公開: 2023年2月4日
更新: 2023年9月29日
キリスト教に限らず、全ての宗教は、「盗んではならない」と教えます。しかし、人類の歴史を振り返ると、人間は「所有」概念の獲得によって、ある時から、同じ人間社会の中に生きている集団の人々の間で、ある人が見つけてきた木の実、ある人が狩りで獲ってきた獲物、ある人が作り上げた住居や、土器・石器などの生活に利用する道具、田や畑で育てた作物など、を自分の所有物と区別し、他人の占有権を認めるようになりました。これは、類人猿やそれまでの人類には、なかったことでした。
人間以外の動物の場合は、同じ社会で生きている仲間同士の場合、力の強い者が、他の者の所有物を取り上げて、自分の物としてしまうのが普通です。人間の祖先は、今から6万年前くらい前から、自分達の所有物と他人の所有物を区別するようになり、他人が所有している物は、他人の占有権を優先するようになりました。それは、同じ社会の仲間同士の間での争い事を未然に防ぐやり方として、導入された約束事(やくそくごと)です。この約束事を守るため、その決まりを破った人には、集団全体で制裁を与えるようになりました。
日本の社会では、江戸時代に「村八分」という考え方が成立し、そのような約束事を破った人に対しては、村全体の人々の協力なしには、絶対にできないことを除いて、問題を起こした人を、村に属する人の一人として、助け合いの活動をしないと言う、特別な罰を与えるようになりました。そのようにして、他人の所有物を奪い取った人に対しては、集団全体として、厳しい「罰」を課すことで、そのような行動をしないようにする、社会的な歯止めとするようになりました。これが、現代社会の法制度の原型です。とは言え、領主、君主などには、この規律は適用されませんでした。
ヨーロッパの社会で産業革命が起こり、工業製品の作り方が複雑になったため、製品そのもののつくりや、製品の効率的な作り方が重要になってきました。そのため、新しい製品やその作り方のアイデアを書きものに表し、他の人々がその書きものを読んで、似たような製品を作り出せるような制度を作りました。そのアイデアそのものも、普通の製品と同じように、売買できるようにした制度です。これは、現代社会の「特許」などの制度です。これが、今日の世界では、「知的財産権」保護と言う考え方に発展してきています。
キリスト教に限らず、全ての宗教は、「他人のものを盗んではならない」と教えます。しかし、人類の長い歴史を振り返ると、人類が「所有」概念を獲得したことによって、その時から、同じ人間社会の中で生きている人々の間に、ある人が見つけてきた木の実、ある人が狩りで獲ってきた獲物、ある人が作り上げた住居や、土器・石器などの生活に利用する道具、田や畑で育てた作物など、他人の所有物と、自分の所有物とを明確に区別するようになりました。これは、チンパンジーなどの類人猿にはなかったことでした。動物達の間では、力の強い者が、弱い者の所有物を横取りするのが普通だからです。
人類の歴史を見直すと、人間が大きな社会を作り始めてから、社会で行ってはならないことや、行わなければならないことを約束事として決め、同じ集団の構成員の間では、その約束事をしっかりと守ることを、その集団内の規律とするようになりました。この規律を守らない人に対しては、社会全体で罰を与えるようになりました。これは、現代社会で言う、法律の原点です。今から約5千年ぐらい前になり、古代バビロニアで粘土板に「へら」を使って「楔(くさび)形文字」を書いて記録する方法が確立され、バビロニアのハムラビ王は、その社会に共通な法律をまとめ、国民が犯してはならない罪と、罪を犯した場合に与える罰をまとめた、「ハムラビ法典」と呼ばれる法制度を定めました。
その「ハムラビ法典」でも、罪の一つとして「他人の所有物を盗む」罪が定められていました。ハムラビ法典では、「誰が、誰の何を盗んだか」によって「罪の重さ」と、それに対する罰が定められていました。「誰が」と「誰の」、と言う意味では、「貴族」、「市民」、そして「奴隷」などが区別されていました。上の階層の者が、同じ階層の者の所有物を盗んだ場合と、下の階層の者の所有物を取った場合では、下の階層の所有物を盗んだ場合の方が、罪が軽くなるように決められていました。盗んだ対象物に関しては、物の価値に比例した量の銀を収めることが決められていました。基本的には、盗んだものに見合う価値の「銀」を、罰金として支払うことが原則でした。
