公開: 2023年7月15日
更新: 2023年7月16日
2023年7月9日のNHK Eテレの放送で、「こころの時代」のシリーズ「問われる宗教と"カルト" vol.6において、日本人の識者たちによる「宗教リテラシー」に関する議論が行われました。ここでは、その番組の議論で問題になったいくつかの論点について、筆者の個人的な考えを述べます。
この番組では、安倍元首相の暗殺からほぼ1年が経った時点で、視聴者の多くが問題として提起している「宗教リテラシー教育」について、欧米諸国ではどのような教育が行われているのかを識者たちが説明し、日本における宗教リテラシー教育のあり方について議論がされました。その議論の中で、筆者が注目したことの一つに、日本社会では、「第2次世界大戦後、学校で宗教が教えられてこなかった」と言う認識が一般的であるとする認識がある、とする理解でした。
これは、憲法で「政教分離」が規定されたため、「学校の教育で、宗教を教えることができなくなった」とする認識が広まったためであるとされているようです。しかし、これは日本の教育の現状を、極めて表面的に見た意見です。現実の学校教育では、「道徳」と言う科目が教えられています。これは、第2次世界大戦が終わるまでの「修身」の科目に相当しているもので、江戸時代の儒教と同じような位置づけになっています。そして、その内容は、戦前の「修身」と大きく変わっているとは、言えません。
明治から昭和20年までの学校教育では、日本の歴史として神道の神話が教えられ、それに基づいて天皇制が合理化され、富国強兵と天皇に対する忠誠を育成するための「修身」が、日本社会における倫理の基礎として教えられていました。この基本的な枠組みは、戦後も守られ、富国強兵に代わって「経済発展」が強調され、天皇への忠誠に代わって「国家・社会のために」が強調されるようになったのです。ある意味、本質は変わっていなかったと思います。
近代日本社会の歩みを振り返ってみると、天皇を中心とした中央集権国家の建設を目指し、欧米先進諸国に追いつき、追い越すことを目標に、国家経済の発展にまい進してきた新興国の姿がありました。そのために、政府は、国民に対して天皇へ忠誠をつくし、勤勉に学び・働くことを求めました。そのような国民に育てるため、政府は全国民に対して義務教育制を宣言し、基礎的な知識の習得を推進するとともに、天皇への忠誠心を養い、勤勉に働くことが重要であるとする価値観を教えるため、「修身」と言う科目を設け、教えました。
特に、天皇への忠誠心を育むために、人々に天皇を「神」として崇めるように教えました。それを合理化するために、日本人が祖先崇拝の傾向が強いことを利用し、古代からの神話に基づいた歴史観を教え、天皇家の祖先が神であったとする国家神道を、国家の宗教であるとして教育しました。さらに、江戸時代に普及していた儒教の教えに基づいて、「忠」と「孝」に重点を置き、天皇に対する忠誠心と、親や家に対する「孝」の精神を重んじる教育をしました。これが、戦前の「修身」教育でした。しかし、この日本人の心に根付いた精神構造は、敗戦による占領軍の政教分離政策によって、完全に破たんしました。
日本と同じように、連合軍に負けたドイツでは、敗戦後、宗教教育は、学習者が信じる宗教別の内容を教育することになりました。つまり、プロテスタント、カトリック、ユダヤ教、イスラム教、と一般的な倫理学です。これら大して、日本では、戦前の修身に代わって、「道徳」が導入され、置き換えられました。しかし、その根幹は、あまり変わりませんでした。特に、労働倫理に重点を置いた点では、ほとんど変わらなかったと言えます。直接、神道や天皇制について教えなくなった点を除けば、変わっていないと言えます。
近代国家においては、一般に民族と国家が1体1に対応し、そのことから国家と宗教が結びつきやすい傾向がありました。また、どの国においても、文化は宗教と深く結びついています。それは、日本と神道の結びつきだけではあませ。このことは、愛国心とその国の主たる宗教とが、深く結びついていたことを意味しています。例えば、アメリカ合衆国とプロテスタント的倫理観には、強い関係があることはよく知られています。似たようなことは、共和国のフランスとカトリック的社会制度との関係にも見ることができます。このことは、その国の国民にとっては、宗教の影響を、直接感じることが難しいことも意味しています。
日本人にとっては、古事記の神話と大和朝廷の成立は、神話と言うよりも古代の歴史のように感じられ、その流れの中に天皇家の家系が位置づけられています。実在の天皇が神であると信じている人は少なくても、天皇家が、間接的に神話の神々に繋がっていることを、否定する日本人は少ないでしょう。そして、その神々は、神社に祀られています。このことは、現代に生きる私たちにとっても、明治以来、日本政府が行って来た天皇崇拝と富国強兵のための勤労の倫理を強調した「忠君愛国」の教育の名残が色濃く残り続けていることを意味しているでしょう。それは、明治以降の日本の義務教育に、宗教色の強い教育がなかったのではなく、他の列強諸国と同じように、神道を中心とした宗教に基づく、愛国教育があったことの証拠と言えます。
