公開: 2021年7月9日
更新: 2021年8月6日
人間社会で作り出された言葉を使って自分が考えたことを他の人に説明して、伝えるとき、自分が考えたことが正しく、話を聞いている人に通じているかどうかが問題になります。簡単な情報や内容の話を伝えようとする場合、自分が言い方を間違えなければ、その内容が誤って伝わることはあまり考えられません。少し難しい情報や内容になると、言い方を間違えなくても、内容が誤って伝わる可能性が出てきます。内容が複雑になればなるほど、誤って伝わる可能性は高くなると考えられます。
情報や知識の内容が複雑になるとは、それを説明する文の長さが長くなることを言います。簡単な内容でも、それを長い文で説明することもできます。しかし、そのような長い文は、内容を吟味することで、表現を短くすることができます。そのようにして表現を短くした文の長さで考えた時、説明文の長さが短くできない内容の時、「内容が複雑である」と言います。文章の表現が長くなると、長い文章を、主語を一つ、述部を一つに分解した「単文」の列にしたとき、単文の数が多くなります。
単文では、一つの文が、一つの「こと」を説明しています。この「説明すること」が増えてくると、内容を伝えようとする人(話し手)と、内容を理解しようとする人(聞き手)との間に、言葉では述べられていない様々な物事について、理解が食い違う部分が生じる可能性がでてきます。この「食い違い」が、話し手と聞き手の間の誤解を生みだすのです。特に気をつけなければならないのは、話し手が「正しい」表現であると考えている文や文章に、聞き手の誤解を生みやすい表現が混入することです。
そのような誤解を生みやすい表現の例として、音声の場合であれば、音の表現が同じで、二つ以上の意味が考えられる「同音異義語」があり、文字表現の場合であれば、「誤字脱字」があります。特に、書き言葉の場合の、「誤字脱字」は、文の意味を「あいまい」にしたり、文の意味を全く別の意味にしてしまうこともあります。そのような「言い間違い」や「書き間違い」は、長い文章になればなるほど、取り除くことが難しくなります。「誤字脱字」で言えば、表現に使われる文章の長さに、ほぼ比例して出現します。
人間が毎日の生活で、自分と他人との情報のやり取りに使っている言葉、例えば日本語や英語など、を使って、自分と同じ社会に属している人々、自分とは違った社会で生活している人々と情報やゆ知識のやり取りをすると、話し手の考えたことが『正しく』聞き手に伝わらないことがあります。このような問題が起きた時、私たちは話し手と聞き手の間の情報のやり取りに「誤り」が起きたと言います。その原因は、話し手が相手に分かり易く話をしていると思った筋道の展開が、うきく聞き手に分かるように伝わらなかったことにあります。
話し言葉での情報のやり取りであれば、周りの騒音がうるさく、話し手の言葉が、正確に聞き手に伝わらず、聞き手が内容を誤って聞くことがあります。また、話し手の使った言葉に、聞き手が普段使っている言葉にはない音の出し方(発音の仕方)での言葉が入っていて、聞き手が理解した内容が、話し手が言おうとしていた内容とは違ってしまった場合にも、誤りが起こります。これらは、話し手と聞き手の間で起こる、偶然(たまたま起こる)の「誤り」です。話し手が注意して、辞書に書かれているような意味で、ある言葉を選んで話していても、聞き手は辞書通りにその言葉を理解するとは限らないので、このような誤りが、時々起こります。
書き言葉を使った情報のやり取りでも、手書きであれば、書き手の文字の書き方の「くせ」などが原因で、書き手が書いた文字と、読み手が読む文字が一致しないことがあります。そのような場合に、情報のやり取りには「誤り」が入り込みます。さらに書き言葉でのやり取りでは、同じ内容のことを繰り返して書くことで、しばしば読み手が「わずらわしい」と思うことがあり、書き手はそれを避けようとします。このため、読み手が、書きものの一部の文章の一部を間違えて理解していると、その後の部分の読み方も間違ってしまうことがあります。書き言葉での情報のやり取りでは、書いている話の筋道に誤りが入り込むことは、話し言葉に比べて少なくなるのが普通です。
これらの種類の誤りが入り込むのは、話し手と聞き手、書き手と読み手の間に、偶然に入り込む「間違い」のせいです。「誤り」の中には、そのような偶然に入り込むものだけでなく、話し手や書き手が、「誤り」が起こるように仕向けて入り込ませる、「わざと仕向けた誤り」もあります。すでに「言葉と論理」のところで述べた、古代ギリシャの一部の哲学者が論じた「き弁」もその例の一つです。話し手や書き手が、文章を組み立てるときに、「き弁」を使った論理をその中に「まぎれ込ませ」ておくのです。毎日の生活で使っている言葉を使うとき、聞き手や読み手がそのような「き弁」を見抜くことは簡単ではありません。
