公開: 2020年6月11日
更新: 2020年7月6日
これまで私たちは、思いをめぐらすときに、どのような順番で、どのようなことについて注意を払って準備をし、どのようなやり方で問題を考え、考えついた答えの中から、どのようにして最も良いと思われる案を選んだらよいかについて、20世紀の構造主義の方法を基礎に考えてきました。しかし、どのようにして問題から答えにたどり着くかについての考え方については、後回しにして考えを進めてきました。
その第3番目の話題として、ここでは、「どう考えるのか」について、古くから知られている第3の方法について紹介します。その方法は、古代ギリシャの哲学者であるアリストテレスが考え出した方法で、「中庸(ちゅうよう)」と呼ばれているやり方です。この方法は、現代でもよく使われている代表的な方法の1つで、様々な問題についての議論の際に、最も普通の見方に基づいた問題の捉(とら)え方をして、その問題に対する最も普通の答えを導く方法です。それは、哲学者のプラトンが考え出したイデア論の方法に対抗したもので、このやり方は極端な問題の捉え方や、極端な前提に基づいた答えを避け、多くの人々にとって受け入れやすい答えを探すための方法としても知られています。
中庸を探す方法では、ある問題について、現実に起こっている具体的な例を並べて、そこから極端な見方や考え方に基づいた方法を取り除いた例を考えて示し、それらを問題の例として説明します。つぎに、その考えるべき問題の例に対する本質的な解決策を考え、それらの中で最も普通のものを選ぶやり方です。このとき、その解決に必要な考えの中に、さまざまな条件が含まれていれば、それらの条件を、別々に説明しなければなりません。これは、正しい答えかどうかが、それらの条件に合っているかどうかで、変わってしまうからです。アリストテレスは、プラトンが言ったような普遍的に、どのような場合でも「正しい」と言える答えなど、「本当はない」と信じていました。
ここで重要なことは、アリストテレスは普遍的な問題よりも、個々の問題を特徴づけている性質を明らかにして、個々の問題をできるだけ細かく説明して、誰もが分かるようにしたうえで、議論を展開すべきであるとした点です。この数多くの個別の問題を説明できる特徴を見つけ出して、皆が分かるようにした説明を、「正しい説明」と呼びます。アリストテレスは、個々の問題を考えるよりも、そのような「それぞれの問題の違いを説明する特徴」を考える方が重要であると考えました。そのように「正しく個々の問題を説明する特徴」を明らかにした上で、問題の本質と解決策を考えようとしたのです。そのような方法をとることで、個々に異なる特徴を持った現実の問題に対して、「正しい」答えを見つけることができると言いました。
私たちが、思いをめぐらすとき、絶対にしなければならないことは、これまでに述べたやり方で、どんな問題を解かなければならないかを明らかにすることです。それが明らかになったら、その問題を解くための答えを見つけ出すことです。私たち人類の祖先も、この問題を長い間、考え続けて来ました。古代ギリシャの哲学者、プラトンは、ソクラテスがゼノンから学び、弟子たちに分かり易く説明するための方法として使っていた弁証法を応用して、「普遍的な問題に対して、普遍的な答えを見出す」イデア論を考え出しました。それを、どんな時でも、どんな場所でも、本当に正しい言える答えにたどり着くやり方としてとして、アテネに作った学校、アカデメイアで教えました。この方法は、私たちが普段の生活で見聞きする様々な具体例に基づいて、それらの例に共通して見出せる性質を見つけ出し、その共通的な性質を持つ問題を作って、それに対する答えを考えるやり方でした。
プラトンは、人間が使っている言葉は、特別な場合を別にして、基本的には個別の「もの」や「こと」のある時、ある場所での様子を物語るのではなく、個々の言葉は、それらに共通する様子について物語り、それらの言葉を組合わせて、ある時、ある場所における、ある「もの」や、ある「こと」の様子を説明できるように作られています。そのようなことから、特別な問題を話題にする場合も、それが「何について」、どのような時に、どのような場所で、見られた様子なのかをよく見ることで、特別な問題の、時や場所、その主体が「何であるか」によらずに説明できる「イデア」(または言葉)を見つけ出すことができるとして、そのイデアに特別な名前を付ければよいとしました。例えば、平面における「平行線」です。平行線は、特別な性質を持った、2本の直線のことです。プラトンは、個々の直線を考えるのではなく、このように特別な関係にある2本の直線に対して特別な名前を付け、それについての議論を展開することが、私たちの知を広げることになると教えました。
