公開: 2023年3月3日
更新: 2023年7月16日
進化論は、19世紀のイギリスで、ダーウィンが唱えた生物の進化に関する理論です。似たような考え方は、古代ギリシャでも議論されていました。その意味でも、進化論は特別に新しい説とは言えないでしょう。しかし、6世紀以後の中世ヨーロッパでは、キリスト教が全ヨーロッパの社会を支配した宗教になり、その影響で、「聖書に書かれていることが真実である」と信じられていました。旧約聖書の「創世記」には、我々が生きている世界は、「何もないところ(混とん)から、神が造りだした」と書かれています。これは、物理学的に宇宙の始まりを考えたものではなく、古代のユダヤ人達が「世界がどう創られたのか」を考え、記述したものでしょう。しかし、中世ヨーロッパの人々は、「それが真実である」と信じていたのです。最も権威のあったローマ教会も「聖書に書かれていることが真実である」と宣言していました。
これは、「人間は、神が最初から、神の姿に似せて造りだした、特別な生き物である」ことを認めることになります。ところが、進化論が合理的な考えであるとすれば、「人間が特別な生き物である」と言う説は否定され、「人間もサルの仲間から進化した動物の一種である」と言うことになります。そのことは、聖書の記述を否定することになり、ユダヤ教や、キリスト教の教典の記述が誤りであったことになります。ですから、米国社会の一部の人々は、現在でも進化論を認めず、義務教育でも進化論を教えるべきではないと主張しています。それほど、キリスト教徒にとっては、進化論は危険な思想であり、自然に対する人間の理解を覆すような、急進的な意見でした。現在の科学では、宇宙が誕生してから、今日の姿になるまでの過程についても、進化論的な考え方を適用し、「宇宙は進化しつつある」と言われています。
19世紀に入って、進化論は、「人間が自然を理解する上での最も基本的な考え方の一つである」とする認識が米国社会で広まりました。その影響から、「人間は、自然の真の姿(つまり真実)を解明し、理解することはできない」とする思想も生まれました。そして、人間としてできることは、人間が考えられる様々な仮説の中から、最も合理的な説を「取りあえずの真実」と見なして、思考を先に進め、新しい矛盾が見つかった場合には、その矛盾を解消する新しい理論を組み立てるべきである」とする、現実的な思想が生まれました。それを「プラグマティズム哲学」と呼びます。現代の科学は、このプラグマティズム哲学の枠組みを基礎として、研究が進められています。このことは、中世ヨーロッパで信じられていた「絶対的な真実が存在する」とする哲学を否定することになります。「絶対的な真実の存在」は、人間の哲学の大転換を引き起こすのです。
ヨーロッパ社会で言う、「絶対的な真実」とは、自然科学の世界では、「絶対的に正しい法則」のような自然の理解や、倫理学の世界では、「人がどのように生きるべきかの問いに対する答え」が、存在することを前提としています。キリスト教では、それらの絶対的な真実は、「神」が造りだしたものであると、考えられています。このことから、プラグマティズム哲学では、キリスト教の神の概念を否定する結果となります。その結果、新しい宗教の考え方が必要になり、その考え方として、「無神論」が唱えられるようになりました。「無神論」は、「絶対的な真実」を創り出した存在としての『神』は存在しない、または、存在するとしても、人間にはその存在を認識することはできないとする思想で、人間の「合理的な精神」だけを頼りにする思想に基づく、新しい宗教観と言えるでしょう。ドイツの哲学者であるニーチェは、「神は死んだ」と言い、プラグマティズム哲学と同じように、「無神論」を唱えました。
