宗教について 〜 人の生と死を考える

公開: 2023年2月22日

更新: 2023年6月8日

あらまし

最初に「獲得した知識の利用」について説明しましたが、ここでは、それに続いて「知識を獲得するための投資」、つまり教育を受けるために必要になる資金の準備について説明します。安倍元首相を暗殺した青年が、「母親が、入信した宗教団体に多額の寄付をしたため、家庭の経済状況が悪化し、進学校に在学していたが、大学への進学をあきらめた」ことを、暗殺を決意した理由の一つとして述べたようです。現代の日本社会では、若者の教育に必要な経済負担は、基本的にその若者を育てている家庭が負担することになっています。この点については、国家や社会によって、教育に必要となる経済負担を誰が担うかに関して、違いがあります。

現代の日本社会では、大学や高校を卒業するまで、その教育に必要な費用の負担は、基本的に親の出費に頼っています。これは、明治以降、ほとんど変わっていません。ただ、義務教育については、大正時代から昭和まで、義務教育とされた小学校と中学校までは、公費による負担も行われていました。これは、日本国政府の財政が貧しかったからです。現代の米国社会では、高校教育までが義務教育になっているため、私立の学校でない限り、費用は公費で賄われます。大学教育は、個人が負担することになっていますが、優秀な学生には奨学金が支払われるため、無償または少額の負担になります。奨学金を得られない学生の場合は、自分でローンを組むか、親に負担してもらいます。

ヨーロッパの諸国では、国によって学費の負担方法はまちまちです。18世紀以降、多くの国々では、大学の授業料などの負担は、ありませんでした。20世紀後半になって、イギリスのように、大学教育を有償化した例もありますが、無償のままの国も少なくありません。また、フランスのように、大学教育と公的高等教育(グランゼコール)に分かれている例もあります。かつて貴族の子弟が多く通い、国家公務員に奉職する例が多かった、公的高等教育の場合には、個人の教育費負担はありません。小学校の卒業時に全国共通試験を受け、合格した人だけが、この公的高等教育制度を利用できます。

米国やイギリスの大学の運営には、卒業した元学生や企業からの寄付金が利用されています。有名大学の卒業生の中には、大企業で取締役などに就任し、母校への寄付を決済できる権限を持つ人々も少なくありません。現役学生への奨学金や施設の維持などは、そのような寄付金が有効に利用されています。このような制度・習慣は、これまで日本の大学にはありませんでした。このことが、日本社会における、学生個人やその親の教育負担が増大する原因の一つになっています。奨学金も、日本社会では、その大部分が貸与型の奨学金で、基本的には、学生の借金になっています。高度経済成長が続いた時代には、それでも「奨学金」は機能しましたが、景気後退が続いた今の日本社会では、奨学金を借りた学生は、卒業時に多額の借金を抱えることになります。

自分の富を利用する

これからの時代を生き抜くために、人間は、自分が祖先から継承した富、自分自身で得た富を、どのように利用して、より多くの知識、より質の高い知識を得るべきかについて考えましょう。ここで、問題になるのが、社会に隠れている、見えない社会階層間の格差問題です。全ての人々が、同じで、平等であると考えるのは、単純すぎる幻想です。つまり、人は、どのような家庭に生まれたか、どのような両親から生まれ、育てられたかたかによって、利用できる経済力も、天から与えられた才能も違うのです。どのような条件の下でも、人は、与えられた条件の下で、精一杯の努力をして、生きてゆかなければなりません。少なくとも、これまでの人類は、そのように生きてきました。その前提で、これからの時代に、私たちは、自分に与えられた条件の下で、それを最大限に活用して生きるべきかの方法を、考えてみましょう。そして、どうすれば、もっと皆が公平な条件で、競争ができるようになるのかも、考えてみましょう。

ここでは、「知識を獲得するための投資」、つまり高度な専門知識を獲得するための、教育・訓練を受けるために必要な資金の準備について考えます。安倍元首相を暗殺した青年が、「母親が、入信した宗教団体へ、多額の寄付金を要求されたため、家庭の経済状況が極端に悪化し、進学校に在学していたものの、大学への進学をあきらめざるをえなかった」ことを、暗殺を決意した理由の一つとして述べたようです。現代の日本社会では、全ての若者に対して、若者の専門教育に必要な経済的負担は、基本的にその若者を育てている家庭または、その本人が負担することになっています。この点については、若者が生きている国や社会によって、教育に必要となる経済的負担を、誰が担うかについて、かなりの違いがあることは真実です。例えば、北欧のフィンランドなどでは、大学での教育費負担は必要ありません。逆に、日本社会では、教育費負担は、ほぼ全額、親と本人の個人負担となっています。奨学金も、貸与方式で、最終的には個人の負担になっています。、

