宗教について 〜 人の生と死を考える

公開: 2023年2月23日

更新: 2023年7月1日

あらまし

これまで、「獲得した知識の利用」と「自分の財産の利用」について説明しましたが、ここでは、最後に「知識を獲得するための投資」、つまり教育を受けるために必要になる資格の準備について説明します。日本の社会では、特に大学教育を受けることが重要です。そのためには、大学に入学するための選抜制度を通過しなければなりません。普通は、「入学試験制度」です。大学の場合、普通、大学入試センターが実施する大学入学共通テストを受験した後、志望する大学宛に、試験結果の成績と受験志願の資料を送付し、その大学の所定の入学試験を受験し、必要とされる基準を上回る結果を残さなければなりません。この入学選抜方法は、日本社会特有な方法です。

米国社会では、入学選抜に先だって、SATと呼ばれる全国共通試験を受験します。その試験結果が出た後、各大学が公表するSAT合格基準を調べ、入学選抜書類を送付する大学を選び、必要書類を揃えて、大学入試事務局宛に送付します。各大学では、SATの合格基準点だけでなく、入学者選抜基準も発表します。その基準とSATの合格基準点を参考に、志望する大学と学部・学科を決定します。入学者選抜基準の中には、合格者に要求される資質や、望ましい志望動機や社会貢献活動なども記載されています。例えば、望まれるボランティア活動経歴などです。大学の入試事務局では、専門職員が各入学希望者から送られてきた書類を精査し、関係者からの実態調査を実施して、合格者候補を決定します。この時、奨学金の受給者候補も決定します。

この米国式入学者選抜方法では、学業の成績、つまり知識の量や質は、最低線だけが公表されるだけで、必要条件だけが記述されています。入学者選抜では、それ以外に入学を希望する人々の人格や、志望動機と志望学部・学科の適合性、生まれてから入学するまでにどのようなことを学んできたか、家庭内でどのような「しつけ」を受けてきたか、どのような人種に属していて、どのような社会階層に属しているかなども詳細に査定されます。最近では、アファーマティブ・アクションと呼ばれている、少数民族を優先するかどうかについても記載されます。似たようなSAT試験結果の志願者であれば、優先する志願者がどのような人であるかが説明されています。これは、一部の人々にとっては、「公平でない」と解釈される可能性のある制度です。しかし、それが長期的な視点で、公平な選抜だと考えられているからなのです。

SATテストの結果だけで評価すると、SATテストに精通する有名進学高校の卒業生が有利になります。そのような高校には、一般的に裕福な家庭の子供達が多いため、入学者が偏る傾向が出てきます。大学としては、長期的な視点から、社会の中の様々な階層からの出身者を入学させる方が、社会的に活躍できる多様な人々を入学させ、学生同士の間でも、教員と学生の間での関係でも、多様性が増し、良い結果を生む可能性が高まると期待されているからです。このため、有名大学の入学選抜では、成績は低いものの、貧しい家庭の出身者である学生が合格し、裕福な家庭の、成績の高い学生が不合格になる例は、それほど珍しいことではありません。そのようなことは、日本の社会では、ほとんど見られません。日本社会では、成績の良い女子高校生が、入学できない例が、時々見られます。これは、性差別の問題ですが、米国社会では、逆の現象が見られます。

自分の地位を利用する

これからの時代に、より良い人生を送るために、これまで、知識を上手に使って生きること、そして、自分が継承した富や社会的地位を最大限に利用して学び、生きなければならないことを議論してきました。そして、最後に、知識や富ほど、直接的ではありませんが、長期に渡って、じわじわと影響を与える、自分の社会的な身分や地位について考えてみます。社会的な身分・地位は、世襲によって、主として私たちの親や祖先が所属した社会階層によって決まります。親の財力は、先祖の財力と、親の才能と運によって決まります。先祖に財力が無くても、親が才能と運に恵まれていれば、親は、富を得ることができます。しかし、身分や地位の場合は、数十年の短い期間で築くことはできません。多くの場合、100年以上の歳月を必要とするでしょう。その間、家系で言えば、何代か、継続して名を為していなければ、社会的な地位は確保できません。しかし、その様にして得た社会的な地位は、財と同じか、場合によってはそれ以上の働きをします。そのことについて考えてみましょう。