進化論は、19世紀のイギリスで、ダーウィンが唱えた生物の進化についての理論です。似たような考え方は、古代ギリシャでも議論されていました。その意味でも、ダーウィンの進化論が、特別な説とは言えないでしょう。チャールズ・ダーウィンの祖父も、進化論者だったと記録されています。ダーウィンは、イギリスの調査船、ビーグル号に乗船し、世界一周の調査を行い、世界各地の生物について調べました。その時、ガラパゴス諸島の、別々の島で、同じ種類の動物が、全く異なる生物であるかのような、生態になっている事実を発見しました。例えば、陸上の生物であるトカゲが、ある島ではワニのように海を泳ぎ、海中に繁茂している海藻を餌にしている例があることを発見しました。同じような生物でも、生育する環境が変わったため、生きる環境に適応するために、生態を変化させることがあると言う事実です。これは、トカゲが、生育する環境に適応するために、他の環境に生育するトカゲとは異なる能力を得たことを意味していると、ダーウィンは考えたのです。このことから、ダーウィンは、生物が、その生息環境への適応をもたらすとする、「進化」論を提唱しました。与えられた環境で、生存に有利な遺伝を受け継いだ個体達か生き残り、そうでない個体達は生き残れないという、「適者生存」の法則です。
5世紀末に、西ローマ帝国が滅亡し、6世紀以後の中世ヨーロッパでは、古代ローマ帝国で国教とされたキリスト教が、全ヨーロッパの社会を支配する宗教とされ、その影響で、「聖書に書かれていることが真実である」と信じられていました。旧約聖書の「創世記」には、我々が生きている世界は、「何もないところ(混とん)から、神が造りだした」と書かれています。これは、物理学的に宇宙の始まりを考えたものではなく、古代のユダヤ人が「世界はどう創られたのか」を想像し、記述したものです。現代の物理学では、この宇宙はビッグバンの大爆発によって始まったと考えられています。現代科学の視点から言えば、旧約聖書の創成期の記述は、現時点では真実とは言えません。しかし、中世ヨーロッパの人々は、「それが絶対的な真実である」と信じていたのです。ローマ教会も「それこそが真実である」と宣言していました。ローマ教会の人々は、物理学の専門家ではありませんが、当時の社会の人々から見れば、ローマ教会の宣言は、疑う余地のない、最も権威のある教えだったのです。
ダーウィンの進化論も、19世紀の時点では、遺伝子に関する知識がなく、どのようにして進化が起きるのかは説明できていませんでした。今日の生物学では、個々の生物を作っている細胞には、遺伝子が組み込まれており、親の遺伝子がコピーされて、子供の遺伝子に引き継がれることが分かっています。子供の容姿が、親のそれに似る例が多いのは、遺伝子が引き継がれているからです。進化は、その遺伝子の一部分が何らかの理由で、親の遺伝子とは異なる遺伝子に変化することで始まります。そのようにして生まれた新しい遺伝子の部分による性質の変化が、子供が生きる環境に適合していれば、その子供が親になった時、その子孫に引き継がれます。その遺伝が、子孫が生き残るために有利であれば、その遺伝を受け継いだ子孫達にも、生き残るのに有利になります。この遺伝子と環境との関係から、遺伝は広く受け継がれるようになり、その動物の種類において、主たる遺伝となります。これが、ダーウィンが「種の起源」で述べた、「自然淘汰」の法則です。環境に適合した遺伝を受け継いだ個体の群れが、勝ち残る可能性が高いとする考えです。キリンの首が長くなったのは、それがキリンにとって有利だったからです。
この考えを人間に近い動物の種類に適用すると、人間に似たゴリラやチンパンジーは、人間と似たような遺伝子を持ち、象やライオンなどの動物は、人間とは少し違った遺伝子を持った動物であると言うことになります。近年、遺伝を決定づける遺伝子は、たった4種類のアミノ酸の組合せで決まることが、分かってきました。その4つのアミノ酸の特別な組合せで、ある遺伝的性質が決まるのです。ダーウィンが予想した突然変異は、この4つの遺伝子の組合せの並びが、少し変化したときに起こるのです。そのきっかけは、宇宙から飛んできた粒子が特定の遺伝子を直撃することや、異なる遺伝的性質をもった2つの個体の混血などです。遺伝子の列の一部分が変化しても、普通、遺伝子はその変化を感知して、元に戻そうとする性質もあります。しかし、そのような修復の性質を乗り越えて、子孫の遺伝に影響を残す変化もあり、そのような決定的な変化によって、突然変異による新種が誕生します。このような突然変異が起こって、その遺伝的性質を持った新しい一族が出現し、その一族の遺伝的性質が、その生き物が生き残るために有利であれば、その新しい遺伝子の列は、その動物の遺伝として親から子へと受け継がれることになります。このようにして、チンパンジーと同じ祖先から、人間は、生まれたと考えられます。
