公開: 2023年1月29日
更新: 2023年9月28日
キリスト教に限らず、全ての宗教は、「嘘をついてはならない」と教えます。また、古代ギリシャのイソップの話にも、しばしば村人に「狼が来たぞ」と言って、人々が慌てて逃げ惑う姿を見て喜んでいた羊飼いの少年が、ある日、本当に狼に出会い、逃げる途中、「狼がいる」と言って、村人に助けを求めたものの、村人たちは「また嘘を言っている」と、本当にしなかったため、少年が狼に食い殺されたと言う話があります。これも「嘘を言ってはならない」ことを教えた、寓話(ぐうわ)の一つです。
高度な言葉は、ホモ・サピエンスが、ネアンデルタール人などよりもはるかに大規模な社会を作り、互いに助け合って生きてゆくために重要な手段です。しかし、言葉を使って話される出来事は、話されている内容が、現実に起きたことであるかどうかを確かめることが簡単ではありません。単なる「うわさ話」でも、「まことしやかに」語られ、多くの人々が、それを真実として受け止めてしまう例は、数多くあります。集団の規模が小さければ、話を聴く人は、誰がそれを話したかによって、内容の正しさや、嘘かも知れない可能性を判断することができるでしょう。
社会の規模が大きくなると、最初に情報を提供した人が、誰であり、その人がどのような人かを判断できなくなります。そのような状況で、誰かから聴いた話を、その内容の確かさを確認せずに、別の人に伝えると言う行為を数多くの人々が繰り返すと、語られた嘘が「社会全体に蔓延(まんえん)」し、人々が、その正しくない情報に基づいて、誤った行動を繰り返すことで、社会全体が誤った方向へと進み始める例があります。歴史的にも、戦争の勃発など、数多くの大事件がそのような原因で起きています。
個々の人間は、ある程度、理性的に行動できる場合でも、ちょっとした情報によって、社会全体が合理的でない動きを生み出すことがあります。そのような状態を戒めるために、多くの宗教では、「嘘を言ってはならない」と教えます。しかし、現実の社会では、「真実を伝えない」ことが、社会全体の異常な動きを止める結果になることもあり、古くから、政治家の中には、「嘘を言う」ことが、常に悪い結果をもたらすものではないとして、愚かな民衆を正しい方向に導くために、「嘘を言うこと」も許されるとする考えもあります。
キリスト教に限らず、全ての宗教は、基本的に「嘘をついてはならない」と教えます。また、古代ギリシャのイソップの話にも、しばしば村人に「狼が来たぞ」と言って、人々が慌てて逃げ惑う姿を見て喜んでいた羊飼いの少年が、ある日、本当に狼に出会い、「狼がいる」と言って、村人に助けを求めたものの、村人たちが「また嘘を言っている」と、本当にしなかったため、少年が狼に食い殺されたと言う話があります。これも「嘘を言ってはならない」ことを教えた、寓話(ぐうわ)の一つです。また、古代ギリシャの哲学者、ソクラテスも「嘘を言う」ことは、その目的がどうであれ、「善いことである」とは言えないと、教えました。
古代ギリシャの社会には、人々を正しい道に導くためならば、「嘘の話で人々を導くことも許される」と主張する哲学者もいました。例えば、「隣の国の人々は、我々の国を滅ぼそうとして、武器を作り、兵士を訓練し始めた」と言う、真実ではない情報を流して、人々の愛国心を奮い立たせ、隣国との戦争に着手させるような計略を立てる人々がいたりします。そして、自らが軍の司令官の地位に就けるように画策します。例え、隣国との戦争に勝てたとしても、そのような嘘の情報をわざと広めた行為は、正当化できるものではありません。さらに、隣国との戦争に確実に勝てるかどうかは、事前に分かることではありません。
これらの理由で、「嘘を言う」ことは、「人が善く生きるために」は、許されない行為とされています。これを哲学では、「倫理(りんり)」と言います。倫理と言う言葉は、元々、ギリシャ語の言葉で、当時のローマのラテン語など、他の言葉にはなかった概念の一つです。古代ギリシゃの哲学者達は、その「倫理」を人の生き方を考える上での、きわめて重要な言葉として、皆が学ぶべき概念であると説きました。そして、哲学者のプラトンは、その「倫理」が、人の生き方の「質」に関係したものであると考えました。この「質」と言う言葉は、もともとギリシャ語にもありませんでした。プラトンは、ギリシャ語の物事のあり様や、良さ・悪さ加減を言う、形容詞から「質」と言う名詞を作り出しました。
古代ローマの思想家、キケロは、プラトンやアリストテレスが残した文献を、ギリシャ語からラテン語に翻訳する目的のため、ラテン語には無かった新しい言葉を作り出しました。現代社会で、私たちが使っている「質」や「品質」を意味する言葉も、その一つです。そのラテン語を英語にした言葉が、現在、我々が日本語で「質」を表現している言葉の基になっています。ソクラテスの「倫理」は、人間の「生き方の質」を問題にしています。つまり、「良い生き方をする」ためには、どうしたら良いのかを考えるのが、「倫理」です。哲学者プラトンは、それは「善のイデア」を学び、それを実践することであると説きました。「善のイデア」とは、様々な「良い行い」を調べて、それらに共通する性質をまとめたものと言えます。つまり、誰が見てもそれが「良い行い」と言える行為の特徴を言います。
