気中に漂(ただよ)うウイルスは、マスクの網の目を通り抜けるほど小さいからです。日本では、毎年、冬になるとインフルエンザが流行します。イスンフルエンザが流行する季節になると、人々は「マスク」をして町を歩くようになります。これは、スペイン風邪の時の習慣が残ったためだと言われています。その当時は、「マスクをしない人は、非国民だ」と強く非難されたそうです。厳密に言うと、「動物は、走ることができる」は、「動物の中には、走ることができるものがいる」が正しい表現になります。

さらに、説明の中には「詭弁(きべん)」と呼ばれる説明の仕方を使った、巧妙(こうみょう)な嘘(うそ)が忍び込まされているものもあります。古代ギリシャでは、「詭弁」をうまく使うことを訓練された哲学者もいたそうです。例えば、「アキレスと亀」と言う有名な問題があります。アキレスは、とても速く走れる神様なので、普通の人では追いつけません。しかし、「普通の人よりも遅い亀に、アキレスも追いつけない」と言うことを主張するのが、「詭弁」の例です。最初に、亀が少し先に出発点を出ます。少し遅れてアキレスは、亀を追いかけます。アキレスが亀がいた場所に到着すると、亀はもっと先に進んでいます。アキレスがその亀を追って、その場所に着いたときには、亀はもっと先の場所に行っています。これを無限に繰(く)り返しても、アキレスは亀を追い抜けないのです。このような説明を使うのが「詭弁」です。

私たちは、アキレスならば、簡単に亀を追い抜くことを知っています。ですから、このたとえ話が本当ではないことを経験的に知っています。とは言え、この「詭弁」が誤りであることを証明することは、簡単ではありません。実は、このたとえ話には、時間の見方が取り除かれています。その代わりに、説明の回数が問題にされています。説明は、アキレスが亀に追いつくまでの話を、時間ではなく、説明の回数に置き換えて話しています。しかし、実際には、その説明がされている時間の間隔(かんかく)は、どんどん小さくなってゆき、最後はほとんどゼロに近づいてゆきます。ですから、アキレスが亀に追いつくまでの説明としては正しいのですが、アキレスが亀に追いついてからの話には、全く触れていないのです。このような、やり方で、私たちの思いのめぐらせ方を誤らせる、やり方もあります。これは、私たちの経験に照らし合わせることで、間違いに気づくことができます。

私たちは、思いをめぐらせようとするとき、これまでに他の人々が行って来た思いのめぐらせ方を調べ、私たち自身が行うべき思いのめぐらせ方や、思いをめぐらせるべき問題をはっきりと決めます。そして、そこで明らかになった問題を解くように思いをめぐらせなければなりません。すなわち、これまでの人々が行って来た思いのめぐらし方での「前提」の違い、「推論の誤り」、そして「詭弁」の方法を使った議論など、自分たちが思うやり方ではない方法での議論を見出した場合には、そのことを明らかにして、自分たちが正しいと思うやり方で、思いをめぐらし、結論を導くべきです。このやり方は、問題がどのようなものであるかに関わらず、同じようなやり方で進められるため、その進め方を知っておくことは、これからの時代に生きる私たちには、とても大切なものです。

(つづく)