これまで、「獲得した知識の利用」と「自分の富の利用」について説明しましたが、ここでは、最後に「知識を獲得するための資格を得る準備」、つまり教育を受けるために必要になる、社会的な資格の準備について議論します。日本の社会では、高度な専門知識を獲得するためには、特に大学で必要な教育を受け、高度な知識を応用することが必要な仕事に、従事することが重要です。そのためには、その知識を得るための大学に入学するための、選抜制度を通過しなければなりません。普通は、「大学入学試験」です。日本の大学の場合、普通は、大学入試センターが実施する「大学入学共通テスト」を受験した後、志望する大学宛に、大学入学共通テスト結果の成績と受験志願の資料を送付し、その大学が実施する所定の入学試験を受験し、必要とされる基準を上回る成績を残さなければなりません。この入学選抜方法は、日本社会に独特な方法です。米国社会などでは、大学への入学選抜制度は、日本のそれとは、かなり違いがあります。

その「大学入学共通テスト」で高い得点を得るためには、小学校から高等学校2年次までに学習した内容から、基礎的な知識や、基礎的な問題についての解答方法に習熟しなければなりません。大学入学共通テストが、数十万人以上の高等学校卒業予定者を、主たる対象としているため、その採点方法は、コンピュータを利用できるマークシートを使った選択解答方式を採用しています。この日本に特有な解答方式に適合し、制限時間内にできるだけ多くの、正しいと考えられる選択肢を選ぶことに馴れた受験者ほど、高い成績を残すことができます。そこでは、問題で示される、いくつかの選択肢の中から、最も合理的だと判断されるものを1つ選び、マークシートに印刷されている選択肢に対応した番号を鉛筆で塗りつぶします。これは、正しい答えとされる選択肢が、必ず問題の中に示されていることを前提としています。そのような問題に対する解答の方法に馴れることも、その試験の準備としては、きわめて重要です。

また、日本社会における試験の採点方法として一般的な方法は、加点法を前提としたものです。つまり、問題の作成者が「期待される解答」に当たる「答え」を、受験者が、どれくらいの確率で当てられるかを、問題にします。この採点方法も、世界的に見ると、標準的なやり方とは言えません。米国社会で実施されるマークシート方式の試験では、正しい選択肢が何個あるかが設定されていない問題や、正しい選択肢を全てマークしなければ、加点されないやり方なども使われます。これは、解答者が答えを「デタラメ」に選んでも、正しい答えになる確率を低くするための方法です。さらに、採点が加点法ではなく、解答に誤りがあった場合には、加点で得られる点数よりも、大きな点数を減点する方法が使われる場合もあります。つまり、受験者が、自分の解答が正しいと言う確信がない限り、答えない方が高い得点が、得られる可能性が高くなると言う、選択式試験の欠点を改良した、方法も採用されています。

日本社会では、問題に対する正しい答えを知らなくても、選択肢のどれか一つを選んでおくことで、より高い得点になる可能性があります。加点方式だからです。このやり方に馴れている日本人の受験者が、米国式の採点方法を採用した試験を受験すると、しばしば、予想よりも低い得点になることがあります。逆のことが米国人受験者が、日本式の試験を受験したときに起こることがあります。基礎的な知識の水準を、確実に確認・評価するためには、米国の方式を採用する方が良いと言われています。それでも、大学入試共通テストで、日本方式が採用されているのは、日本人の学生にとって、米国方式の試験を実施すると、不利になる受験者が数多く出るからだと考えられています。つまり、日本人の大多数は、幼少期から、日本式の選択方式試験で有利になる解答戦略を、教え込まれているからです。そのため、米国社会では普通の減点法は、幼少期から大学入学試験の準備をして来ている、大多数の日本の人々にとって、不利になると思われるからです。

ここでも、日本社会に特有な階層化の問題が、隠れています。社会階層で、高い階層に属している家庭の子女ほど、そのような標準的な試験に対する解答方法について、小さい時から訓練を受け、初等教育から中等教育の終りまでの課程で、高い成績を残すことで、高等教育への入学を決める大学入学選抜で、他の人々よりも有利な立場に立っているのです。日本社会では、個人の力で子供達が不利益を受けることがないように、家庭の財力で補助的な教育機会(塾など)を与えようとする、自助努力をする例が少なくありません。日本社会では、そのような私塾制度を前提とする社会的な土壌が、江戸時代から作られています。このことが、結果として、日本社会における質の低い公的教育でも、それを改善しなければならないとする、社会的要求が出にくい傾向を生み出しています。その結果、世界の先進諸国の中で、公的教育への国家の投資が最も少ない国の一つになっています。明治時代、財政的に貧しかった政府にとっては、それが政府にとって可能な方法の一つだったからでしたが、それが現在でも、放置されているのです。