社会の構成員の一人が罪を犯した場合、その犯人を社会で捕らえ、断罪し、社会として処罰すると言うのが、近代社会の法律(民法)の原則です。しかし、社会、地域、政治体制によって、どのような罪に対して、どのような罰を与えるかは、違うのが現実です。ただ、他人の所有物を盗む行為については、その罪に対する罰に、大きな差はありません。しかし、近年、知的所有権の侵害のような罪に対する罰の重さは、その罪が行われた国の経済の発展度合いによって、著しく異なることがあります。経済的に進んだ国の間でも、米国社会と中国社会とでは、成熟した米国社会の方が、成熟度の低い中国社会よりも、厳しい罰が与えられます。それは、罪の社会的な影響の度合いが、社会によって異なるからです。
つまり、所有権が及ぶ対象が、人類社会の文化・文明が進歩するとともに、変化する傾向があるからでしょう。未開な社会では、作物、獲物、採集した物、作った道具など、分かり易い対象物がほとんどでした。しかし、文明が進むと、金属の作り方、陶磁器の作り方、建築物の構造や道具の構造など、守られるべき対象が拡大し、知的財産も含まれるようになります。文字が生み出され、それを書き残すための粘土板やパピルス、羊皮紙などが生み出されると、書き残された知的財産そのものが盗まれないように守ることが、社会的な問題になり、印刷機の発明と、その後の出版業界の成長によって、「著作権」と言う名の知的財産権も生み出されました。そのような社会的な進歩を繰り返しながら、人類社会の制度は、少しずつ進歩してきました。
19世紀になって、先進諸国の社会が、産業革命によって、「産業化」の度合いを高め始めると、特許などの工業所有権が先進諸国で確立され、各国でそれぞれに適合する法制度が制定され、運用されるようになりました。しかし、20世紀後半になると、世界の経済は大きくグローバル化を進め、企業の活動は国境を超えて行われるようになりました。これに伴い、国家間における工業所有権の少しの違いが、企業の事業展開に大きな影響を与えるようになり、「国際的な特許権」も必要になりました。とは言え、特許権が守るべきと考える「発明」が、どのようなものであるかについては、各国の文化によって異なります。つまり、盗んで良いアイデアと盗んではならないアイデアについての、国々による理解の違いが問題になるのです。
現在の米国社会では、「物理法則そのものは特許で守る対象とはならない」とされています。それ以外のもので、企業活動に重要なアイデアは、全て特許になり得るとする解釈です。これに対して、ヨーロッパ大陸の諸国では、「物理的な法則を応用した「物」として実現できない「もの」についてのアイデアは、特許権で守るべき対象とはならない」としています。つまり、「問題の解き方」などは特許では守れないのです。日本の法律では、米国社会とヨーロッパ社会の間を取って、工業所有権で守るべき物理的な構造物であれば、その構造物の中にコンピュータが利用され、そのコンピュータをソフトウェアが制御していても、そのソフトウェアを含めて、特許権で守ることができるとしています。もちろん、米国社会では、ソフトウェアは、特許権で保護する対象です。
日本社会の特許権ように、ソフトウェアを利用した構造物による機能の実現を許すことは、物理法則だけを応用して実現された機能のように、自然の摂理に制限されたものだけでなく、物理法則に制限されない自由で、高度な数学を応用した機能の実現も可能になります。例えば、自動車のABSのような機能も、容易に実現できます。これは、自動車に取り付けたセンサーから送られてくる自動車の走行速度情報と、ブレーキが踏まれていることを示す情報とを比較して、自動車の走行速度を可能な限り早くゼロにするように、ブレーキを締める動作とゆるめる動作を高速に繰り返すように、ブレーキ機構の動作をコンピュータ・プログラムで制御する考えです。これは、機械装置だけで実現することも可能かもしれませんが、非常に難しく、一般の車両に、低価格で載せることは、ほとんど不可能な機能です。日本式の特許権解釈は、自動車を開発する自動車メーカにとっては、売れるクルマを作るために、有利に働きます。
