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公開: 2021年7月11日

更新: 2021年8月6日

あらまし

古代ギリシャの哲学者として、3人の大哲学者がいました。その最初がソクラテスです。その弟子として、プラトンがいました。プラトンは、ソクラテスが語った「善」の概念がどのようなものであるのかを、筋道を立てて説明しようとしました。そして、イデア論と言う、その後の哲学者に大きな影響を与えた方法を生み出しました。プラトンは、イデアこそが存在するものであり、考える価値があるものだと教えました。それは、私たち人間が使っている言葉の意味と、深いつながりをもった考えでした。そのイデア論が、空虚であると批判したのが、アリストテレスでした。

アリストテレスは、イデアは、本当は存在しない「もの」でも、それを説明する言葉があれば、あたかも、それが本当に存在する「もの」であるかのように議論できるので、正しい方法ではないと主張し、多くの人々が理解している意味の中心にある「もの」こそが、最も信じるに値する「もの」であると説明しました。プラトンが、究極の善は、「それ自身が存在する」と考えたのに対して、アリストテレスは、究極の善は存在せず、時代や場所によって、「善の中身が変わる」と述べ、人々が善と信じている物事の中心にある「もの」が、その時代、その地域での善であると教えました。

このアリストテレスの考え方は、後に、多くの哲学者が賛同する考え方になりました。プラトンが絶対的な「もの」の存在を信じていたのに対して、アリストテレスは、絶対的なものはなく、全てが相対的な「もの」であると考えました。特に、近代以降の社会では、多くの「もの」が絶対的ではないことが解明され、「人間には、本当のことは分からない」とする思想が生まれ、アリストテレスの思想を踏襲した考え方が主流になりつつあります。古代にヨーロッパからアジアにまたがる大帝国を支配した、アレクサンダー大王は、若い時にアリストテレスの教育を受けたため、ギリシャの思想が絶対的な考え方であるとはしませんでした。

そのアリストテレスは、哲学の教科書である「形而上学(けいじじょうがく)」をまとめ、弟子たちに教えました。この哲学書では、最初に哲学で用いる重要な言葉の意味を説明し、さらに、その言葉に関して、伝えられていた歴史を説明し、最後に、アリストテレスが考えたことを説明しています。このやり方は、その後、ほとんどの学問分野で、踏襲され、今日に至っています。この形而上学に説明された問題は、中世ヨーロッパに伝えられ、今日の様々な学問の基礎になっています。

アリストテレスは形而上学をどう書いたのか

古代ギリシャの哲学者であったアリストテレスは、ソクラテスやプラトンとは違って、ギリシゃの中心的な都市国家であるアテネの生まれではありません。アレキサンダー大王と同じ、イタリアに近いマケドニアで生まれました。実際にアリストテレスは、アレキサンダー大王が若い頃、家庭教師をしていたとされています。ソクラテスやプラトンが、ギリシゃを代表する当時のアテネ市民の考え方を土台としていたのに対して、アリストテレスは、もっと広い見方をはて、誰が考えても正しいと思えるような考えに至るような考え方を突き止めようとしたようです。その意味で、結論としてはソクラテスが言ったことと同じでも、その結論に至るまでの道筋は、少し違っていました。

アリストテレスが「正しい」とした考え方は、ある問題について弁証法でやるような、いくつかのよく知られた考え方をくらべるのではなく、最互いに最も違うも極端の考えを取り除いてゆく作業を繰り返し、最後に残った最も普通な考え方をとるべきだとするものでした。これは、プラトンが言っていた、似たような様々な考えを並べて、それらの考え方の共通点を見つけ出し、その共通点だけを取り出した共通問題を考え出し、その考え出した共通問題について考えを深めると言う、「イデア論」と呼ばれていた方法に対抗するためでした。アリストテレスは、似たような問題に共通した点だけを取り出すことによって、取り出した共通問題は、現実にある問題ではなく、人間が空想して作り出した問題になると考えていたからでした。

そのようなアリストテレスの考え方は、「中よう」と呼ばれる考え方で、最も普通な「真ん中の考えをとる」と言う意味です。この「中よう」の理論を使って、アリストテレスは、「人間が為すべき善」などについて思いをめぐらせました。それをまとめてアリストテレスは、「形のないことについて考える」と言う意味の、「形じ上学(けいじじょうがく)」と呼んだ講義を。弟子たちにしました。その講義の内容は、アリストテレスの弟子たちが記録したアリストテレスの話に基づいてまとめられ、現在、アリストテレスの「形而上学(けいじじょうがく)」と言う名の本になっています。

アリストテレスは、この講義をするにわたり、最初にいろいろな「形のないこと」を議論するために使う特別な言葉を決めて、その意味を説明しました。例えば、「どれくらいたくさんあるか」を言うための「量(りょう)」と言う言葉を示して、普通のギリシャ語では、「何かがたくさんある」や「あまりない」を言うために、「量」と言う名前の言葉を決めています。少し難しく言うと、「たくさん」は形容詞で、それを名詞にしたのが「量」である。「量」は、文の主語にもなります。「たくさん」は、形容詞なので、それ自身は主語にはなりません。

「量」と言う言葉を説明した後、アリストテレスは、「質(しつ)」と言う言葉を示し、それを説明しています。質と言う言葉は、哲学者のプラトンが作り出した言葉であるとされています。ギリシャ語には、「どのように良い」や「どのように悪い」を言うための言葉がありました。これは、形容詞です。アリストテレスは、その言葉を最初に示して、その言葉から、あるものや、あるものやることが、「どうであるか」を意味する「質」と言う言葉(質)が作り出されたことを説明しました。アリストテレスは、その言葉が、プラトンが作り出した言葉であることは述べていません。

これらの言葉の準備をして、アリストテレスは、「よく生きること」を意味する「善」が、「質の高い人間の行い」のことを言うことを説明しています。この「人間の行いの質」は、人の目には見えないことを問題にしているので、形而上学の議論にとって、大切な問題であるとしています。アリストテレスは、この「人間の行いの質」について議論を深めました。「人間の行いの質」の高さは、単純に多くの人には難しいことをするのではなく、多くの人がそうすることが『正しい』とする行いを、そのような状況で、本当に行うことであるとしました。

例えば、「川で溺れそうになっている子供を見ている」とき、必ずしも、その子を助けるために川に飛むことが、「善を為していること」であるとは言えないとしました。川の流れが速く、川が深ければ、子供を助けですことは難しく、自分の命も落としかねないからです。そのような状況を冷静に確かめて、自分の体力や泳ぎの力ならば、子供を助けられるに違いないと考えられるときだけ、川に飛び込み、子供を助け出すべきだと、アリストテレスは言いました。アリストテレスは、行動すること自身よりも、その行動によって「子供を助け出す」と言う目的を達成できることが重要だと主張したのです。

アリストテレスは、議論をするためには、その議論に使う言葉を決め、その言葉の意味を明確に決めて、それらの言葉を使って、問題についての議論を展開すると言う方法を提案しました。これは、少し難しく言うと、数学で言う、言葉の「定義」を示し、それが正しいことを全ての人が認める「公理」を提示して、個々の問題について明確に示し、それについて自分が正しいと主張する内容を説明すると言うことになります。この最後のステップは、数学では「定理」と「証明」と呼ばれるやり方です。

(つづく)