現代の日本社会では、大学や高校などを卒業するまで、その高等教育に必要な学費などの費用の負担は、基本的に親の負担を前提としています。この日本社会の状況は、明治以降、ほとんど変わっていません。ただ、大正時代からは、義務教育とされた小学校と中学校までは、公費による負担も行われていました。その理由は、日本国政府の財政が貧しかったからです。現代の米国社会では、幼稚園から高校教育までが義務教育になっているため、私立の学校でない限り、費用は公費で、「教育税」によって賄われています。大学教育については、基本的には個人が負担することになっています。しかし、優秀な学生には、大学から奨学金が支払われるため、無償または少額の負担になるのが普通です。奨学金を得られない学生の場合は、自分で学費ローンを組むか、親に負担してもらうことになります。このことが、米国社会での所得格差を生み出す背景にもなっています。

ヨーロッパの諸国では、専門知識の獲得に必要な教育費の負担については、国によって学費の負担方法はまちまちです。18世紀以降、多くの国々では、大学の授業料などについての個人負担は、ありませんでした。20世紀後半になって、イギリスのように、大学教育を有償化した例もありますが、無償のままである国も少なくありません。また、フランスのように、高度な専門知識の教育は、大学での教育と、公的高等教育機関(グランゼコール)での教育に分かれている例もあります。かつて、貴族の子弟が多く通い、国家公務員に奉職する例の多い、公的高等教育機関の場合には、個人の教育費負担はありません。小学校の卒業時に全国共通の試験を受け、合格基準に達した人達だけが、この公的高等教育制度を利用することができます。現在のフランス大統領や、フランス貴族の子弟、さらにフランス研究機関の要職にある人々の多くが、公的高等教育制度の卒業者です。

幼児期から経済的に恵まれた家庭環境で育ったヨーロッパの貴族階級出身の人々などは、初等教育の修了時までに、他の階級の出身者と比較すると、より高い基礎知識の獲得ができることが一般的で、有利です。特に、18世紀以前の社会では、この身分階層による知識の差は、著しかったはずです。ラテン語の読み書きができなかった人々がほとんどであった時代に、簡単な読み書きができ、さらに簡単な計算もできる子供は、極めて「まれ」だったはずです。このことが、教育を受ける権利ですら、社会の身分階層の影響を受けていた理由です。貴族階級以外の社会階層でも、親が豊かな商人だった一部の人々の間では、ラテン語の学習が盛んに行われるようになっていました。このため、中には全国的な共通試験でも高い成績を残す人もいたでしょう。しかし、一般の市民や農民の子弟の場合、それは現実的には不可能なことでした。

イギリスの社会を含めて、ヨーロッパの社会において、高等教育を受けることが可能であった人々の所属する階層が、実質的に貴族を中心とした、裕福で、高い社会階層の人々に限られていました。つまり、社会階層と受けられる高等教育には、強い相関関係があったのです。この状況は、程度の差こそあれ、米国社会や日本社会でも似ていました。現代の日本社会では、有名大学の入学者と親の年収や、世帯年収との間には、強い相関が認められます。これは、有名大学へ進学する学生の多くが、裕福な家庭の子女であることを物語っています。それは、幼少期からの塾通いのための経済的負担、有名私立小学校・中学校への進学のための経済負担など、数千万円に及ぶ学習経費の負担増が家計に影響するからです。そのような教育制度の現状が、実質的な社会の階層化を引き起こす要因であると、社会学者は、考えています。

このような社会階層の分断は、専門知識の格差が、給与格差を生み出し、その給与格差が、各家庭の子供たちの教育格差を生み出し、その教育格差が、成長したときの子供たちの専門知識の格差を生み出すと言う、望ましくない循環を生み出すため、結果として同一社会の中での人々の間での貧富の格差に発展する可能性が危ぶまれています。既に、米国社会では、そのような傾向が見られ始めています。問題は、そのような社会の内部における格差が、社会の中で固定され、人々が、自分の意思によって、階層間を移動することを難しくするからです。それは、結果として中世の世襲制度のような状態を、実質的に生み出すからです。社会における社会階層の固定化は、社会の進歩や発展を阻害し、世界的な経済発展の遅れや、個人間の富の偏在を生み出し、結果として公平性の低い社会を作り出してしまいます。

社会主義的な社会の構築を目指す傾向の強い、北ヨーロッパ諸国の社会では、国民から高い税金を徴収して、国民の教育費負担を低く保つ政策を採用しています。このため、日本社会や米国社会のように、子供達が親の収入の多さ、少なさによって、獲得できる専門知識の差は生じにくくなっています。むしろ、子供達、個人個人の能力や適性によって、どのような知識を得ることができるかが決まります。米国社会では、このような政府の介入による、教育への所得格差の影響を小さくしようとする考え方は、国民の自由な意思を国家が制限することになると言う理由で、新自由主義の精神に反するため、社会的合意が得にくくなっています。むしろ、米国社会では、自分で得た収入は、国家への税金として納税するよりも、自分の意思で自由に使えるようにすべきであるとする考え方が、受け入れやすい社会になりつつある傾向です。