しかし、1980年代になって、日本社会は世界の中で最も豊かな社会の一つになりました。それでも、日本の政府は次の世代を担う子供達の教育投資には、十分な国家予算を投入することをしませんでした。それどころか、生まれる子供の数が、急激に減少し始めていたにもかかわらず、人口減少に対処するための政策の導入を、行いませんでした。日本社会で、少子化が急激に進んだ原因の一つに、家庭における子供への教育費負担が、非常に重いことが指摘されていたにも関わらずです。豊かな階層の人々には、そのような教育費負担は、最初から問題にはなりません。そのような教育費負担が重くのしかかるのは、子供達の教育が、子供達の将来の生活を安定化するための投資であることを、強く意識している中流階層の人々です。この問題を解決すべき時に、何の政策も打ち出さなかった日本社会は、何を行うにも制約が強くなり過ぎて、対策の実施が困難になった現在になるまで、この問題を放置し続けてきたのです。そして、今や、少子化の問題は、労働力の量的不足だけでなく、質的な不足ももたらす深刻な社会状況にあります。

将来の日本社会において、日本の経済や科学技術の発展のために貢献できる人材は、現在、幼児教育や、初等・中等教育で学んでいる子供達です。子供達の中で、才能、幸運に恵まれた人々の中に、そのような貢献ができる人材が育つのです。階層化された日本社会では、今のままであれば、そのような人材を生み出すことができるのは、少数の人々しか属していない裕福な人々の階層に限られます。この制約は、将来の世界における日本社会の地位を、低下させます。もっと多くの子供達に、質の高い教育を提供して、その可能性を与えなければならないのです。これまで、個人の才能や幸運は、一部の人たちだけが持っている財産と、一部の階層に属する人々に与えられた特権に、直接関係していました。しかし、それでは、これからの日本社会を発展させるための、十分な数の人材を生み出すことができません。個人の才能と幸運とを、その親の財力や権力から切り離すことが、必要なのです。そのために、公的資金(国家の財政)を投入して、公的な初等・中等教育の質を向上させなければなりません。さらに、親の財政負担を軽減するため、専門家を活用した、公的な幼児教育支援の質を向上させ、母親のもつ職業上の経験や能力を、社会が十分に活用できるようにしなければなりません。

似たような制度を採用している米国社会も、様々な問題に直面しながら、新自由主義的な政治思想を基本としているにも関わらず、現在までは、日本社会ほどの「ひずみ」を生み出さずに、次世代を担う若者達の育成を行っています。それに寄与している要因の一つが、大学の入学者選抜法の違いです。SATのような全国共通試験が実施されていますが、それは、入学者に要求される最低学力を保証するためのもので、入学者の選抜には、SATの得点以外に、自己推薦書や志望理由を書いた書類、高等学校の教員などが書く推薦書、ボランティア活動の記録など、多方面からの評価を行います。さらに、志望者の人種的背景、出身家庭の経済状況なども、判断の材料になります。特に、出身家庭の経済状況は、入学する学生達の出身階層が偏っていると、学生達の意見が偏り、多様な意見が出なくなることを怖れているためです。この傾向は、社会のエリートを輩出しようとしている有名大学ほど、強くなる傾向があります。

このように多様性を重んじる米国社会の大学では、各大学は、高等学校の学生達に対して、「どのような学生の教育に力を入れているか」や、「将来、どのような人材に育つ専門家を育成しようとしているか」などに関する記述を明文化し、公表しています。高校生は、そのような文書を精査したうえで、自分がその大学から、どのような評価を受けるのかを想定して、志望校を選択し、入学選抜書類を送付します。大学によっては、学業成績に重点を置く場合もあるので、ボランティア活動などの経験が少なく、学業に集中して勉学に励んできた高校生は、そのような学業成績に重きを置く大学を選択します。しかし、ハーバード大学のように、多様性を重視する大学には、様々な国の、様々な階層から、様々な才能を持った学生が集まります。ハーバード大学は、そのような多様性を維持することで、将来の世界のリーダーを育成できると考えているからです。つまり、学生の多様性は、人材の育成を目的とした大学にとっては、必要かつ重要な条件の一つなのです。

これに対して、日本社会では、入学者選抜における見た目の「公平性」の担保に重点が置かれているため、数値で比較ができる試験の評点だけを、合否判定に利用することが、好まれる傾向が強いと言えます。合否判定では、受験番号と全国大学入学テストの科目別得点、大学が実施した個別試験での科目別得点、各得点に予め設定された係数を掛けた点数を合算した総合得点を、総合得点の順に並べた表を作成します。大学の入学者判定では、その表のどこまでを合格ラインとするかを決めて、合格ライン以上の受験者を合格とします。この方法は、一見すると客観性が高く、公平性が保てるように見えます。しかし、それは本当でしょうか。テスト結果の点数で受験者が、その大学の志望学部学科で学ぶ学生として、本当に適切な人材かどうかを判断できるのでしょうか。大学入学共通テストは、主として高校1年生から2年生までの履修科目で、学ぶべき内容の履修状況を評価するもので、高校3年生が履修し、学んだ科目で獲得した知識については、ほとんど評価範囲の対象としていません。

