公開: 2023年2月4日
更新: 2023年5月23日
キリスト教に限らず、全ての宗教は、「人々を差別してはならない」と教えます。しかし、人類の歴史を振り返ると、「差別」によって、同じ人間社会の中に生きている集団の間に、従事する仕事の内容、住む場所、子供達が受ける教育の内容、人間同士の間で使う言葉などを変えるような例は、しばしば見られます。そして、それらの違いによって、人々の間に、差をつけようとするのです。その意味では、「差別してはならない」と言う教えは、現実には宗教上の理想にしかすぎません。
古代エジプトの社会では、王とその家族に関係する人々、王に仕(つか)え、宗教上の儀式を取り仕切る神官達、王に仕え、国や王を守って戦う兵士を統率する将軍などの軍人、将軍や軍人の命令に従って、武器をとって他の国の兵士と戦い、国の治安を守るために国民の行動を規制する兵士達、食料を生産する農業などに従事し、命令されれば、武器を取って兵士としての役割を担う一般の人々、一般の人々の下で、肉体労働に従事する「奴隷」達がいました。
これらの人々は、それぞれの集団に属して、それぞれの社会階層を形成していました。そして、王(家)の人々、神官達、将軍・軍人達、一般市民達、奴隷達の5つの階層を作って、生活していました。それらの階層は、家系によって明確に分けられており、ある階層と別の階層との間には、差別がありました。しかし、キリスト教では、人間は神の前では平等であるとの考えから、そのような社会階層間における宗教上の差別を認めませんでした。ただ、神に仕える宗教家だけは、特別な人々とされていました。結婚も許されていませんでした。
とは言え、封建制度を守っていた中世のヨーロッパ社会では、階層に従った身分制度が、厳格に守られていました。人類の歴史の中で、この身分制度を否定する考え方が一般化したのは、19世紀の米国社会からですが、その米国社会でも、その視野に入っていたのは、白人の男性だけでした。米国社会で、資本主義が大きく発展した背景には、もともと貴族制度がなく、ヨーロッパからの移民、特にプロテスタントによって建国された新しい国家だったからでした。
キリスト教に限らず、全ての宗教は、「人々を差別してはならない」と教えます。しかし、人類の歴史を振り返ると、「差別」によって、同じ人間社会の中で活動している集団の間には、従事する仕事の内容、住む場所、子供達が受ける教育の内容、人間同士の間で使う言葉などを変えるような例が、しばしば見られます。その意味では、「差別してはならない」と言う教えは、現実には宗教上の理想にすぎません。従事する仕事や、受けるべき教育の種類を、子供の両親が属している社会階層の違いによって、社会として子供に強制することは、社会の人々の間に、社会階層の違いに基づく格差への意識を生み出します。例えば、「経済的に裕福な両親に育てられている子供だけが、良い学校へ行き、良い教育を受けて、将来、社会を指導する立場の職業に就けるようになる」と言う、これまでの社会的な慣習や制度を継続すれば、人々の間に社会的で継続的な差別を生み出します。
人類の歴史を振り返ると、人間が人口の多い、大きな社会を作り始め、社会で行われなければならない数多くの仕事を、別々の人々に割り当てるようになった、古代王国の分業制が成立してから、王の子供が王になり、王に仕える神官の子供が神官になり、王の統治を支える将軍や軍人の子供たちが将軍や軍人になり、食物を生産する農民などの子供たちが農民になるのは、ごく自然な「成りゆき」に従った習慣・制度であると考えられてきました。子供たちは、家庭の中で、親の生き方を見て人生を学び、親の仕事であれば、他の家の子供たちよりも上手にこなせる場合があるからです。とは言え、それは子供たちの能力が、親から遺伝的に受け継いだものだからと言う理由ではありません。ただ単に、見た目で親の真似をしているだけかも知れません。ですから、血筋によって仕事を受け継ぐと言う考え方は、ある意味、あまりにも単純な考え方です。それは、社会にとって最も合理的な方法だと言うことではありません。
人類の歴史を通して、最も長い期間に渡って、社会的な制度として行われてきた世襲と「封建制度」の問題は、このような社会的には合理性のない、血縁関係による仕事や役割の分担の継承を、積極的に認めていることです。これは、「王の子」から次の「王」を選ぶような場合、社会の中で最も「王」として、その地位にふさわしい人間を選ぼうとすると、王を変えるたびに、次の王を決めるための過程で、毎回、社会的混乱が生じるため、その社会の安定性が失われると言う、別の大問題が生じることを予防するための社会的慣習だと言えます。そのため、社会全体としては、「王の子」の中から王位を継承する王子を選ぶ方法が、混乱が少ないと言う結論になったのでしょう。政治を行う王にとっても、その方が安心して、政治だけに集中して権力を振えます。そうでなければ、権力を維持することに十分な配慮をしながら、同時に人々のための政治も考えなければなりません。特に、王に仕える軍人や将軍の中には、王から自分に与えられている武力を使って、王から「王の権力」を奪い取ることを考える人が出るかも知れないからです。