第2次世界大戦後の80年間だけを考えても、戦前の修身に近い道徳教育が行われ続けました。特に戦後の30年間は、小中学校の教員も道徳で何を教えるべきかの確信がなく、戦前の修身教育を手本とし、表面的には神道的な色彩を消し去った、一見すると倫理学にも見えるような、倫理もどき教育を行っていました。このことが、多くの日本人に、「日本には宗教がない」とする錯覚を植え付けたと言ってよいでしょう。とは言え、日本人の日々の生活を見ると、祖先崇拝では江戸時代からの仏教の影響が残っているにもかかわらず、人生の節目節目の祝い事には、神社に詣でて、祈祷をする風習が残っています。また、第2次世界大戦で戦死した兵士達を祀った、靖国神社に詣でて、戦死した兵士たちの霊に感謝し、日本の発展を祈る人々も少なくありません。
日本の憲法で、政府が特定の宗教を庇護することが禁じられているにもかかわらず、多くの国会議員や、国務大臣が、昭和天皇によって日本の敗戦か宣言された8月15日に、靖国神社に詣でることが、ほぼ制度化されています。これは、戦前に、「戦地に赴き、不幸にも命を失った兵士は、死後、靖国神社に「英霊」として祀られる」と、軍や政府が述べていたことが原因であるとされています。その英霊たちに、「誠を捧げるために靖国に詣でる」ことは、生き残った人間の義務であるとの思想があるからです。それは、とりもなおさず、国家神道の思想に基づいた行為であり、平和憲法の趣旨を逸脱した考え方だと言えるでしょう。その行為が個人の信教に基づいた行為であるとするならば、国会議員や国務大臣は、それぞれが、個人として靖国に詣でるべきでしょう。
この問題にも、日本人に特有な、現実を優先する考え方が顕著に表れています。原則を優先するのではなく、個々人が個々人の意志に基づいて靖国詣でを行っている行為が、「たまたま、一定数の議員の集まりになった」とし、現実を優先しているのです。この原則に基づかず、現実だけを注目する考え方は、世界の中では「普通」の考え方とは言えません。原則に反する行為は、絶対に許されないのが、近代以後の法に基づく社会のあり方だからです。「8月15日の靖国詣で」を正当化するのであれば、憲法の改訂を行い、戦前のように国家による国家神道の庇護を認めることが前提になります。それをせずに、「靖国詣で」を行うことは、世界に対して「原則よりも現実を優先する」日本人を、日本人自身が認めることにほかなりません。
国家による国民の統治と、人民の主体的な意志に基づく活動の自由を守る権利を保障するために、憲法が制定されています。その憲法の枠組みの中で、国家は国民の愛国心を育み、国家の発展を目的として、他国との戦争を選択することがあります。国家は、国民の愛国心を高める手段として、しばしば、国民の宗教心を利用することを考えます。国家による宗教教育は、この国民の愛国心を高め、戦争相手国の兵力を打ち負かすための手段のひとつです。「わが国民は、神によって選ばれた人々であり、神に守られた人々である。」と教え、戦場の兵士たちが、敵の兵士に対して勇敢に戦う意志を持つようにします。このことは、多くの近代国家で行われました。しかし、それは無制限に行われるものではありません。多くの憲法で、「信教の自由」の権利が認められているからです。
第2次世界大戦中、米国には徴兵制がありました。しかし、憲法の「信教の自由」に基づき、一部の国民は、自分の信じる宗教では、「人を殺すことが許されていない」ので、「兵士として戦闘には参加できない」ことを理由に、兵役を拒否しました。そのような人々の中に、第2次世界大戦後、原爆が投下された広島や長崎で、被災した人々のために、彼らが住む家を建設し、無償で、彼らが住む家を提供するための労働に参加した人々もいました。彼らは、宗教上の理由で、戦闘には参加しませんでしたが、戦後、ポランティア活動として、日本社会の復興に貢献すべく、労働に従事しました。国家としてのアメリカ合衆国政府も、それを認めたわけです。
この例が示していることは、国民に対しては、国家は愛国教育を実施することはできても、個人の信教の自由を踏みにじることはできないと言うことです。個人の自由を認めたうえで、国家は、その個人が受け入れられる範囲の、本人の宗教でも認められる活動を課すことができます。それは、兵役を拒否した個人を牢獄に閉じ込めることではなく、戦争終結後に、敗戦国の復興に必要な活動に従事させることでした。ところで、その戦後復興のための家づくりの活動には、広島市民や長崎市民も数多く参加しました。戦争では、敵対して戦った両国の国民が、戦後は、敗戦国の市民生活の復興を目指して、協力して家づくりに取り組んだのです。両者の間には、共通する宗教観や倫理観があったと考えられます。