生きる力 〜 我々は物事をどう思い、どう振舞えばよいか

公開: 2020年7月4日

更新: 2020年7月6日

あらまし

古代ギリシャの哲学者、ソクラテスは、「人間は正しく考えるだけでは十分ではない。正しく振舞ってこそ徳のある人と言える。」と教えました。ソクラテス以後の哲学者は、「倫理的であるとは、正しく考え、行動することである。」としてきました。そして、ソクラテスを含めて、多くの哲学者は、「正しい行動を行うには、勇気が必要である。」と言っています。

これまで、私たちは、主に「正しく考える」ために、何を、どうすれば良いのかについて、これまでの人類の歴史を通して、人間が考えてきたことについて説明してきました。それは、私たちがどのように「思いをめぐらせる」ことが、失敗の少ない、間違えないやり方なのかについての議論でした。

ここでは、最後の議論として、「正しく振舞う」ことについて考えてみましょう。人類の歴史を振り返ると、古代ローマ帝国が滅びた後、長い中世の時代を通じて、ヨーロッパの社会には、キリスト教の教えに基づいた倫理観が根付きました。その結果、全知全能の神が、「正しい答えを知っている」、その答えは「時間や場所によって変わらない」絶対的なものであることが前提でした。

古代ギリシャの哲学者であるソクラテスやプラトンも、真実は絶対的なものであり、時間や場所が変わっても、「何が正しいか」は変わらないと考えていました。そして、18世紀の中頃になって、ダーウィンが進化論を唱えるまで、この信念は、ほとんどの人間が信じていたものでした。

ダーウィンの進化論以後の世界では、「絶対的な真実があるとは限らない」を前提として、「何が正しい考えであり、何が正しい行動であるか」を考えながら、私たち人間は、生きてゆかなければならないことを知りました。19世紀の末、アメリカの哲学者達は、その進化論を考えに入れた、新しい考え方を生み出し、「ブラグマティズム」と名付けました。

この「我々はものごとをどう思い、どう振舞えばよいか」の議論の締めくくりとして、「正しく行動すること」の難しさを、もう一度確認するとともに、プラグマティズムの考えを取り入れて、必ずしも正しい答えが決まっていない状況の中で、私たち人間はどのように振る舞い、どのように思いをめぐらせばよいかについての手がかりをまとめてみましょう。

正しく振舞う: 「考える」から「行う」へ

私たちは、何のために思いをめぐらせるのでしょう。人間以外の動物は、ものごとを考えることがありません。このものごとを考えること、ものごとに思いをめぐらせるために人間が獲得した能力を「理性」と呼びます。「理性」とは、ものごとを理屈で考える能力で、自分だけが分かるやり方ではなく、ほかの人々にも分かるように説明できるやり方で考える能力です。他の人にも分かるように説明するためは、言葉を使って説明できなければなりません。この言葉を使って説明できることが、とても重要です。人間は、言葉を使うことができますが、人間以外の動物には、言葉を自由に操(あやつ)って、ものごとを説明することはできません。また、その必要もありません。

アメリカの心理学者マズローは、人間が何かを行う時、人間がその行(おこな)いをする動機(どうき)となる力に、いくつかの異なる種類があることを説明しました。それらは、いくつかの層からなっていて、最も奥深い層には、人間の動物としての本能に直接、つながっている行動があり、最も表面に近い層には、動物としてよりも人間として、「理性」だけに基づいた行動があります。この理性だけに基づいた行動は、古代ギリシャの哲学者であるソクラテスが述べた「徳」に直接、つながっているもので、ソクラテスが言った「徳を為(な)す」と言う表現に近いものです。この2つの最下層と最上層の間に、動物の本能に近い、「自分の身の安全を守る」行動の層、「人間社会の一員として認められる」ことを望む行動の層、そして、「人間社会の中での自分の存在をしっかりと認めてもらう」ことを望む行動の層があるとしました。

古代ギリシャの哲学者、ソクラテスが言った、「徳を為す」と言う言葉の意味は、マズローの言葉では、「理性だけに基づいて、自分の思う通りに振舞う」となります。これは、誰かに言われたことをするのでもなく、他の人々からの尊敬を受けられることを考えて行う行動ではなく、自分自身が、「自分はこうすべきである」と考えて、行う行動です。それが、思い通りにできることを、マズローは、「自己実現」と呼びました。「自分らしく生きる」ことができるようになったことを言います。マズローは、この自己実現に至ることが、人間として最も崇高(すうこう)な、生き方であり、全ての人間が、それを目標としているとしました。