最近の世界でも、ロシア国内においては、大統領が国の政治全体を統治すると言う政治形態が採用されています。大統領は、国民による選挙で選ばれます。現在のロシアの大統領は、プーチン氏です。彼は、ロシア軍によるウクライナ侵攻を計画・実施し、数多くのロシアの若者達の命を失いました。仮に現在の状況が来年まで続くと、もっと多くのロシアの若者の命が失われます。プーチン氏の大統領としての任期は、2024年までで、プーチン氏が次の大統領選挙に勝たなければ、大統領を続けることはできません。その意味では、次期大統領の座を目指すプーチン氏は、ウクライナとの戦争を続けながら、どうすれば大統領選挙に勝てるかも考えなければなりません。ウクライナとの戦争に勝てれば問題はありませんが、そうでなければ、問題はもっと複雑になるでしょう。そのように考えると、プーチン氏が、核兵器を使ってでも、ウクライナとの戦争に勝たなければならないと考える日が来るかもしれません。世襲制でない国家元首の選挙が、国民にとって、常に、正しい政治をもたらすとは、限りません。
ロシアが、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)のように、国家元首の地位を血統によって継承すると言うのであれば、ロシアが核兵器の使用を考える危険性は、低くなるでしょう。その意味で、封建制度は、政治を安定化するように働く傾向があります。もちろん、政治は安定化しても、それが国民にとって良い結果を保証するものではありません。プーチン氏が世襲によって国家元首になっていたとすれば、プーチン氏は、生きている限り、ウクライナとの戦争を続けるでしよう。それは、長い目で見れば、多くのロシア国民にとって、不幸をもたらすことになるでしょう。15世紀に、ジャンヌ・ダルクが戦ったイギリスとフランスの戦争は、100年近く続きました。それでも、イギリスの王は、何世代にもわたりフランス国王の王位継承を主張し続け、戦争を止めませんでした。その結果は、両国の国民にとって、多大なる損失をもたらした、無意味な戦争でした。それは、国王を、大統領のように、国民が選挙で選ぶ民主主義を採用していれば、避けられた問題です。また、北朝鮮の核開発も、国家元首が選挙で選ばれていれば、なかった問題でしょう。
そのような意味で、長期的な視点に立てば、中世的な、封建的世襲制度の社会よりも、新しい民主主義的な社会の方が、国民の民意を早く、適確に政治体制に反映できる点で、利点があり、優位だと言えます。現代的な政治哲学の理論では、身分制度や世襲制度に基づく社会よりも、民主的な社会の方が、有利であるとされています。しかし、民主的な制度を採用している社会でも、国民全体の意識が封建的であれば、政治体制も結果的に封建時代のように運用されることになります。それは、国民がそれを望んでいるからです。選挙制度を採用しているから、現実に行われている政治も民主的であるとは限らないのです。その意味でも、「差別のない社会」の実現には、政治体制以上に、国民一人一人の意識が重要になります。そのような国民の意識は、小さい時からの教育によってのみ、育まれるのです。つまり、子供の親も、教師達も、周囲の大人たちも、そのような民主的な意識を持っていなければ、真に公正で、民主的な社会は実現されません。
その意味でも、宗教が説く「差別をしてはならない」と言う教えは、人類にとっては、人類が知っておくべき普遍的な原則の一つです。そしてそれは、社会の全ての人が、他人の自由意思を尊重し、他人の自由意志の重要性を理解し、その原則を守って行動できなければ、「良い社会」は実現できないことを教えています。全ての人々が、その原則を守って生きることができなければ、「良い社会」は実現できないのです。その意味でも、「差別のない社会」は、宗教が理想とする社会でありながら、人々もその実現を目指して生きなければならないことを、宗教は、説いているのです。それは、全ての人が、知識や能力の面で、「同じ」であることを説いているものではありません。一人一人が、「自分はどう生きるべきか」を考え、その結論に基づいて、目標を見失うことなく「学び」、「精進し」、勇気をもって自分が信じる道を「歩む」べきことを説いているのです。それは、親の社会的地位や、財力などに左右されるものであってはなりません。
