宗教について 〜 人の生と死を考える

公開: 2023年3月1日

更新: 2023年6月13日

あらまし

宗教と疑似宗教(つまり宗教を語っているものの、一般には宗教とは言えないものを指します)を区別することは、簡単ではありません。それは、宗教そのものを厳密に定義することが難しいからです。宗教そのものを厳密に定義すると、善なる行いをする『神』(または主体)を信じ、全ての人間はその「善なる主体」を模範として生きるべきであるとする倫理観に基づいた思想を提唱する教祖と、その教祖の「教え」に従って生きるべきであるとする人々の集まりです。19世紀に入ってからも、世界では、数多くの新しい宗教が生まれています。例えば、米国社会では、モルモン教が生まれ、米国のユタ州に本部を置いて、世界中で布教が行われています。モルモン教は、広い意味でのキリスト教の1つの教派と言うことができるでしょう。ヨーロッパ大陸を離れて新大陸に移住してきた人々が、東海岸の土地を出発して、西海岸へ向かい、その過程で、過酷な自然環境の中で生き残るために、集団の結束と維持を守り、発展させるための教えを作り、それを集団の規則とした宗教です。

今、日本で社会的な議論になっている「旧統一教会」も、第2次世界大戦後に韓国で生まれた、キリスト教系の新しい教派と言えます。韓国社会では、キリスト教徒が多く、現在では、仏教徒などは少数派です。そのような背景から、キリスト教を基礎とした新しい宗教が多く生まれました。「旧統一教会」の特徴は、韓国人は神によって選ばれた人々であると主張する点です。日本人は、日露戦争の後、韓国を併合し、朝鮮語とハングル文字の使用を禁止し、日本語の使用を強制し、朝鮮半島生まれの人々に対して、日本人と同じような名前(和名)を名乗ることも強制しました。これは、日本がアイヌの人々に対して行ったことと、同じやり方でした。「旧統一教会」の創始者である文鮮明氏は、この旧日本政府による韓国併合と同化政策を批判し、日本や日本人は、第2次世界大戦後の韓国社会や、韓国人民の経済発展に貢献する義務があると主張しました。

この旧統一教会が説く教えは、宗教と言えるのでしょうか。もし宗教とは言えないのであれば、「宗教に似ているが、宗教ではない」疑似宗教と言うことになります。旧統一教会の教えが、疑似宗教であるとするのであれば、一般の宗教とは何が違うのでしょうか。安倍元総理を暗殺した青年は、旧統一教会は、日本人から財産を奪い、その奪い取った富で教団の建築物を建てたり、教団を維持するために必要となる資金として利用している、と主張していました。このような信者から財産を集める行為は、他の宗教にはないのでしょうか。日本社会では、旧統一教会の宗教法人としての認定を廃して、税制などの優遇を停止すべきであるとする意見も少なくありません。それは、法的な措置として、合理的な措置と言えるのでしょうか。もし、疑似宗教であるとすれば、宗教法人の認定を外すことは、妥当な措置と言えそうです。

疑似宗教について考える

宗教と言う枠組みには当てはまらないにも関わらず、それを信じている人々が、自分達はある宗教を信じていると主張している場合、その宗教団体に属している人々が信じている、「宗教と称している信仰」や思想を疑似宗教と呼びます。特に、疑似宗教の中でも、その団体が反社会的な活動を行おうとしている場合、または反社会的な活動を行っている場合、その宗教的な教えを「カルト」、そしてその団体を「カルト集団」と呼びます。既存の宗教の中にも、その中の急進的な信者達が、過激な方法で自分達の主張を実現しようとしている場合も、その信者達が構成する集団を「カルト集団」と呼ぶ場合もあります。特に、その人々が自分達の主張を通すために、暴力的な手段を取ることを厭わず、組織的に活動する時、その団体は「カルト組織」と呼ばれる例が多いようです。例えば、急進的なイスラム教徒が、暴力的な手段を用いても、ムハンマドの教えを守って、「厳密なコーランの教えを社会の原則とすべきである」と主張している例があります。彼らも、「カルト」と呼ばれています。、