この説明が正しいとすれば、人間は、チンパンジーから進化して、生まれたことになります。これが、現代の人間についての理解です。中世のヨーロッパの社会で信じられていた、「知能を持った人間は、神が自分の姿に似せて造りだした、特別な生き物である」と言う説は、否定されることになります。似たようなことは、宇宙の誕生と進化や、地球上での生物の誕生や進化などにも言えます。それらのことから、人間は、ローマ教会が聖書の記述に基づいて、それまで主張してきたさまざまな説は、真実ではなく、聖書に記述された「話」に過ぎないと言う理解に変わってきました。そうだとすると、現在の科学によって説明されている自然の理解は、本当にそれが「絶対に正しい」真実と言えるのかとの疑問が生まれます。もしそれらの説が、絶対に正しい説明だとは言えないとすれば、人間は、我々が生きている世界をどのように理解すれば良いのでしょうか。その答えが、プラグマティズム哲学の主張です。人間には、本当の真実を知ることはできないとする考えです。その代わりに、人間は、その時点で最も「それらしい」説を選ぶことができます。その最も「それらしい」説を、その時点での「暫定(ざんてい)的な真理としよう」とする考え方です。ちょっと見た所、真実のように見える「説」が、「暫定的な真理」です。
もし、その暫定的な真実が、絶対的な真実でないとすれば、その説では矛盾なく説明することができない例が、いつかは見つかるはずです。もし、そのような問題のある例が発見されれば、その暫定的な真実や理論を、誤った考えとして破棄(はき)し、より矛盾のない新しい説明を考え出すべきであるとするのが、プラグマティズムの考え方です。このようにして、より完全に近い説明を求め続けて行けば、人類は少しずつ、完全に近い真理に近づいてゆくことができるであろうと、考えるのです。このやり方を続けて行けば、いつでも、その時点だけに焦点を当てて言えば、最も「それらしい」説を打ち立てていることとなり、絶対的には正しいとは言えないとしても、相対的には「最も良い」説を獲得していることになるからです。これは、古代ギリシャの哲学者であるアリストテレスが主張した「中庸(ちゅうよう)」の原理に基づく考えに近いものです。これに対して、中世的な「絶対的な真理を解き明かすことができるとする」ことを前提とした思想は、プラトンの「イデア論」の原理に基づく考えだと、言えるでしょう。数学的な問題であれば、このプラトン的な考え方は有効ですが、自然に関する問題の場合については、アリストテレス的な考え方の方が有利なようです。
本来、これまでの宗教の本質は、プラトン的な「絶対・普遍の真実」や、「絶対・普遍な生き方」などのように、理想的で、絶対的な真理の存在を前提としていました。キリスト教の神も、「善のイデア」像を基礎に作り上げられていた、と言えるのです。そこには、アリストテレス的な「中庸」を取る思考はありませんでした。しかし、現実の世界に直面すると、数学のように「美しい」思想は、現実との乖離(かいり)を生じやすく、それで現実世界の基本的な姿を説明できる例は多くありません。19世紀から20世紀にかけて人類が経験した、「知の爆発」によって、私達は世界の新しい姿を見始めています。その姿は、数学のように純粋で、単純・明解なものではなく、混とんとしていて、ややもすると雑多な様相をもち、複雑で、専門家以外には理解が難しいもののようです。そのため、そのような真の姿を、しっかりと説明しようとすると、アリストテレスが説いたように、「中庸」を取って、考えなければ、整理ができなくなるようです。そうでなければ、不完全な思考力しか持たない人間には、理解できる説明が見つけられなくなるからです。
