公開: 2023年2月1日
更新: 2023年9月28日
キリスト教に限らず、全ての宗教は、「暴力をふるってはならない」と教えます。しかし、人類の歴史を振り返ると、「暴力」によって、対立する個人の間の問題、対立する集団の間の問題、対立する国家の間の問題を、解決しようとした例が、ほとんどであったと言えます。その意味では、実際には「暴力をふるってはならない」は、宗教上の理想にしかすぎません。
エジプトの王が、支配下の市民に命令を下す際にも、王の命令を守らない市民には、「暴力」による罰が与えらることが前提になっています。市民は、「暴力」が恐ろしいので、嫌でも命令に従わざるをえないのです。時に、王の命令に反して、死刑に処される市民もいたのです。しかし、王の命令があまりにも横暴なものである場合、多数の市民が王の命令を無視して、王に反旗を翻し、王を暗殺したり、権力の座から引きずり下ろします。
市民が王の命令に従うのも、王の「暴力」を怖れるからであり、王の命令に反して、王を失脚させるのも、市民の力による「暴力」なのです。王の権力が、正しく使われているとは、王の命令が市民の総意に合っており、王が市民の反感を正しく怖れ、市民が許容できないほどの失政がないことが前提なのです。その意味で、古代の社会は、「暴力」の論理によって支配されていたと言えます。
宗教の理想論では、神の前において、王と市民には差がありません。平等なのです。この原則に従うと、社会を動かすための原則は、「暴力」であってはならないのです。「暴力」ではなく、「相手への思いやり」や「博愛の精神」であるべきなのです。王は市民を、思いやり、市民は王を、思いやる心が、社会を正しい方向へ導くはずなのです。しかし、人間社会の現実は、そのような宗教上の理想からは大きくズレ、暴力に支配されています。
キリスト教に限らず、全ての宗教は、基本的に「暴力をふるってはならない」と教えます。暴力は、人類の社会が生まれ、個人の間、集団の間に、意見の違いが出始めると、その意見の相違を解消して、統一した意見にまとめる方法として、自然に生まれた動物の本能的な手段だったのです。例えば、多くの動物、そして人間に近いチンパンジーなどであれば、自分の肉体的な力を使って、対立する意見や意志をもつ相手を沈黙させます。つまり、暴力を使い、戦って勝った方が、負けた方の意見や意志を無視して、物事を自分の意のままにすることができるのです。これは、「弱肉強食」の理性のない動物の本能に基づいた論理と言われる原則です。しかし、肉体的な強さは、生まれつきの遺伝的な影響を強く受ける傾向が強いので、人間の理性に基づいた倫理的・宗教的には、それが意見の対立を解消するための、平等・公正な方法とは言えません。
人類の歴史を振り返ると、最も新しいホモ・サピエンスの時代だけでも、そのほとんどの時代は、2つの集団の意見の対立を解消する方法として、暴力の衝突による解決法が取られてきました。日本の政治史だけを見ても、1945年に日本が第2次世界大戦に負け、連合国軍に無条件降伏するまで、「戦争」・「戦い」と言う国家・集団の暴力だけが、国家・集団間の問題を解決する、最後の手段であると考えられていました。第2次世界大戦の敗戦に学んだ日本社会は、世界の国々に先だって、「暴力(武力)による国家間の戦争を、複数の国家間の対立を解消する手段にせず、そのための戦力を永遠に放棄する」とした、「平和憲法」を採択し、今日まで国家運営の原則の一つとして来ています。ただし、他国による侵略から国を防衛するための武力だけは、戦力ではないとの考えに基づき、日本政府は、国を守る自衛隊は、平和憲法に矛盾していないとする立場をとっています。
この「非暴力」を原則とする問題解決は、国家間の対立だけでなく、「個人間の対立」や「国家と個人間」の対立にも、基本的な原則として採用される傾向が、世界中で生まれ始めています。国家と個人の対立の例としては、インドでイギリスからの独立を唱えたガンジーの非暴力主義や、米国社会において黒人に対する人種差別に反対したM. R. キング牧師達の黒人解放運動が有名です。これらの試みは、現時点では、完全に成功したとは言えませんが、その後の社会に大きな影響を与えたことは事実です。ガンジーもキング牧師も、宗教的な背景から「非暴力」を主張しました。例えば、キリスト教では、問題の種類に関係なく、意見の対立を解消することを目的に、暴力を使うことを否定しています。しかし、そのキリスト教徒の間でも、中世の「宗教戦争」など、暴力による問題解決を試みた例は、成功したかどうかを別にすれば、数多くの例があります。