なぜ宗教と疑似宗教を区別するのでしょうか。それは、イギリスの思想家であるジョン・ロックが述べた「民主主義の原則」の一つに、「信教の自由」があるからです。民主主義の社会においては、「人々が信じる宗教は、国や他の人々の制約は受けない」とされています。つまり、民主主義の社会では、何を信じるかは、個人の自由意思で決められるのです。とは言え、その信仰に基づいて行動する時、「何をするもの自由である」と言う主張はできません。例えば、自由とは言え、別の民主主義の原則である、「他人の所有権を犯してはならない」とする原則は変わりません。ですから、自分の信仰に従っていると言っても、他人の富を取り上げる行為は、許されるものではありません。とは言え、そのような富の移動が、その富の所有者の自由意思による寄付で行われる場合、その富を宗教団体が受け取り、その団体の財産に組み込むことは可能です。このような問題に対応するため、民主主義社会では、宗教的な団体を一般の組織と区別して、富の所有権の移転でも、税の納入義務が発生しないように、特別な法律を適用します。

民主主義社会である日本の社会では、そのような宗教を広めることを目的として活動している団体に対して、「宗教法人」と言う特別な枠組みを用意しています。この法律の枠組みでは、「宗教法人」は、その組織からの申請を、文部科学省が精査し、問題がなければ、宗教法人として認めます。ある組織が、「宗教法人」として認められると、その組織に属している個人から、その個人が所有していた財産の一部、または全てについて、「寄付行為」によって、自由に所有権の移転をすることができます。この時、一般の売買のように、財産のやり取りに関する税の納入義務は発生しません。ここが、一般の組織と個人との、財産のやり取りと、その行為に対する税の納入義務とは、異なる部分です。つまり、「宗教法人」の場合、国民の義務の一つである、納税義務の一部が免除されるのです。にもかかわらず、宗教法人申請の審査は、一般的に形式的で、提出された書類に大きな問題が見つからなければ、申請が受理されるのが、これまでの文化庁の慣例でした。そのため、オーム真理教も、一旦は宗教法人として認められていました。

この申請処理の慣例は、これまで、日本社会では、「何を宗教として認め、何を認めないか」の問題について、国民的な議論・合意がなかったからだと言えます。この宗教法人に関する法律は、第2次世界大戦後に、敗戦国の日本を統治した、連合国司令部の命令によって、急きょ作られたものでした。法律は、作ったものの、国民の間には、「宗教」に関する共通概念が存在していなかったのです。日本の社会が民主主義に移行したのは、第2次世界大戦に敗戦した後です。それまで、日本の社会は天皇制の社会で、帝国主義が基本でした。宗教として公式に認められていたのは、国教とされた神道でした。その影響で、神道の神社であった靖国神社は、国家の保護・支援を受けていました。つまり、国営の神社の一つでした。この体制を打破するために、日本を占領した連合軍司令部は、日本政府に対して、新しい日本国憲法を、民主主義の原則に基づいて定めることを要請しました。日本国政府は、その方針に従って、日本国憲法を制定し、その憲法に基づいて、各種の新法を整備しました。そのような新法の一つが、「宗教法人」に関する法律です。急いで書き上げたため、「宗教法人」法が対象とする「宗教」が、どのようなものかを定める定義の作業を、十分に時間をかけて行うことが、できなかったことが実態でした。

この法律の問題点が、最初に明らかになったのは、1990年代に明るみに出た、「オーム真理教」問題でした。「オーム真理教」も、「宗教法人」申請を行い、承認されていました。このため、オーム真理教の信者は、集団で生活し、社会で経済活動を行って得た給与所得などの財産の大部分を、教団に寄付していました。このようにして教団が信者から集めた財産には、税の納付が必要なかったため、教団は莫大な財産を集め、その財産を投入して、毒薬などの危険薬剤を生産する装置や工場などを整備しました。同教団は、殺人に利用できる毒物である「サリン」などを生産し、それを東京都内を走る地下鉄の車内でまき散らし、数多くの犠牲者を出しました。このことから、オーム真理教は、一種のカルト組織であったと言えます。その様な組織であったオーム真理教も、文化庁による宗教法人審査をすり抜けて、宗教法人の認証を受けられたのです。文化庁は、「地下鉄サリン事件」後に、法律の改訂を行い、オーム真理教から宗教法人の認証を外す決定を行いました。しかし、本質的な宗教法人認可問題は、そのまま残りました。