日本社会や米国社会では、ヨーロッパ諸国の社会に比較すると、企業が経済的に発展できるように法制度を定める傾向が強く、このような特許権法の運用になっています。それに対して、ヨーロッパ諸国の社会では、「発明とはどのようなものであるか」を決めたうえで、その決めごとに合うか、合わないかで、特許権を認めるか、認めないかを判定します。このような背景もあり、国家としての米国は、世界の特許権に関する条約には、参加していません。表面上は、ヨーロッパ的な特許の解釈を採用している日本国は、法的な問題がないため、国際的な特許権条約に参加しています。しかし、特許の日本での法的解釈では、米国の姿勢に近い立場を採用して、法律の運用をする方針を採用して、国内の産業を保護しています。
この特許権に関する国による対応の違いのように、人類にとって「新しい問題」が発生すると、「何を盗んではならないのか」は、国によって対応が違ってくることが良くあります。特に、インターネットの普及によって、全てがコンピュータ上で稼働する、プログラムによる計算によって実現される例が増え、ヨーロッパ的な特許・発明の解釈では、企業の知的財産産権を守ることが難しくなりつつあります。これについては、日本社会においても、程度の差こそあれ、ヨーロッパ社会と似たような問題に直面しています。技術者が守るべき倫理観が少しずつ異なる3つの社会では、技術者が「してはならないこと」の決まりが少しずつ違っています。ある社会では、知的な生産物(アイデア)を盗んだと思われることでも、別の社会では、そう解釈されないかも知れません。
このような「何を盗み」の行為と見なすかは、その社会における規律の基礎となる宗教と、社会の発展段階によって異なるのが現実です。つまり、文明の進み方の度合いと、その社会の根底にある宗教観によって、「何に対して、どのようなことをしてはならないのか」については、小さな違いが出るのです。それを、その社会に成立している国家の法律で規制するため、経済がグローバル化した現代の世界では、その問題が、しばしば国家間の対立をも生み出すようになっています。例えば、GDP世界第1位の米国と、第2位の中国との間では、知的財産権で守るべき対象の範囲と、それが犯された場合の罪の重さについて、国家間で大きな違いがあり、しばしば、両国間における政治的問題の一つとして議論されています。似たようなことは、1980年代に、日本と米国の間でも起こりました。
最近まで、知的財産権を認めず、アイデアを盗む行為が、「盗み」の例とは考えられていなかった中国の社会では、国家にも、個々の企業の知的財産権を守らなければならないと言う意識は、極めて薄かったと言わざるをえません。そのことが、中国の企業で、コピー製品と呼ばれる、別の国の企業が開発して売り出した製品に似た、「そっくりな」製品が中国市場で安く、大量に供給される問題として指摘されます。例えば、米国アップル社が売り出したiPhoneに似た製品が、中国の市場で売り出された例などが問題になりました。これは、普通の人から見ると、iPhoneに見間違えるほど似せて造られているので、「コピー製品」と呼ばれました。最近では、米国で開発されている製品よりも高度な技術を応用する、似ているけれども、より高度な製品を、中国企業が先んじて開発し、売り出すようになりつつあります。
また、インターネットの応用分野では、米国でインターネット通信販売の普及に、アマゾン社が成功すると、中国社会では、「アリババ」社がほとんど同じサービスを、中国の人々を対象にして2000年頃から始め、大成功を収めました。似たようなサービスは、日本社会でも、楽天市場が、いち早く取り込み、成功を収めました。ただ、日本社会においては、楽天市場が優位性を保っていたのは、2015年ぐらいまでで、それ以降は、本家のアマゾン社が、本格的に日本社会に進出し、楽天市場よりも優位に立ち始めました。特に、中国や日本の社会では、現在までのところ、サービスに限定すれば、基本的に同じアイデアに基づいたサービスを、別の企業が提供しても、社会的には問題とは見なされてはいないようです。法的には、米国、日本、中国の制度に大きな違いはありません。しかし、社会を成り立たせている、人々が共通に持つ、倫理観の違いが、この違いを生んでいます。