プラトンは、「平行線」のような新しい「イデア」を作り出し、新しい問題の本質に焦点を当てることで、人間の思考(考え方)が進歩してゆくと考えていました。同じようなことを説明する場合でも、新しいイデアを定義して、それを説明した上で、その問題を考えることによって、人間の理解が深まると考えていたのです。例えば、ソクラテスが説いた「徳」は、ギリシャ語で普通に使われていた言葉でした。その言葉をそのまま使って、ソクラテスが説いた「徳」を説明すると、普通の人々は、何を説明されているのかがはっきりとは分かりません。そこでプラトンは、「徳」と言う普通の言葉を使う代わりに、「徳のイデア」と言う言葉を使い、それが何を意味しているのかを細かく説明し、その後で、ソクラテスが説いた「徳」を、「徳のイデア」が行われた例として説明する方法を採用しました。
ここで、ソクラテスが説いた「徳」の例として、あなたの昔からの友人が軍の司令官になり、その友人の部下となったあなたに対して、何人かの兵士を指揮して、敵軍の背後から攻撃を仕掛けることを命令したとしましょう。この時、その命令を受けた「あなた」は、自分の部下の兵士たちの命を預かる指揮官として、その「あなたの」指揮官である友人の命令に従うべきかどうかを考えるでしょう。普通のギリシャ人であれば、命令に従うことを「徳」のある行いと言うかも知れません。しかし、ソクラテスは、指揮官であるあなたの友人が、本当に指揮官として有能であるのか、その作戦によって、アテネ軍は戦いを有利に展開できるのか、自分自身や部下の兵士の命がどれほどの危険に脅(おびや)かされるかなどを、冷静に考え、さらにその考えに基づいて、あなたがしっかり行動できなければ、「徳」のある行いとは言えないと説きました。つまり、指揮官の命令に従うべきだとしても、その命令の「正しさ」が問題になるとしたわけです。
このように、普通に使われる言葉では、「このような状況が成り立っている」と想定されているものが、明確には述べられないので、「指揮官の命令に従う」とする最も重要な部分だけにとらわれ過ぎて、不十分な考えで問題の議論がなされてしまうことがあります。そのような議論の問題点をなくすために、プラトンは、問題になっている「もの」や「こと」の本質をイデアとして明らかにした上で、議論を展開すべきだとしたわけです。これによって、議論が誤った方向に進むことを防げると考えました。確かに、私たちの行う議論が、言葉を使って行われる限り、このような思いをめぐらせるときの間違いは起こるのです。その危険を防ぐために、厳密な議論をするための方法として、プラトンは「イデア」を定義することが大切だと言いました。しかし、そのようにして説明されている「イデア」は、本当に存在する「もの」や「こと」であるのかどうかについては、議論が残ります。それは、「イデア」が言葉、もう少し厳密に言えば、言葉の「概念」だからです。
言葉の概念は、言葉(特に名詞)によって意味されている対象の概念を、人間が他の人間へと伝えるために大切なものです。そのような概念の共有なしに、人間と人間との意思の疎通はありえません。とは言っても、概念は本当に実体があると言えるのでしょうか。このことについては、人間の歴史を通じて、長く議論が続いていて、まだ結論はないようです。昔から、多くのイギリスの思想家たちは、「人間が経験した個々のもの以外は存在しない」と考えてきました。その意味では、概念の中には、「存在する」とは言えないものが、数多くあります。しかし、それは「これまで人間が経験していない」ということであって、「これからも絶対に経験しない」と断言できることではありません。プラトンは、「普遍的な問題」を議論するために「イデア」を問題にしました。「普遍的な問題」は、「これまで人間が経験していない」だけでなく、「これからも人間が経験することはない」ことが言えなければ、「実在しない」とは言えないのです。
プラトンは、ある「イデア」を見出すためには、そのイデアが問題にしている「もの」や「こと」が起きている実例を集めることが大切であることを説明しました。そして、それらの実例を並べて、それらに共通する性質を探すことが必要であることを述べています。そして、それらを実際に見ることができる条件、例えば、どんな時にどんな場所で見られたのか、どんな人々がそれを見たのかなど、についてもよく調べて、共通する条件を見出さなければならないとしています。そのような問題の整理に基づいて、「イデア」となる言葉をまとめ、定義します。そして、そのようにして定義された「イデア」が、それらの実例を正しく説明しているかどうかを確かめます。もし、正しく説明できていない例があれば、その「イデア」の定義は完全ではないことになり、その定義を修正しなければなりません。