このような状況から、一部の進学校と呼ばれるような高等学校では、3年次に履修すべき科目の内容を、ほとんど学ばずに、それまでに学んだ内容を復習して、大学入学共通テストで問われる可能性の高い知識を集中的に学ぶことができるよう、教育プログラムを組む例も少なくありません。結果として、そのような教育を受けた生徒の合格率は、他の方法で教育された生徒よりも、高い入学率を示すことがしばしばです。短期的な見方の親の目から見れば、そのようにして生徒達をより偏差値の高い大学へ、多く入学させることができる高校は、良い高校に見えるでしょう。しかし、そのようにして自分の適正とは無関係に、大学の偏差値と、高校2年までの知識を問題にする生徒の偏差値だけに注目して、より偏差値の高い大学に、より多くの卒業生を送り込む高等学校の卒業生の中には、進学後に入学した大学の教育課程において、自分の適性に適合していない知識の獲得を強制され、自分の能力との不適合に悩んで、最終的に「自主退学」の道を選ぶ人もいます。例えば、文系の知識に興味が強い学生に、理系の知識を優先する教育などです。その学生にとってみれば、そのような退学は、人生における「大失敗」と言えるでしょう。

横浜市にある公立中学校に、貧しい家庭の子供である生徒が通っていました。その子の母親は、知的障害のため、知能水準が普通の人よりも低く、その子が小さい時に、父親はその母と子を置いて、家を出て行ってしまいました。小学校時代から、その子は、母親のために食事を作ったり、家事を手伝ってたりしていました。母親は、働くことができなかったため、生活保護を受けて、何とか生活を成り立たせていました。その子が小学校の高学年になると、学校での勉学に少しずつ遅れが目立ち始めました。そこで、その子が中学校へ進学する時、小学校の先生達は、母親の状態から、その子も「知恵遅れ」ではないかという疑いを持ち、特別学級のある中学校へ進学するように勧めました。中学校に入学して、その子の担任になった教員は、母親と何度も面談を実施し、家庭訪問を繰り返した結果、その生徒の学業の遅れは、母親自身が読み書きができないことが主たる原因であろうと考え、簡単な読み書きの再教育に専念するとともに、その子を母親から切り離して、養護施設に預けるように強く、勧めました。そのままの状態に置けば、その生徒は、社会的な活動ができなくなると考えたからでした。

その母親は、最初、自分の子を養護施設に預けることに、強く反対しました。それは、母親が自分自身の生活ができなくなることを、心配したからだったのかも知れません。担任の教員は、3年間をかけて、根気強く母親を説得し続けました。その生徒の一生が台無しになると考えたからでした。3年生の3学期になって、母親は、自分の子供を養護施設に預けることに賛成し、その子は、養護施設に行き、そこから高校へ通うことになりました。1年ほどして、その担任だった教員宛に、その元生徒から手紙が送られてきました。教員は、その手紙を読んで驚きました。その子が、漢字を使って、しっかりとした文章を書いていたからです。その子は、先生の尽力に感謝していること、少しずつ勉強ができるようになってきたことを報告してきたそうです。もし、その中学校の担任だった教員が、小学校の教員達と同じように、少年の学力の低さが、「母親からの遺伝」だと誤解したままでいれば、少年を母親から引き離すことはできずに、文字の読み書きができない、そのために普通の人のように働くことができない大人になっていたでしょう。

教育は、人の人生にそれほど大きな影響を与えるものです。社会階層の下層の家庭に、たまたま生まれ、しっかりとした教育を受けられない状態に放置された人々は、自分達が読み書きができないばかりでなく、読み書きの重要性すら理解できないため、子供達に読み書きの能力をつけられないまま、子供達を自分達に似たような人々に育て、その人々(子供達)がさらに似たような状況で、その子供達を育てることになります。これは、生物的な遺伝の問題ではなく、社会的な階層の固定化の問題です。今の日本の社会には、そのような問題が隠されていると言えます。この問題を解決するためには、社会の中に隠れた階層間の格差を固定化させないようにする、新しい仕組みが日本社会に必要になっていることを、示唆しています。似たような問題は、身体に障害をもって生まれた子供達にも、起こります。宗教が説いてきた、「公平さ」を保つことは、それほど重要な問題なのです。

(つづく)