ソクラテスが言った「徳を為す」とは、川で溺れそうになっている人を見た時、その人を助けるために川へ飛び込み、泳いでいって、その人の背後に回って、沈みそうな人の体を支えて、岸まで泳いで戻って来るようなことを、勇気をもって、自分からやることができることを言います。もちろん、自分自身が泳ぎに自信がなく、溺れている人を岸にまでつれてくることができなければ、「助ける」と言う目標を達成できないので、むしろ、他の人の力を借りる方が良いと言えます。この時、自分の泳力で、溺れている人の所まで行き、溺れている人を助けて、岸まで泳ぎ着くことができるかどうかの判断が大切になります。やみくもに、川に飛び込めば良いと言うわけではありません。自分自身の命も無駄にしてはならないのです。

マズローが言った欲求の5段階説では、上位の欲求を満足させるためには、下位の欲求を抑え込まなければならないことがあります。例えば、上の例で、溺れている人を助けて、岸に泳ぎ着くためには、それに十分な泳力がなければなりません。その泳力がなければ、溺れている人も、自分も、溺れ死んでしまうかもしれないからです。仮に、自分の泳力で、溺れている人の所まで泳ぎ、岸に泳ぎ帰ることができても、溺れている人が、恐ろしさのあまり、自分に抱きついてしまうと、自分自身も泳ぐこができなくなり、溺れてしまうかも知れません。つまり、この場合、助けると言う行為は、自分自身の命を無駄にしてしまうかもしれないのです。この場合、人間として「溺れている人を助ける」ことは、正しい行為ですが、それに失敗すれば、「自分の命をも失う」ことになるかもしれません。自分の命を守ることは、マズローの欲求としては、最も下層の「動物としての本能」ですから、最も上層の「人間として正しい行いをする」ためには、最下層の欲求を押さえ込んで行うことになります。

私たちにとって、「正しく振舞う」ことは、決して簡単にできることではありません。それは、この溺れている人を助ける例で分かるように、「助ける」ためには、動物としての本能である「命を守る」態度を諦めなければならないことが、しばしばだからです。これほどでなくても、何か正しいことをするために、自分の財産の一部を捨てることが必要になることもあります。例えば、町でお金に困っている人を見て、その人のために自分が持っているお金を渡すなどです。これは、自分の命や健康を犠牲にしなくても、「財産の一部を分け与える」ことで、他の人の窮地(きゅうち)を救える場合があるからです。そのように、正しく振舞うためには、何かしら自分自身に犠牲(ぎせい)を強(し)いることになる例は、よくあります。この自分自身の犠牲(ぎせい)を甘(あま)んじて、受け入れることは、動物としての私たちの心を揺(ゆ)さぶります。それを抑えて、あえて行うことは、誰にでも、簡単にできることではありません。例えば、電車の中で、体の弱い人に、自分の席を譲(ゆず)るだけでも、勇気が必要になります。

また、「正しい答え」は、いつも簡単に見つかるわけではありません。私たちが生きてゆく時、直面する問題には、答えが最初から分かるような問題ばかりではありません。電車の中で、自分が座っている席を譲(ゆず)る場合でも、皆さんが座っている近くに、目の見えない人と、足の悪い人が立っているかも知れません。その場合、あなたは、どちらの人に席を譲るべきだと考えますか。立っていることが苦痛だと言う点では、足が不自由な人の方が、座ることの「ありがたみ」は大きいかも知れません。しかし、何か起った時、より大きな不自由さを味わうのは、目の見えない人です。周(まわ)りで何が起きているのかを、見て判断することができないからです。このどちらの問題をより、重要だと考えるかで、誰に席を譲(ゆず)るべきかが変わります。また、あなたの周(まわ)りに、もう一人、席を譲(ゆず)れる人がいるかいないかでも、どう振舞うべきかはかわります。

「正しい答え」を見つけ出せても、それを思った通りに行うことが難しいこともしばしばあります。1941年頃の日本社会では、日本が対米戦争に着手すべきだと考える人が大多数でした。さらに、戦争開始にあからさまに反対すれば、「非国民」と呼ばれ、あなた自身も、あなたの家族の人々も、社会から排除(はいじょ)されたでしょう。場合によっては、国家への反逆を狙(ねら)う人として、警察によって逮捕されたかも知れません。似たようなことは、現代の中国の社会や、北朝鮮の社会でも起っています。場合によって、国家が、国民に対して、全ての国民が、政府の方針に従って振舞うことを要求することがあります。そのような状況でも、自分が正しいと信じていることを、信じているように振舞うことこそが、「正しい振舞」と考えるべきでしょう。ソクラテスやプラトンは、「正しい振舞」は、国家や時代によって変わらないと教えました。アリストテレスは、「正しい振舞」は、国家や時代によって変わるかも知れないと教えました。何が正しいかを考えることも簡単ではなく、正しいことを行うことも簡単ではありません。