現実の社会を見ると、特に教育と言う視点に限定しても、我々が生きている社会では、親の財力や社会的な地位が、子供の教育に大きな影響を与えています。中世ヨーロッパの社会であれば、ラテン語の読み書きができなければ、知識を得ることが難しく、そのためには、親に子供のラテン語教育に投資する財力がなければ、現実的には不可能だったからです。そして、正規の教育を受けていなければ、政治家や領主にも、宗教家にも、修道院の修行僧にも、学者にもなることができなかったのです。ですから、そのような社会的地位に就ける人々は、その親がそのような地位に就いていた人々に、ほぼ限られていました。現代社会では、親の社会的地位の影響は少なくなったとは言えますが、その影響がなくなったとは言えません。例えば、日本の社会で、有名大学と言われている大学への入学者を調べると、入学者の多くは、親も似たような学歴を得ている人々です。これは、自由な社会と言ってはいるものの、社会が階層化されていることを暗に示していると言えます。日本の東京大学で学んでいる学生の多くが、ピアノを弾くそうです。それは、彼ら、彼女らが、そのような裕福な家庭の出身であることを暗示しています。
より重大な問題は、世帯収入の少ない家庭に育った子供には、高い教育を受けて、より高い社会階層に移動しようと言う野心が育ちにくいことです。これに対して、世帯収入の多い家庭に育った子供たちは、家庭の高い財力に支えられ、自然により高い教育課程に進学し、その教育課程で学ぶうちに周囲の人々からの影響を受け、より高い人生目標をもって生きるようになります。そして、より高い教育を受けたことが、より高い収入が得られる職業に就き易い資格となっています。それは、親の収入が、子供の高い収入の要因になっていることを意味しています。つまり、直観的には「差別」に結びつきそうもない要因でも、人間社会では、複雑な因果関係を通して、社会の中に、「人々の間の見えない壁」を作り出しています。「教育」は、そのような見えにくい要因の一つであることが、ヨーロッパの社会学者達によって、指摘されています。貴族達は、財政的にも裕福な場合が多く、そのことが、その子孫たちに高い教育の機会を与えられる、重要な要因になるからです。その高い教育が、貴族の子供達の将来の職業や地位に影響を与えるのです。
最近、若者の間では、「ルッキズム」と言う言葉が流行しているそうです。「ルッキズム」とは、英語の動詞"look"(見る)から派生した言葉です。語尾の「イズム(ism)」は、日本語にすると「主義」を意味する接尾語です。つまり、「ルッキズム(lookism)」は、「見た目主義」を意味します。人の評価には、外見上の容姿が強く影響する現実があることから、「見た目」が重要であるとする考え方を言います。SNSでは、よく「映(ば)える」と言いますが、これも写真や映像上の「見た目の良さ」に関心を持っていることを意味しています。このような「ルッキズム」思想が広がると、極端に容姿を気にするようになり、容姿の良し悪しで、他人を差別するようになります。これは、人類がかつて経験した、「人種差別」と同じ現象で、「白人至上主義」やヒットラーの「ユダヤ人大虐殺」にまで先鋭化した思想と、基本的なところで似ています。つまり、「見た目」の違いで人々を差別できるとする考えは、人間の心を蝕み、「白人至上主義」や、根拠のない「アーリア人優性」思想のような文化的進化論の考え方に、人々を導く危険性があります。
これらの「人種的差別」の問題は、決してヨーロッパ社会だけの問題ではありません。インドの社会に根付いていた「カースト制度」や、戦国時代後の日本社会にあった『士農工商』の身分制度、今でも日本社会に影響を残している「非差別部落」の人々に対する差別、北海道に残っているアイヌ民族の人々に対する差別など、数え上げればキリがない程、私達の身近には、見えない差別があります。私達の国の古代からの歴史を振り返れば、その社会階層が生み出された背景には、それなりの政治的な理由はあったのですが、その階層の人々の子孫を、現代の日本社会でも差別し続ける合理的な理由はありません。私達が、そのような差別が存在していることを理解していなければ、そのような差別を止めることができないのです。さらに、現代社会においても、新しい差別の要因が生み出されていることも事実です。「ルッキズム」もそのような新しい差別を生み出す可能性があります。そのことを、私達は、しっかりと考えて、行動することを求められているのです。宗教の教えは、それほど深い根拠があるのです。