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公開: 2021年7月8日

更新: 2021年8月5日

あらまし

社会の中での人々の間での情報や知識の共有の手段として、言葉や文字を生み出した人間社会では、2千数百年前ぐらいから、言葉を使って、誤解や理解の間違いを起こさない情報や知識のやり取りに注目して、言葉のやり取りや、話者の説明の仕方についての方法について、深く考えるようになりました。

古代ギリシャの哲学者は、話者が考えたことを、話を聴いている人に分かり易く説明する方法として、話の筋道を、前もって注意深く立てる方法を考えました。それは、話者が考えた結論に向かって、普通の人々が知っている知識から始めて、一歩ずつ説明をつなげてゆく、「演えき法」や、それとは全く逆に、結論が成り立つために必要な条件を考えながら、ほとんどの人が知っている知識にたどり着けるかどうかを調べる、「帰納(きのう)法」です。

さらに古代ギリシャでは、話の筋道が誤った結論を導くことがないように、正しい結論を導くための条件などが調べられました。例えば、「3段論法(ろんぽう)」と呼ばれている、筋道の立て方です。さらに、説明の方法として、簡単に聴いていると、「正しい説明」のように聞こえるのですが、実は、間違っている結論に導く話の作り方についても、古代ギリシャの哲学者たちは、考えをめぐらせました。

説明と論理

人間が言葉を使って、他の人または人々に、自分が見たことを伝えようとするとき、それを表現するために、複雑な文法はいりません。普通であれば、「向こうにライオンがいる。」のような、現在形の文が表現できれば十分です。少し客観的に表現する場合でも、「私は向こうでライオンを見た。」と言う表現でも十分です。

人間達が作る社会での人々の数が大きくなると、自分が見たり経験したことだけでは、必要なことを伝えることができなくなります。自分の経験だけでは、社会で起きること全てを、他の人々に正確に伝えることができないからです。話し手、自人自身や、聞き手でもない第三者の誰かが見たことなどを話し手が聴いて、それを聞き手に伝えようとするとき、誰が、いつ、どこで、何を見たのかを正確に伝えることが必要になります。

例えば、「昨日、私の友達のAさんが、あの山の反対側の草原で、ライオンを見たと言っていました。」のような表現です。この場合、「Aさんがあの山の反対側にある草原に行き、ライオンを見た。」と言っているのを、私は聞いたという意味なので、本当にライオンがいたのかどうかは、私は知らないのです。Aさんが本当のことを言っているとすれば、そこにライオンがいたことが、本当になります。しかし、それはAさんの嘘かも知れません。

そこに今、ライオンはいなかったとしても、Aさんが、話し手の「私」に、そのように言っていることは事実です。なので、問題は、聞き手がAさんを信じるかどうかになります。このような場合に使われる表現のための文の作り方は、「私が見た」ことを伝える表現よりも複雑になります。さらに言えば、この情報で大切なことは、「ライオンが近くに来ている」ことを伝え、社会全体に対して、ライオンに対する注意を呼びかけることです。

この例では、『昨日、あの山の反対側の草原にライオンがいた。』、だから、『今もそのライオンは、近くにいるはずだ。』そして、もしライオンに出会ったら、『人間はそのライオンに襲われるだろう。』『ライオンに襲われた人間は、生きてライオンから逃げることはできないだろう。』だから、『ライオンに出会わないように注意しよう。』と言う、警告の意味が込められているのです。

この後半部分のことは、Aさんが伝えた文では、明確に述べられていないため、隠されています。『ライオンを見た』と言う事実についての情報から始まる、その後の展開は、聞き手の頭の中で起こることであり、この場合、明確に述べられていることではありません。この後半の部分を、聞き手が頭の中で作り出すことを、少し専門的な言葉で、「推論」と言います。推論は、「Aが正しければ、Bも正しい」と言う、論理に従って情報や話の内容を展開することです。

人間と人間が、会話によって情報を伝え、現状に関する知識を共有しようとする場合、その時に使う言葉や文法だけでなく、聞き手が推論できるような、論理の流れにあった情報を伝えることが重要になります。話し手が、頭の中で考えることを、全て言葉にして伝えようとすると、話が長くなり、聞き手が話を聴くことを面倒に感じ、話を聴かなくなります。逆に、話し手が、自分が伝えたい情報の最初の部分だけを聞き手に伝えるだけでは、聞き手は話し手が何を伝えたいのかを理解できなくなります。どちらも、情報は正しく伝わりません。

ですから、言葉を使った情報のやり取りでは、情報を伝えようと思っている人が、聞き手が何を知っていて、何を知らないのかなどに注意して、論理的に推論を展開できるように、必要な情報を付け加えて話すことが大切です。普通、推論には正しいことを組合わせて、最終的に正しい結論を得る、「演えき」と言う方法と、結論が正しいと考えて、それを正しいとするために必要なことを考え、それが正しいことを述べてゆくことを繰り返し、最初の正しいと言える簡単な事実まで戻ることができることを確かめる、「帰納(きのう)」と言う方法が知られています。