中世ヨーロッパの修道院や大学では、「き弁」を見破るための訓練を積んで、「き弁」が使われたときには、学生がそれをすぐに見破れるような力をつけていました。現代のアメリカ社会の初等教育でも、そのような伝統に従った教育訓練を、議論の仕方として教えている学校は多いのです。日本の初等・中等教育では、発表や議論の教育訓練をすることが少ないので、普通の日本人の場合、話し手や書き手が、わざと「き弁」を使うと、それを見抜けない人が多いのです。
書き言葉を使った情報のやり取りについて、ヨーロッパの社会では、15世紀に印刷技術が発明され、新しい考え方や、新しい事実の発見などを広く社会へ伝えようとしたとき、印刷物として出版することができるようになりました。印刷物としてある本を出版しようとしたとき、その本の著者は、手書きの原稿を書きます。そして、書き上がった原稿を出版社が受け取り、著者ではない人がその原稿を読み、その内容に誤りがないか、または読み手に『正しく』伝わるかどうかを確かめます。そこで、何か問題があれば、原稿を修正します。こうして原稿ができ上がると、その原稿にそって活字を並べ、それを紙に印刷します。印刷されたものは、著者に戻されて、活字の選択や並べ方に間違いがないかを調べ、間違いが見つかれば、その部分の活字を並べなおします。この作業を『校正』と言います。この校正を何回か繰り返し、間違いが見つからなくなった時、その印刷物を本として製本し、出版します。
このような原稿書きに始まって、印刷、製本に至る一連の作業を通すことで、本の内容としては「誤り」の少ないものを作り出すことができるようになりました。科学などの分野では、さらに原稿の段階で、著者ではない専門家の数人が、その内容を確かめて、問題点があれば、それを指摘する『査読(さどく)』という作業を入れる場合があります。このようにして、間違った情報が社会の中に広まることを防いでいるのです。
短い文章であれば。校正や査読もそれほどの時間を必要としません。しかし、何百ページにも渡る本の場合、その内容を完全に調べつくし、誤りがないようにすることはできません。このため、本の場合、その内容には、言葉を表す文字の間違いを言う「誤植」と呼ばれる誤りがいつまでも残ります。出版されて百数十年が経った本にも、そのような誤りが残っていて、それを読んだ人が、その誤りを指摘する例は多いのです。
もっと複雑で難しいのが、文章の中に隠れている説明の仕方の間違いです。著者が、当然と考えて詳しく説明しなかった事実に、著者が気づかなかった考え方の間違いが隠れていて、それを誰も気づかないまま、印刷し、出版した内容は、多くの場合、同じ分野の専門を研究している人でなければ、そのような誤りに気付くことはできません。社会の誰もその誤りに気付かなければ、著者の主張を、社会が認めたことになります。このようにして、長期間に渡り正しいとされている理論が、間違った理論である例は少なくありません。
特に、出版された情報の中身が、科学的な実験に関する内容であり、実験での確認が簡単ではない分野の場合、よく知られた理論に誤りが含まれている例は少なくありません。現代の科学で、実験を重視する背景には、そのようなことがあるのです。とは言え、実験で確認された理論が、常に正しい真実とは限りません。実験のやり方に間違いがあったり、実験の結果を正しく見ていなかったりすることは、実験者が人間である限り起こりうることです。
さらに最近の社会では、研究に莫大なお金を必要とすることが多くなっています。そのような巨額のお金は、研究資金として企業や国家から与えられるのが普通です。どの研究者の、どの研究に資金を援助するのかは、各研究者が提出する研究計画書に書かれた内容を、審査員である専門家が調べ、複数の専門家で構成される委員会の委員達が、研究内容について議論した結果に基づいて、資金を援助するかどうかが決まります。
この研究資金の援助の申請を、研究計画書に基づいて内容を調べ、その結果を委員会の委員達が議論する時、主として参考にするのが、資金援助を頼んでいる研究者が研究計画書に書いた、それまでの研究成果です。それまでの研究成果の中で特に重要視されるのが、その研究者や、その研究に関わる他の研究者達が、それまでに書き、出版している論文や書物てす。特に、自由に使える研究費が減っている最近の大学では、そのような政府や企業からの研究資金の援助が、最先端の研究の大部分を支えています。その意味でも、研究者にとっては、論文を書き、それを出版することは、研究を続けるために、非常に重要な問題になっています。