もう一人の古代ギリシャを代表する哲学者のアリストテレスは、プラトンが言った「善のイデア」は、存在しないと主張しました。フラトンが絶対的・普遍的な「善」の存在を前提としているのに対して、アリストテレスは、何が善であるかは、「いつ、どこの地域で、何について言うかによって、変わりうる」と主張しました。ですから、アリストテレスの善は、「いつの時代に、どこの人々が言ったか」によって、内容は変化します。アリストテレスは、「奴隷制度を肯定」しました。それは、古代ギリシャの社会では、奴隷制は認められるとする意見です。現代の哲学者の中には、そのことを問題にして、アリストテレスは、「間違っていた」とする意見を主張する人々もいます。
「嘘を言ってはならない」とする教えは、キリスト教などでは、プラトン的な考えに従って、説かれています。しかし、同じ立場の18世紀ドイツの哲学者、カントは、次のような問題を提起しています。強盗に追われたあなたの友人が、今、あなたの家に逃げ込みました。少しして、その友人を追って来た強盗が、「さっきこの家に逃げ込んだ人はどこにいるのか」と、あなたに尋(たず)ねます。あなたはどう答えますか。もちろん、あなたは、その友人の命を守るために、「その人はこの家には来なかった」と嘘を言うこともできます。本当のことを言えば、友人は強盗に捕らえられ、殺されるかも知れません。「あなたは、どうすべきでしょうか。」と言うのがカントの問いです。
カントは、どのような場合でも、「嘘を言ってはならない」と教えました。ですから、この問題に答えるためには、友人が家に来たことは認めるが、友人の今の居場所は答えないと言うことが必要になります。カントは、「さっき、「誰か」がこの部屋に入ってきたが、向こうの扉から出て、どこかに行った。どこに行ったかは知らない。」と答えるべきだと言いました。確かに、現在、その友人が、どこに隠れているのかは知らないので、嘘を言っていることにはなりません。カントは、嘘を言わずに、本当のことも言わない方法を選んでいます。これは、米国の社会で、証言を求められた政治家が、嘘を言うことなく、糾弾する人々の問から逃れる方法として、よく利用される答弁法の一つです。
1992年頃、当時、米国大統領であったジョージ・ブッシュ(9.11のテロの時、大統領であったブッシュ氏の父)氏は、自身の税金の申告漏れを新聞記者から追及されました。その質問に対して、大統領は、「私は覚えていない。」と答えました。内容は、大統領が知人からプレゼントされた万年筆を申告書に記載しなかったことでした。新聞記者が、その万年筆の価格が200ドル以上だったことを突き止めたからでした。大統領と言えども、200ドル以上の贈り物は、申告しなければなりません。そのことを問われたブッシュ氏は、「忘れた」ことを理由に申告しなかったことを正当化しようとしたのです。記者は、「200ドルは大金です。そんな高価な贈物を貰ったことを忘れたのですか。」と、追及しました。この追及で、大統領は窮地に追い込まれました。一般市民との金銭感覚の違いを問題にされたからでした。
2010年以降の米国における政治を見ると、1990年代の政治と大きくかけ離れた政治的な問題についても、政治家の嘘が、あたかもその事実がないかのような議論にすり替わっていることに驚きます。大統領やその側近が、記者たちの質問に対して、「それは虚偽の報道だ」と言って、質問の内容そのものが虚偽であると主張するのです。ここで、「虚偽」と言うのは、「意図的に作り出した」情報と言う意味です。それは、他国の報道機関が、ある国の大統領が話したと言う内容を、人工的に作り出した映像で流すことなどです。単なる嘘ではなく、「社会の混乱を意図的に作り出そうとして、社会に広めた嘘の情報」と言う意味です。最近の世界では、「後から作り出された真実」と言う言葉もあります。これは、「虚偽」の方が、正しい情報として、社会で広く信じられている状態を言います。
1990年代の後半から、インターネットが広く米国社会に普及し、それまでの社会のように、政治家が、社会全体に情報を流せる方法は、マスメディアに限定されることはなくなりました。社会全体へ情報を流すことができる媒体が、マスメディアに限定されていた社会では、情報を提供するマスメディア側が、報道する内容の正しさや、真実であるかどうかの確認を慎重に行い、厳選された内容だけを報道することが要求されていました。しかし、インターネットのソーシャル・ネットワーキングの一般化で、情報の提供が、一般の人々の手にも開放されると、そのような流布する情報の真実性を保証するための、確認行為は、個人の場合、マスメディアのように厳重に行うことはできないので、それが誤った内容でも、許され、広まるようになりました。このとき、情報の質を確認する責任は、情報を受け取る受け側の人々の責任になります。しかし、従来からの社会の惰性で、情報の受け手側は、提供される情報を、無条件に正しい情報と判断する傾向が、今でも続いています。
宗教の教えによる、私達の生活の仕方に対する縛りが弱まりつつある世界において、個々の市民が情報の確認のために何を為すべきかを学ぶことは重要です。しかし、そのような情報リテラシーに関する教育の実態は、遅々として進んでいません。個人間の情報共有の手段としては、大変便利なスマートフォンやパーソナルコンピュータですが、社会的な情報の交換・共有の手段として、社会的に活用できるようになるために必要な、一般市民の知的水準の向上は実現できていません。このことが、一時的に、SNSなどの社会ネットワークの政治利用による混乱、SNSなどを悪用した詐欺などの犯罪の増加などの社会現象も起こしています。宗教による社会規範の規制力の低下は、政治、経済などの人間の諸活動の円滑な実施を妨(さまた)げる要因の一つになっているのが現実です。