知識が爆発的に増加している、新しい時代の人間に必要とされる考え方の基礎として、進化論が生まれ、それに対応したプラグマティズム哲学が提唱されたのです。このような時代背景から、人類は「無神論」のような新しい形式の宗教を必要としていました。それは、「絶対的な真実を見極(みきわ)められる」とする前提を否定しなければならないからでした。しかし、その無神論には、今のところ、新しい倫理学的な思想を確立するための底力が欠けています。人類が、「この新しい時代にどう生きるべきなのか」と言う問いの答えを考えるために、そしてこの問いに対する答えを見出すためには、新しい倫理思想を作り出さなければならないのです。そして、その倫理思想に基づき、「疑似宗教」ではない、全く新しい「宗教」を作り出すことが求められています。それによって、人類は、新しい正義や、「善を為すこと」についての新しい思想を確立し、自分達の生き方を律してゆかなければならないのです。それは、偽善者には「本当の真の善を為す」ことができないのと同じように、疑似宗教では、私達に正しい生き方を、示すことができないのです。
考える機械であるコンピュータの発明や、新しい生物も作り出せる「遺伝子組換え技術」や「ゲノム編集技術」の開発などにより、人類はこれまでは『神』だけが行えるとされた活動にも参画できるようになりつつあります。将来には、人間の能力とコンピュータの計算能力を組合わせた「ハイブリット人間」のような半機械生物を作り出すかも知れません。それほどの能力を手に入れた人間は、その能力に見合った新しい哲学、倫理観、宗教観を持たなければなりません。しかし、その哲学、倫理観、宗教がどのようなものであるのかについては、まだ、議論もされていません。人口減少が続く日本では、遺伝子組換えと人工授精を応用して、人間に必要な労働をさせ、日本人の遺伝子を継承した人間の人口を増やすための養殖人間を生産することは、できるようになるでしょう。しかし、これまでの宗教観や倫理観で言えば、それは「やってはならないこと」であり、「神のみが行えること」でした。それを人の力でできるようになりつつある今、やるか、やらないかの選択は、人類の選択にかかっているのです。それは、一部の科学者や技術者、または政治家の手に委ねてはならない問題です。そのためには、新しい哲学や宗教の確立を急がなければなりません。
宗教には、もうひとつ、大切な教えがあります。それは、キリスト教では、「許し」の教えであり、仏教では、「慈悲(じひ)」の教えです。このことは、哲学的な倫理としては、語られない考えですが、「友愛」とか「博愛」の精神として、多くの宗教に共通する教えです。人間は、他人から受けた攻撃的な行為や言葉で傷つきます。そのような誰かから受けた行為を忘れることはできません。しかし、その行為を行った人を許すことはできます。この許すことを可能にするのが、「許し」や「慈悲」の考えです。これによって、その行為を行った人と和解し、自分自身も癒(いや)されるのです。そのような癒しがなければ、人は人らしく生きることができません。いつまでも、相手の人を憎んで生きることは、自分にとっても不幸なのです。戦争などで、肉親を殺した敵の兵士を憎く思うことは、自然のことですが、その憎しみを一生、自分の中に抱え込んで生き続けることは不幸です。人は、そのような相手を許し、相手と対話し、相手を理解することで、救われ、癒されるのです。そのような許しや慈悲の心を説いているのも、宗教の大切な教えの一つなのです。このことも、無神論では、解決できない問題の一つです。
私たちは、「新しい時代の善」とは何かを考え、その「新しい善を為す」ために、「どのように生き」「どのように活動すべきか」を、自分で問い続け、考え続けなければなりません。