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公開: 2021年7月10日

更新: 2021年8月6日

あらまし

人類の歴史の中で、ある人間が考えたことを言葉にして、その説明を後世の人々に残そうとした例として、古代ギリシャの哲学者たちが、弟子たちに語った言葉が書き残されています。そのような哲学者として、ソクラテスは、特筆すべき人です。それは、ソクラテスが教えようとした「善」が、その後の多くの哲学者たちが議論することになったからです。

ソクラテスは、同じ古代ギリシャの哲学者、プラトンやアリストテレスの思想に大きな影響を与えた、偉大な思想家でした。ソクラテスが何を、どのように語ったのかは、プラトンやアリストテレスを含む、ソクラテスの弟子たちが残した記録に残されました。その記録に基づくと、ソクラテスが、後世の哲学者に与えた最も大きな影響は、「人は、善く生きなければならない」とする「善」の考えを述べたことでした。

ソクラテスは、何よりも「人は、善く生きること」を大切にしなければならない、と教えました。「善く生きる」とは、「それがどういうことか」を知っているだけでは不十分で、「それを日々の活動の中で実践できる」ことが、重要であると、ソクラテスは教えました。「知っている」だけであれば、話を聴くだけで良いのですが、それを日々の生活で実践するためには、毎日の心がけが必要です。そのためには、訓練も必要になるのです。

ソクラテスはものごとをどう説明したのか

私たちが日常の会話で使っている日本語などの言葉を使って、自分以外の人々へものごとを説明しようとするとき、どのように説明することが、最も自分が考えていることを正しく伝えられるかについて、古代ギリシャの哲学者たちは考えをめぐらしました。最初にそのようなやり方として、多くの哲学者が賛成した方法は、日本語で『弁証法』と呼ばれている方法でした。

弁証法は、話題として議論している問題について、お互いに反対の2つの見方から、その問題に対する原因の分析や、問題の解決法などについての主張を展開します。そのあい反する主張を並べて比較し、どちらの立場がより望ましいか、より正しそうかを考え、議論する方法です。古代ギリシャの哲学者であったソクラテスは、この議論の方法を使って、さまざまな問題に対する自分の主張を展開しました。

その古代ギリシャの弁証法は、まだ原始的なやり方で、普通によく知られた2つの立場を選び、その両方の見方からの主張を展開し、それらを比べるやり方でした。この方法は、中世ヨーロッパで改良され、主たる主張と、その主張とは違う内容の代表的な主張を並べて、それぞれの主張を別々に展開し、最後にそれらの主張を比較して、どちらが正しそうかを述べる方法が考え出されました。中世ヨーロッパの神学者であったトマス・アキュナスは、そのような方法を使って、「神が本当に存在すること」を議論しました。

さらに近代になって、19世紀のドイツの哲学者であったヘーゲルは、中世ヨーロッパのやり方をさらに改良し、主たる主張と、その代表的な主張を否定する内容の「反対の主張」を並べて、それぞれの主張を別々に展開して、最後にそれらの主張を比較し、両方の主張の弱点を補強することで、最初に議論を始めた時の2つの主張とは異なる、第三の主張を作り出すやり方を提唱しました。この手順を、「正(の主張)を明確にし、反(対の主張)を作り、最後にこれらを統合した主張をつくる」と言う意味で、「正、反、合」と言い表すことがあります。

ソクラテスが使った弁証法を考えてみましょう。例えば、ソクラテスは、人間が生きるのは、「善を為すためである。」と主張しました。これは正しい説であると思えます。しかし、古代ギリシャの哲学者の中には、「人が生きるのは、人生を楽しむためである。」と主張する人もいました。ソクラテスは、これらの極端に対立する二つの考え方を並べて、「人が生きる目的」について考えました。それは、子供が浅い川で溺れそうになっている時、自分の命を第一に考えて行動するならば、子供を助けるよりも自分の命を守る方が大切であるという結論になります。

しかし、川で溺れている子供を見て、見捨ててゆく人は少ないでしょう。多くの人は、溺れている子供を助けることを考えるはずです。それが人として「あるべき姿」だと考えているからです。人間は、一人で生きているわけではありません。我々は、周りの人々の助けがなければ生きて行けないのです。人間が社会を作って生きているのは、それが最も良い方法だと知っているからです。社会を作って生きる限り、自分のことだけを考えるのではなく、社会の他の人々の苦痛も、できるだけ減らすように行動することも大切です。他の人々も、自分にそうしてくれているからです。

川で溺れそうになっている子供の親にとって、またその兄弟などにとって、その子が溺れて死ぬことは、大変な苦痛になります。もちろん、その子も大変な苦痛を味わうはずです。仮に、自分がある程度の苦痛を感じたとしても、その子を助けることができれば、その子自身、その子の親や兄弟にとっては大変な救いとなるはずです。当然、助けた自分もその子、その子の親、そして兄弟たちから感謝されるでょう。感謝は、子供とその親族だけではなく、社会全体からも与えられるでしょう。それは、その対応が「人としてあるべき姿である。」と皆が考えているからです。

この議論から、自分の命や楽しみだけを重んじて、自分の命を守ることだけを考えて、溺れそうな子供を見捨ててその場を去ることは、人間としてとるべき態度ではないと考えることが正しいと言えます。つまり、人間が行動を考えるとき、「人は自分のためだけに生きている」と言う主張は、正しいとは言えないのです。ソクラテスが主張したのは、『人は「人として「正しく」生きる」ことが大切で、そのことを全てのことに優先すべきである。』ということでした。

ソクラテスは、全てのギリシャの市民が、常にこの原則に従って行動できると主張しているものではありませんでした。ソクラテスは、そのような行動を考え、その通りに行動するためには、正しく自分が置かれている状況を判断できる力を持つように教育を受け、自分の毎日の社会生活を通してそのような考えを持てるような習慣を身につけ、その通りに行動できる勇気を持たなければならないと教えました。そのようなことを常日頃から考え、行動できるような訓練を積み、毎日、正しく生きるように常に努力をすることは、「人としての道を踏み外さないためである。」とも教えました。。

(つづく)