なぜ私たちは、私たちが思ったように振舞えないことがあるのでしょうか。それは、何が正しい振舞かを決めることが簡単ではなく、正しそうな答えがいくつかある場合が多いからです。難しい問題になれば、なるほど、正しそうな答えの数は増えるのが普通です。その、いくつかある正しそうな答えの中から、選ぶべき答えを探し出すためには、すでに議論したように、関わる人々に思いをめぐらせ、どのような見方に重きを置いて答えを選ぶべきかを、よく考えなければなりません。それは、関わりのある人々によって、その立場の違いから、何が重要であるのかの「重きの置き方」が変わるからです。そのことをよく考えて、どの答えを選ぶべきか、さらに、互いに反対の立場にある人々が、お互いに自分たちの主張の大切な部分を守りながらも、相手の立場に思いをめぐらし、相手の主張の大切な部分も取り入れた、互いに譲(ゆず)り合える答えを、弁証法によって見つけ出すことも大切です。

人々の間で対立する見方の違いとして、典型的な例があります。例えば、現在、起きている問題に焦点を当てて考える人々と、将来に起きる問題に焦点を当てて考える人々の場合では、答えが違うことがあります。これは、将来に発生する問題によって生じる損害などを無視して、現在の関係者たちだけが被る損害に注目して、答えを考える人々と、現在だけでなく、将来に発生する問題によって生じる損害にも思いをめぐらせるべきと考える人々との間で、正しい答えが変わるからです。例えば、環境問題では、将来に発生する損失は、現在の損失に比べると、はるかに大きいので、正しい答えは完全に異なります。国家間の対立では、先進諸国が環境保全に重点を置いた答えに重きを置くのに対して、これから経済を発展させようと考えている国々では、環境問題を置いておいても、経済の発展を重視するため、二酸化炭素の排出などについては、過度に制限すべきではないとする答えに重点を置きます。

また、考える人の立場が違うと、答えが違ってくることがあります。立場とは、国や組織の指導者と、その指導者に従って行動しなければならない人々の思いをめぐらせるときの、ものの見方の違いを言います。例えば、教室の中での先生と生徒の見方の違いなどです。先生は、数多くの生徒を、ある決められた方向に向かって歩みを進ませるために、最も良い方法をとろうとします。しかし、生徒は、先生の立場とは違って、自分たちにとって最も良い方法を先生がとることを重視します。国の政治を行う指導者も、先生と同じように、国民全体を自分が望ましいと思う、一つの方向に向けて歩ませようとします。それに対して、国民は、自分たちにとって最も望ましいやり方で、指導者が振舞うことを望みます。

第2次世界大戦が始まるまでのドイツ国民と、その指導者であったヒットラーとの関係も、日本国民と、その指導者に選ばれた東条英機との関係も、基本的に同じであったと言えます。ヒットラーも、東条英機も、チャーチルが率いるイギリスを中心とした連合国側と対立していました。そして、どんなに犠牲を払っても、連合国側の国々と戦い、勝つことが大切だと考えていました。ドイツ国民も日本国民も、数多くの犠牲者を出し、国が滅びるほどの損害を受けても、最後まで戦うべきだとは思っていなかったでしょう。

さらに、同じ家族の人々の間だとしても、年齢の高い人と、年齢の低い人では、答えが違ってくることがあります。これは、自分が人生のどの段階にあるかによって、何が良い答えであるかが変わることを意味しています。人生の終わりが近づいている高齢者にとっては、遠い将来のことよりも、現在の生活の方が重要だからです。人生の終わりまで、まだまだ長い時間がある若者にとっては、現在の生活よりも、長い将来の生活の方が重要でしょう。特に、現在の生活に困っていない若者の場合、将来、国の経済が破綻して、自分自身の生活や、家族の生活が苦しくなることの方が問題でしょう。国家の指導者から見ると、国内の人口を調べ、高齢者と若者のどちらかの数が多いのかが重要になります。それは、それによって選挙に勝てるかどうかが決まるからです。選挙に勝って、自分の指導力を発揮できる体制が整わなければ、指導者としての力は発揮できないからです。