このような手順に従うことで、プラトンは、普遍的なイデアを見つけ出すことができると考えました。この実例をよく見て、そこから「イデア」を見つけ出すことを、現代の人々は「抽象する」とか「抽象化」と言います。この抽象化によって、実例にあった重要ではない部分を取り去り、必要な部分だけを残すのです。全ての例にある、必要な部分だけを取り出し、それらを集めて作り上げられるのが「イデア」です。抽象化は、具体例があって初めてできることです。プログラミングは、計算手順の抽象化ですが、そのためには、計算で用いる様々な値を、変数として定義しなければなりません。それらの変数にはいくつかの「種類」があって、その「種類」こそがプラトンが言った「イデア」です。例えば、体重や身長は、それぞれ「イデア」であり、それらから計算される指数である肥満度もイデアの一つです。例えば、体重を身長の2乗で割った値であるBMIも、肥満度を表すイデアの例です。
ここで、イデア論を使った例として、「国家」を考えてみましょう。第2次世界大戦を始める前の日本政府が抱いていた、日本人の国家像です。当時の日本は、天皇を中心とした「立憲君主制」の国でした。憲法はありましたが、その憲法によって、日本は「万世一系」の天皇によって統治される国民から成る国であり、国民が選んだ政府と天皇が指揮する軍(陸海軍)によって運営される日本民族の国家でした。政府は、議会で選出された内閣によって組織されていますが、最高決定機関は天皇が参加する御前会議でした。御前会議において、天皇は内閣が行う説明と参加者の意見を聴き、説明に賛成するか、再度、内容について検討を加えるべきかの決定をしますが、内閣が行う説明に対してそれを否定することはできませんでした。「天皇は完全でなければならず、間違ってはならなかった」からです。間違うかもしれないのは、内閣の説明だけでした。このことは、憲法で定められていました。
これらの点をまとめてみましょう。
大日本帝国憲法で定められていたことは、大体、イギリスを除く、1800年代のヨーロッパ諸国が定めていた憲法と似ています。しかし、それ以外の部分では、他国とは大きく違っていたと言えます。特に、天皇の勅語や勅令で定められたことや、歴史的に決まったこと、国民が歴史的に信じていたことなどは、世界の国々とは違っていました。
特に、当時の日本国民が信じていた国家像には、他の国々はなかった特徴があります。例えば、「天皇を神と信じる」点や、「国の行政を担う組織や主体が変わっても、国を統治する権力として天皇が 認められ続けた」点は、日本特有な点だと言えるでしょう。「外国との戦争に負けない」と言う国民の信念は、誤解も多かったと言えます。
この当時の日本国民が信じていた国家像が、長州派の日本陸軍指導者層によって作られ、国民全体に広められてゆきました。例えば、「天皇を神と信じる」点や、「外国との戦争に負けない」と言う歴史的誤解に基づく国民の信念は、中国大陸において継続していた戦闘によって、経済が疲弊(ひへい)していたにもかかわらず、日本の中国支配に反対するアメリカ合衆国政府との戦争を容認する国民世論に大きな影響を与え、当時の政府を誤った方向へ導きました。
この日本国内における国家としての日本のイデア(国家像)に対して、当時のヨーロッパ諸国で、王権による統治を行っていた、イギリスやドイツ、オーストリアなどの諸国における国家像は、ほぼ以下のようなものであったと言われています。
日本の国家像と、西洋諸国の君主制をとっていた国々の国家像を比較すると、「国民的に信じられていたこと」に違いはあるものの、両者は似ていると言えるでしょう。それは、明治天皇からの命を受けて、憲法の原案を作成した伊藤博文らが、西洋の君主制をとる国々の憲法を調べ、それらを真似て原案を作成したからです。しかし、西洋の国々が、キリスト教を国家の土台として憲法の前提としていたのに対して、日本にはそのような国民の多くが共有できる倫理観がなかったため、伊藤らがそこに天皇制を当てはめた点にあります。
このことによって、日本の国家像は、少しずつ西洋諸国のそれと「ずれ」を生み出したと言えるでしょう。特に、天皇制が「万世一系」の、一つの血統を前提としているとし、それが、西洋諸国の王権と違って、「変わることがない」と考えた点にあります。つまり、西洋におけるキリスト教の「神」と、国家の統治を行う人間としての「国王」の、2つの面を「天皇」に持たせたところに、特別な意味がありました。このことによって、「天皇は間違いを起こすことができない」と言う性格が生み出され、天皇の政治決断への介入を極力避けるような仕組みが作り上げられました。
アメリカ合衆国との戦争を開始するかどうかを決める1941年11月の御前会議で、昭和天皇が発した「戦いに勝つことはできるのか」と言う質問は、天皇自身は巨大な経済大国のアメリカ合衆国と全面戦争を行っても、「日本が勝てることはない」と言う見通しがあったからだったと思われます。天皇は、一般市民よりもはるかに、日米の経済格差を分かっていたのでしょう。しかし、天皇として言えることは、ここまででした。それ以上のことは、内閣しか決定できなかったからです。当時、内閣を取りまとめていた東條英機首相は、日米開戦に積極的で、軍の指導者として「アメリカ合衆国との戦いには勝てなくても、何とか和平に持ち込む道は開けるだろう」と楽観していたようです。