「宗教とは」と言う問題については、前節で議論しましたが、疑似宗教とは何かについては、まだ、議論していません。それが、この節での議論の主要なテーマです。この議論の難しさは、「宗教」と「疑似宗教」とを、単純・明解に分離することで、時間が進むことや、歴史が進んでゆくにつれ、その議論をしている時点では、宗教という概念の範疇には入らなかった「未熟な宗教」が、時間経過とともに「成熟した宗教」に成長する可能性を、断ち切る危険性があるからです。古代ローマ帝国の社会でも、最初、キリストの教えは、社会に受け入れられませんでした。キリストと弟子たちは、その間、弾圧に耐えていました。まだ、キリストの教えは未熟だったのでしょう。そのような社会の環境で、キリスト自身は、磔(はりつけ)の刑に処されました。マタイなどの弟子たちは、キリストが説いた教えを、ギリシャ語で書き残し、後世の人々がキリストの教えを読めるようにしました。キリストの普遍的な宗教を求めた態度と、弟子達のキリストの言葉を書き残そうとした熱意によって、新約聖書がまとめられ、キリストの死後、キリスト教の骨子が出来上がりました。

この例のように、「宗教」として、広く認知できるような教えについては、それを禁止したり、弾圧することのないようにし、成熟した「宗教」に育つような余地を残すことが重要です。そのためには、社会の成員である一人一人が、「宗教」とは何かの、概念を明確にもち、「疑似宗教」との判別ができることが重要になります。オーム真理教などの例を見ると、疑似宗教に見られる傾向としては、「人間としての生き方」を、一人一人に説くことよりも、宗教団体としての組織の結束を強くし、組織の規模拡大や、組織の経済的な繁栄などを優先した、寄付行為などに重点が置かれるような教えには、「疑似宗教性」が疑われるでしょう。また、一部の人々を他の人々から区別して、優遇するなどの「選別」を許す教えは、「差別」を許す素地を生むので、平等を説く普通の「宗教」とは異なると言う意味で、「疑似宗教性」の特徴と言えるでしょう。宗教は、個人の自由な意思に基づいて、信仰が確立されるもので、信者の出自(社会階層)や財力、寄付の多さ、少なさで、信仰心の深さを評価されるようなものではありません。そのような性質をもった教えは、疑似宗教と言えるでしょう。

冒頭で述べた、安倍元首相を暗殺した青年が問題にした「旧統一教会」の例を見ると、裕福だった青年の母親は、旧統一教会に対して、多額の寄付を行っており、その青年の家庭は、そのために少しずつ貧しくなり、最後には、進学校に通学していた青年の大学進学も難しくなったようです。母親は、寄付によって「自分が救われた」と感じたかも知れません。宗教によって、信者が救われるのは、寄付行為によってではなく、心的な信仰の深さによって、でなければなりません。貧しい信者も、裕福な信者も、所有する富の多さに関係なく、救われるのが宗教であり、そうでない教えは、疑似宗教だと言えます。さらに、信者本人の救済ではなく、信者の家族や親族・祖先などの魂の救済を述べるのは、宗教の本質ではなく、疑似宗教の教えにありがちな、宗教とは言えない特徴の一つです。そのような視点から、旧統一教会を考えると、高額の寄付を要求したり、高価な物品の購入などを勧める点を考えると、「宗教」と言うより、「疑似宗教」に近いと言えるでしょう。また、朝鮮半島出身の人々を、日本列島出身の信者よりも高く評価する点などの、選別や差別の視点からも、疑似宗教の傾向が強いと言えるでしょう。

同じことは、日本の神道についても言えます。日本民族は天照大神に守られている人々であるとし、他の民族から区別して、優越した人々であると主張する点など、普遍的な宗教の範疇からは逸脱した考え方が見られます。この点は、ヒットラーが主張した、アーリア人が他の民族よりも優れているとする、社会進化論に似ています。神道は、明治維新以後、第2次世界大戦前の日本社会を支配した、日本軍の首脳達が、自分達の権力の正当性を主張するために利用した、古くから日本社会にあった、祖先崇拝の心情に基づく教えであったと、言えるでしょう。その意味で、神道は「宗教」と言うよりも、「疑似宗教」であるシャーマニズムの特徴を強く備えています。とは言え、神道や旧統一教会の教えを信じることが、間違っているとは言えません。民主主義の原則から言えば、どのような教えを信じるかは、個人の自由であるべきです。ただ、その教えに基づいて、他人の生き方に影響を与えようとすることは、他人の信教の自由を侵すことになります。それは、家族の他のメンバーに対してでも、その人々の自由を侵すことはできないのが、原則だからです。そのことには、私達は十分に注意して行動しなければなりません。問題は、「信教の自由」以外の、他の個人の自由、すなわち自分の富を使う自由や、自分の生命を維持する自由を侵してはならないことです。

(つづく)