個人間の対立においても、18世紀末まで、「決闘」を問題の最終的な解決手段として認めていた社会の例は、世界的に少なくありませんでした。江戸時代の日本では、「かたき討ち」は、禁止されていましたが、「決闘」は禁止されていなかったようです。フランスでも、フランス革命の最中に、若い数学者のガロアが、決闘で死んだことは有名な話です。米国の社会でも、西部劇で有名な「OK牧場の決闘」のように、数名のグループ同士がピストルを撃ち合い、殺し合い、何人かが死んだことが記録されています。ここで、「決闘」としたのは、個人間の命をかけた、暴力行為による対立の解消を言っています。命を懸けたと言っても、同じ武器を使って、戦い合っている一方の人・集団が、痛手を受けて戦えなくなった場合には、第三者の立会人が、痛手を受けた方の「負け」を宣言して、戦いは終わったようです。ですから、負けた方の人々が、全員、死ぬと言う意味ではありませんでした。
ヨーロッパ諸国では、19世紀に入ると、特に個人間の対立を解消する手段として、お互いの武力・暴力を使った戦いで勝ち負けを決める方法(すなわち、決闘)は、違法とされるようになり、社会全体に適用される法律を定め、どちらの言い分が法律に合っているかを、裁判で決めるようになりました。これは、「法の支配」と呼ばれる理性的な原則です。この原則は、社会における正義を法律で定め、その法律に基づいて、対立する意見の双方を、裁判所の法廷において述べさせ、その社会を代表する第三者である判事(裁判官)などが判断する方法が、民主的な方法であると考えるようになったからでした。しかし、国家間において意見の対立が生じた場合には、どちらが「より正しいか」を判断するための、「法律」に相当するものが存在しません。さらに、法律への適合性を判断する裁判所のような機構は、存在していません。このため、21世紀になっても国家間での対立した問題が表面化した場合、その解決には、武力が使われる例は減っていません。
国際連合は、第2次世界大戦後に、アメリカ合衆国を中心として、イギリス、ソビエト連邦、フランス、中華民国などの戦勝国を中心に、戦争という、国家間の武力の衝突なしに、紛争を解決し、二度と世界的な戦争が起きないようにすることを目的に設立されました。しかし、国際連合が設立されてから、わずか数年後(1950年)には、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)を中心とした、共産主義の国々と、大韓民国(韓国)を中心とした、民主主義の国々とが、朝鮮半島で武力衝突した朝鮮戦争が始まりました。この戦争をきっかけにして、一度、武力を放棄した日本でも、専守防衛を謳(うた)った、軍隊ではない、国家国防を目的とした自衛隊が設立されました。現在でも、自衛隊の存在は、武力の放棄を言明した日本国憲法の第9条に違反しているとする、憲法学者の主張があることは、この問題の難しさを表しています。安倍元首相も、憲法9条を改訂して、自衛隊を本格的な軍隊にすべきと考え、そのための運動をしていました。
2023年現在、日本政府は、自衛隊が、日本への攻撃準備に着手した相手国の軍隊に対して、先に攻撃を加え、その軍をせん滅することを目的とした、武力を保持していないとの理由で、自衛隊は「軍隊ではない」と主張しています。しかし、日本政府が自衛隊に、毎年投入している予算は、日本社会のGDPの約1パーセントであり、それは、自衛隊が世界第三位の武力を備えた武装集団であることを意味しています。さらに、現在の日本政府は、敵対している国への先制攻撃を可能にするため、国防予算の上限を、GDPの2パーセントを超えない範囲にまで拡大しようとしています。これは、相手国からの先制攻撃を受けないための、「抑止力」増強のためであると、日本政府は主張しています。しかし、それは、個人間の問題の例で言えば、普通の人が、自分を守るために拳銃を携行するのと変わりありません。それは、暴力団が居るからと言う理由でも、日本の法律では許されないことです。法律的には、武力を使わないのであれば、「武器を持ってはならない」となります。
国際的には、核兵器の保有が、似たような問題を持っています。第2次世界大戦中に、米国は原子爆弾の開発に成功し、1945年8月には、当時、敵国であった日本の広島と長崎に、2発の原子爆弾を投下しました。普通の爆弾を市民に対して使用して良いならば、原子爆弾も使用して良いはずであるとする考えからです。戦争に勝つための手段としては、大量の通常爆弾も、1発の原子爆弾も変わりはありません。戦略爆撃が、戦争の倫理に反するか、反しないかの考え方の違いによって、結論が変わります。最近の研究者達による議論では、戦時と言っても、「戦略爆撃は倫理的に認められない」とする考え方が優勢になりつつあります。とは言え、核兵器を保有している国々の代表者たちは、敵対する国が核兵器を使って攻めてくることを、未然に防ぐためには、核武装しておくことが必要であるとする、「核抑止力」の考え方で、核武装を正当化し続けています。