第1次世界大戦で負けたドイツは、戦勝国から課(か)せられた多額の賠償責任によって、国内経済が破綻していました。ヒットラーは、そのような国民に対して、戦勝国に対する賠償責任の拒否と、周囲の国々を攻めて併合し、経済を活性化することがドイツの再建になると訴えました。失業に困っていた当時のドイツの若者達は、そのヒットラーの政策を熱狂的に支持しました。同じ頃、日本の社会では、中国大陸への領土の拡大こそが、国力を高め、経済を成長させ、国民を飢(う)えから解放するために必要と考えていました。東条英機は、国民に中国大陸での戦争の継続と、その状況を有利にするため、アメリカ合衆国などの連合国を敵として、戦争をすることを選択すべきと訴えていました。

私たちは、問題を解決しようとしている時、提案される様々な考え方の、それぞれの違いに思いをめぐらせて、その中から最も良いと思われる答えを見出し、その答えに基づいて振舞うことが大切です。私たちが、ものごとに思いをめぐらせる理由は、思いをめぐらせた結果として得た、最も良いと思われる考えに従って、それを行うことによって、問題を解決するためです。つまり、ものごとに思いをめぐらせるのは、最も良いと思える答えを見出すためだからです。そして、その考えに基づいて、「行動」することで、問題を解決することが目的です。この目的を達成するために、思いをめぐらせるわけです。しかし、最も良いと思われる答えが見つかったとしても、既に、議論したように、その思い通りに行動できるかどうかが、最も大切な問題です。それは、その「思い通りに振舞う」ことには、「勇気」がなければできないことだからです。

1941年の9月まで、日本の総理大臣として、アメリカ合衆国政府との和平への道を探っていた近衛文麿首相は、アメリカ合衆国との戦争に、当時の日本が勝てないことを知りながら、開戦を主張する東条英機陸軍大臣などの主張を抑えることができませんでした。それは、自分の思い通りに振舞う勇気がなかったからだと言えます。近衛首相以外にも、日米開戦を阻止すべきと考えていた人々は、当時の有識者の中には少なくなかったはずです。しかし、誰も声を上げませんでした。さらに、当時のジャーナリズムも、警察の弾圧(だんあつ)によって、「日本が米国との戦争に負ける」と主張することはありませんでした。当時のドイツでも、社会の状況は、日本と似たような状況だったと言えます。

それでも、最初に思いをめぐらせた結果が、常に正しいとは限りません。もし、その思いに間違いがあることに気づいたら、その間違いを素直に認め、最初からもう一度考え直して、より良い答えを、もう一度考え出さなければなりません。最初に思いをめぐらせた時に、何かを間違えたことは確かです。ですから、なぜそのような間違いを起こしたかをよく反省し、より良い答えを見つけ出すための手がかりにしなければなりません。同じ間違いをすることは避けなければなりません。そのようにして、一歩一歩、やり方を良くしてゆき、本当に正しいと思える答えが見つかるまで、やり直すことが大切です。そのような繰返しなしに、しっかりと思いをめぐらすことができるようにはなりません。大切なことは、「間違えた」と感じた時には、それを認める勇気を持つことです。そして、何が「間違っている」のかを、しっかりと考え、どうすれば「もっと上手にやれるようになる」かをつかみ取る「きっかけ」とすることが大切です。

しっかりと自分で考えていなければ、私たちはしばしば、意味もなく物思いにふけり、時間を無駄(むだ)に費(つい)やしてしまいます。ですから私たちは、常に「正しく思いをめぐらせ」 、「正しく振舞う」ことを心がけて、生きてゆかなければなりません。正しく思いをめぐらせるためには、人類がこれまでの歴史を通して考えて来た、最も正しいと思われるやり方を学ばなければなりません。弁証法、イデア論、中庸、そして分割統治などは、古くから知られている古典的な方法です。さらにアメリカで進化した進化論的な「プラグマティズム」の方法は、歴史的には新しいやり方ですが、これからの時代には必要なやり方です。さらに、ソクラテス以来、人類は正しく思いをめぐらせ、「思い通りに振舞う」ことの難しさと、その大切さを学んできました。近代ドイツの哲学者であるカントも、キリスト教の倫理観に基づいて、「道徳の実践」が大切であり、その難しさを教えました。20世紀以降の世界では、まだ、「道徳の実践」についての新しい指針は見つかっていません。そのような世界でも、私たちは、それを考え、それをしっかりと意識して、生きてゆかなければなりません。

(つづく)