これらの方法は、古代ギリシャの哲学者たちが考え出した方法です。「演えき」は、多分、それ以前から、人間が自然にやっていたことだと思われます。古代ギリシャの哲学者たちは、そのやり方に名前を付け、そのやり方を、考えに誤りを起こさない方法としていつも使うようにしました。逆に、「帰納」は、それまではあまり行われていなかった方法に、やはり新しい名前を付け、これも正しい結論を得られる方法として使えるようらしたものです。

「演えき」は、『Aが正しければ、Bも正しい』に誤りがなく、『Bが正しければ、Cも正しい』にも誤りがなければ、『Aが正しい時、Cも正しい』と言う結論にも誤りはないとするような推論のやり方です。「近くにライオンがいた。」と言う事実に始まって、「誰かがライオンに襲われるかも知れない。」の結論を得る推論は、この方法を使った推論の例です。

「帰納」は、「演えき」とは逆に、『Cが成り立つためには、Aが正しくなければならない』を出発点にして、『Cが成り立つためには、Bが正しくなければならない』ことを述べ、『Bが成り立つためには、Aが正しくなければならない』ことを確認します。このようにして、出発点の『Aがた正しいので、Cが正しく成り立つ』ことを述べます。

例えば、「皆さんは死にます。」は、「皆さんは、人間です。」から始めます。そして、「全ての人間は動物です。」、さらに「全ての動物は死ぬ。」が正しいことを確認します。これは、「死なない動物はいない。」を確認すれば良いわけです。そのことは、これまで「死ななかった動物がいたかどうか。」を調べれば良いのです。そのような動物は、これまでいなかったので、「死なない動物はいない。」は、『正しい』と言うことができます。従って、「皆さんは死にます。」は、『正しい』説明と言えます。

このような正しい説明に導くことができる方法を使って、話し手が、自分が正しいと信じていることを説明し、聞き手がそれを理解することで、人間は社会全体として正しい方向へ進むことができるようになりました。「演えき」も「帰納」も、それを形通りに使えば必ず正しい結論が得られるとは言えません。「演えき」でも「帰納」でも、それを使って、『正しくない』ことを、まるでそれが『正しい』かのように説明できます。古代ギリシャの哲学者たちは、そのような説明の仕方を、「き弁」と名付けて、詳しく考えました。

「き弁」の代表的な例に、「アキレスと亀」という説明があります。アキレスは、足が速いギリシャ神話の神でした。亀がゆっくり歩くことは、古代ギリシャの人々には、よく知られていたことでした。日本の昔話の「うさぎと亀」と同じように、アキレスと亀が競走をすれば、亀はアキレスに負けるはずです。しかし、古代ギリシャのある哲学者は、「亀が先に歩き出していれば、いくら足の速いアキレスでも、亀に追いつくことはできない。」と言いました。

その古代の哲学者が行った説明は、つぎのようなものです。先に歩き出した亀を追いかけるアキレスが、亀が今いる場所に到着するときには、足の遅い亀でもアキレスよりも少し前に進んでいるはずです。次に、その亀がいる場所にアキレスが行こうとすると、亀は今いる場所より少し先に進んでいます。これは、何回繰り返しても同じです。つまり、無限にこの説明を繰り返すことができます。ですから、「アキレスは永遠に亀に追いつくことはできない。」が『正しい』という説明が成り立つのです。

この「アキレスは亀に追いつけない。」と言う説明の仕方は、『正しい』説が『正しい』ことを説明するときの、「演えき」の方法と同じです。しかし、この説明には隠された「仕掛け」があります。その仕掛けは、現実の世界では、論理が進むと同時に、時間も進みますが、時間の進み方と、論理の進み方に違いがある点を使ったところです。実際に、論理が1つ進むときに進む時間は、アルキメデスが直前に亀がいた場所に追いつくまでの時間であり、本当は、どんどんとゼロに近づいてゆきます。ですから、「アキレスは亀に追いつく。」のです。このトリックは、「論理が1段進む時間と、その間に実際に進んでゆく時間が同じであるとすれば、」と言う前提が『正しい』ことですが、その前提は『正しくない』のです。

人間と人間が情報や知識を交換する時、このような「誤り」が、偶然に紛(まぎ)れ込むことがあります。さらに、古代ギリシャの一部の哲学者たちが行ったように、そのような「誤り」を意識的に紛れ込ませる例もあります。それは、人間がいつも使っている言葉と、その文法を使って情報のやり取りを行っている限り、そのような「誤り」が入り込むことを防ぐ方法はないのです。

(つづく)