2021年2月に、ロシアのプーチン大統領は、隣国のウクライナ共和国が、北大西洋条約機構(NATO)に加盟することを阻止すると言う理由で、ロシア軍にウクライナの首都、キーウへ攻め込むことを命令しました。その時点で、プーチン大統領は、ウクライナ共和国が、もともとソビエト連邦を構成する地域の一つであり、簡単に制圧できると考えていたのでしょう。しかし、攻撃が始まると、ウクライナ軍は、頑強にロシア軍に対抗し、大規模な戦車部隊の進軍を阻止し、大量のロシアの戦車を破壊しました。2022年5月を過ぎた頃から、プーチン大統領は、「ロシアは、世界最大の核保有国である」と主張し、暗に、「危機的な状況になれば、核戦力の使用も辞さない」ことをにおわせ始めました。プーチン大統領は、「国家間の問題は、武力でしか解決できない」と考えているようです。
暴力によって、2者間や2国間に存在する対立を解消しようする、理性のない動物のような考え方は、19世紀以降の近代社会においては、少しずつではありますが、否定されるようになってきています。しかし、地球上の全ての人が、「暴力の否定」を認めているわけではありません。核兵器の問題と同じように、実質的に、全ての人が「暴力を否定する」考えに賛同し、それを「正しい」考え方と認めなければ、「暴力」や「武力」は、最終的な問題解決の手段として利用される可能性があります。人間社会がどんなに進歩しても、個々の人間の知能の水準がどんなに高まっても、「暴力」や「武力」は、最後の手段として生き続けます。個人の犯罪でも、殺人を犯した人間の罪を、国家が、その殺人犯の命を絶つことによって償わさせるのは、個人間の暴力の使用を、国家が肩代わりしているだけです。決して、問題の本質的な解決、すなわち殺人の根絶、にはなりません。
全ての2者間の対立や衝突は、理性的で、論理的な議論に基づいて、どちらの意見または主張が妥当であるかを、客観的な立場の第三者である裁定者の判断によって決定することが、最も民主的な解決策と言えるでしょう。自分自身が関わっている問題を、自分自身の論理で主張することは許されても、自分だけの論理に基づいて裁定を下すことは、合理的だとは言えません。その合理性を保証するためにも、その問題解決には全く利害関係のない第三者が、論理的に考えて、どちらの主張が最も妥当性が高いかを判断し、裁定を下すべきなのです。その裁定を導き出す前提としては、人間が規範として受け入れてきた、宗教的な規範が含まれても良いでしょう。わずか数か国に与えられた「拒否権」を認めた国際連合の枠組みは、自己が関係した問題についての裁定に、自分自身も関わると言う意味で大きな、論理的矛盾の問題を抱えています。この問題を解決できなければ、宗教の理想は、実現されないでしょう。
近年、先進諸国の社会では、これまでの「肉体的な暴力」だけでなく、「言葉の暴力」や「精神的な暴力」も、問題になっています。そのような問題の例としては、「セクハラ」と呼ばれる行為や「パワハラ」と呼ばれる行為、相手を精神的に追い詰める言動などが含まれます。例えば、相手の身体的な問題や、生活環境の特徴をことさら指摘して、差別をするなどの行為です。これらは、本人の努力や意志に関係なく、その人が置かれた立場や、生まれつきの特徴などを理由に、その人を社会的に排除しようとしたりする行為です。それは、「いじめ」と呼ばれる行為に特徴的です。幼い子供にとっては、周囲の人々との「見た目の違い」などは、誰にでも認識できる特徴なので、それを理由に仲間から排除しようとする、心理的な圧力が生じます。多くの宗教では、そのような行為も禁じている例が多いと言えます。社会的に問題になっているのは、「人種差別」や「階級差別」などです。
20世紀の初めごろ、ヨーロッパ諸国の研究者の中には、人類の進化の過程を研究し、人種と人間の進化とを関係づけて、ある人種の人々が、別の人種の人々よりも、「ある能力において優れている」と、結論付ける例がありました。その結果、ヨーロッパ社会に多い、肌の白い(コーカサス系の)「白人」が、人類の中で、最も進化した人種で、知的な能力も高いとされました。ナチスドイツのヒットラーは、「白人が最も美しい人種である」とまで、言いました。科学的には、この説には理由がないので、単なる偏見です。しかし、現代でも、同じような説を信じている人々は、少なくありません。見た目の違いは明らかですが、それを能力にまで結びつけることはできません。ましてや、客観的な基準のない「美醜の問題」にまで拡張することは、行きすぎです。それは、「人間はライオンよりも美しい」と言うのに似ています。根本的に誤った議論です。