とは言え、米国社会では、一部の政治家や大企業経営者などから、現状のやり方を維持したままでは、長期的には北ヨーロッパ諸国との経済競争を勝ち抜くために必要な人材を、国内の労働市場で供給することが難しくなり、将来、経済競争に勝てなくなるのではないかと、危惧する人々もいます。これまで、米国社会は新自由主義的な考え方で、効果的な経済運営を継続できていたため、富裕層による社会貢献によって、資本主義が生み出す様々な問題の影響を、小さくして、社会全体での進歩・発展を維持することができきました。その状況を、これからの時代でも維持できるかどうかは、これからの米国社会の人々の考え方によって変わります。米国社会の人々の宗教観や倫理観に変化がなければ、米国社会の発展は可能でしょう。心配されるのは、資本主義経済の変化が、人々の考え方を変え、より利己的な傾向を強めた場合、米国社会は、内部から崩壊するかも知れません。

日本社会でも、社会学者の一部から、日本社会における階層化や格差問題が指摘されています。社会学者の中には、子供達の親の収入格差が、子供達の教育格差を生み出しており、それが将来の所得格差を生み出すとの指摘があります。特に、母親だけが育児を担っている片親家庭の所得が、国内の平均所得の2分の1に満たない、相対的貧困状態にある確率が高まっていることから、離婚率が上昇する傾向が続いているため、国内における国民の分断が起きる可能性があることを指摘しています。日本の国会でも、「子育て支配策」が提案され、親の所得格差による子供達の教育格差が、今以上に拡大しないようにするための政策が、議論され始めています。子供達の教育費負担について、家庭負担の重みが、ヨーロッパの社会に比較して高くなっている日本社会では、親の所得格差が、子供達の教育格差に直結する傾向は、世界の他の先進諸国の社会よりも強いからです。

個人の責任の範囲においても、日本社会では、親は子供達の教育費を負担するために、父親が社会の中で働き、収入を得ることを前提とする制度設計になっています。しかし、その制度設計おいても、母親も一定の制限の中で、パートタイムの仕事に従事し、子供達の教育費の一部を補う努力をするようになっています。さらに、2000年以降の社会では、母親が専業主婦としてではなく、共働き家庭の一員として、終身雇用の対象となっている被雇用者(つまり終身雇用の社員)として、企業に勤務し続ける女性の道を選択する例も増えています。このことは、専業主婦として得られる税制上の優遇措置や、社会保険上の優遇措置が受けられなくなりますが、家庭の所得は、大幅に増加するため、子供の教育費に対する負担の重みは、結果的に軽くなります。ただ、子供の育児に注ぎ込める親の育児時間は、少なくなるため、育児の質が低下する可能性があります。それは、日本社会には、歴史的に質の高い幼児教育を提供できる、幼児教育機関が少ないからです。

現在の日本社会は、昔からの父親だけが家庭外で働き、その収入に頼って、母親が専業主婦として、子供達の幼児教育に専心する、これまでの古典的な家族制度を維持するか、それとも、両親とも終身雇用の社員として働き、家庭内の家事や育児は、自分達が得た収入の一部を投入して、専門的な職業人から有償サービスを得ることで、家庭を運営する新しい家族形態に移行すべきかを、選択しなければならない段階に来ています。新しい家族形態に移行するためには、これまでの社会形態を変えるための様々な法律の改変が必要になります。その場合、現在の社会の仕組みに適応して生きてきた人々や家庭に対して、新しい犠牲や負担を強いる可能性があります。何かが変わることは、それに順応していた人々に対して、それまでは有利に働いていた要因や条件が、無効になるかも知れないことを意味しています。そのため、社会の中に、新しい摩擦や軋轢を生み出すのです。それは、政治的には大きな問題になるかもしれません。

北欧の社会では、新しい家族制度への移行を、社会全体の構造改革として実施しました。これによって、人口の少ない北欧諸国における人材の活用と、労働人口の不足を解消し、長期的には、国家の経済発展を可能にさせています。さらに、その過程で問題になる子供達の育児や教育、家事の実施に必要な労働力供給の問題を、社会全体の問題として、制度的に解決することも可能になります。しかし、それを実施するためには、社会構造の大改革が必要になるとともに、その社会的費用の負担をどう解決するかの問題を生み出します。北ヨーロッパ諸国は、その問題を『高福祉・高負担』の原則で解決しようとしました。それは、一部の人々にとっては、不平等・不公平と感じられる状況も生み出しました。自分が得た給与所得の約2分の1が、税金として徴収されるとすれば、半分は自分の収入でも、半分は他の人々や社会のために使われることと同じに思えるからです。

この議論に端的に表れているように、社会全体を良くするためには有効な制度でも、個人の生活を良くするためには、一部の人々にとっては、悪い制度に見えることもあるのです。とは言え、全てを個人の自由に委ねることは、社会における格差を増大し、結果的には階層化を助長することになるでしょう。現実社会で選択できる解決策は、この、高福祉・高負担と新自由主義の中間にある制度のはずです。どこまでを政府が国民から強制的に集め、どこまでを公的なサービスとして提供すべきかの絶対的な基準はないでしょう。それは、それぞれの社会に生活する人々、国民が、それぞれの基準に従って、自分達で選択すべき問題でしょう。一人の独裁者が、自分の判断で決める問題ではありません。全ての国民が参加する、民主的な政治制度に基づいて、公正なやり方で、決めるべき問題です。選択を行うのは、一人一人の国民の良心です。

(つづく)