このような研究内容の審査方法は、どのような専門分野であっても、公平な研究費の配分を行うための基本的なルールとして広く認められ、様々な例で広く使われています。このことは、現代の社会では、研究者達は論文を書き、それを出版すると言う競争を行っていることを意味します。できるだけ数多くの論文を書き、それを出版することによって、その論文を書いた研究者の社会的評価は高まり、研究費の獲得などの場面で有利になるからです。
このことは、一部の研究者は、自分の研究に関する論文を出版するため、意識的に自分の想定している理論が正しいことを説明するために都合の良い「実験結果を作り出す」ような、研究者としては「やってはならないこと」を行うことがあります。さらに、そこまでの強い悪意はなくても、実験結果を自分達の論文を書くための材料として、自分たちにとって都合よく見える事実を集め、都合の悪い事実を隠すなどして、論文の内容の正当性を主張します。そのことが、論文の出版を助けることにつながるからです。研究者と言えども、完全に中立な立場で、実験の方法や結果を見ることができる人は、多くありません。
数年前、日本の社会でも、生物学の分野で「論文のねつ造」と言われた事件がありました。若い研究者が、「どんな細胞からでも、万能細胞を作れる。」と主張し、それを実験で証明したとして、海外の有名な専門誌に論文を送り、出版しました。この実験には、厳密に調べると、「どんな細胞からでも、万能細胞を作れる。」との主張を裏付けるには、十分ととは言えない問題がありました。実験の途中で、実験のために準備されていた、これまでに知られていた万能細胞が標本に紛れ込み、普通の細胞から万能細胞が作られたかのような誤解を生みだしました。
この論文が発表される以前から、世界中の研究者の中に、「どんな細胞からでも、万能細胞を作れる。」と信じている研究者はいました。どのような条件が整えば、そのようなことが起こるのかは、分かっていませんでした。日本の若い研究者の論文は、その特別な条件を明らかにして、この理論が正しいことを示したのです。しかし、この論文が出版された直後から、世界中で同じ研究をしていた研究者たちが、同じ条件での実験を試しました。しかし、同じ結果を出すことに成功した人はいませんでした。このことから、「出版された論文には、間違いがあったのではないか。」とする意見が、世界中で述べられていました。
この理論が正しいかどうかを確かめる研究は、今でも、ドイツや米国の研究者の中で続けられています。論文そのものに、著者たちの意図的な間違いが含まれていたのか、それとも若い研究者の未熟な実験技術のせいで、偶然に間違いが起きてしまったことなのかは、我々には知ることはできません。この実験にも、日本政府からの多額の研究資金が投入されていました。論文の著者の中には、この政府からの多額の研究助成に対して、その期待に応えなければならないとの思いからの焦りや、無言の圧力があったのかも知れません。
この論文の場合、その内容が本当に問題のないものであれば、ノーベル医学・生物学賞の受賞対象になった可能性が高いと思われます。その理論はiPS細胞の理論に似ていますが、万能細胞を何から、どう作り出すかが異なっています。その意味で、この研究が成功していたとすれば、その社会的な意義は大変大きかったと言えるでしょう。その意味で、ノーベル賞を受賞できたとしても自然なことです。論文の著者たちには、そのような野心が芽生えていたのかも知れません。
この論文の例からも分かるように、専門家が書く論文の内容に「誤り」が潜んでいる場合、それを論文の著者以外の、他人が見つけ出すことは、非常に難しいのです。他人が論文の内容を理解し、さらにその中に隠れた「間違い」を見つけ出さなければならないからです。「間違い」を見つけ出さなければならない専門家の知識や研究が、論文の著者よりも高い水準にあれば、問題を見つけ出すことはできるかもしれません。この条件が満たされることは、ほとんどありません。
著者でない他人が、簡単に発見できるのは、論文中にある「文字の誤り」や「言葉の誤り」そして「論理の展開の誤り」です。この例でも、「論理の展開の誤り」を見つけ出すことは、かなり難しいと言えます。それは、論文が、我々が日常に話している言葉を使って書かれているからです。言葉として理解できる場合、「き弁」と同じように、意味が理解できるため、論理の展開に隠れた問題に気づくことは、専門的な訓練を受けていない人たちには、難しいからです。
上に述べた論文の例では、同じような研究をしている世界中の研究者達の中で、同じような条件で、同じ実験を行った人々がいて、その人たちの誰も、実験に成功しなかったため、「何か問題がある。」と言い始めたことが、問題の発覚に役立ちました。仮に、そのような実験に必要な研究資金が、普通では考えられないほど莫大であれば、実験そのものを試みる人々はいなくなります。その場合、問題は発覚しないのです。