公開: 2023年2月20日
更新: 2023年10月18日
皆さんが、変化の激しい、これからの時代を生きてゆくために、考えなければならないことを説明します。これらのことは、必ずしもこれまでの伝統的な宗教では、教えられてこなかったことでしょう。それは、中世までの社会の構造が固定的で、社会の変化が、現代と比較すると著しく遅かったからです。この社会の変化の速度が大きく変化し始めたのは、ドイツでグーテンベルグが活版印刷機を発明してからのことです。特に、そのことがきっかけとなって、北ヨーロッパの諸国で、宗教改革の動きが起こり、一般の人々、つまり王侯・貴族と聖職者以外の人々、の識字率が高まり、その結果として、一般の人々の知的な水準が一気に高まったからでした。
中世の世界では、全ての文書がラテン語によって書かれていました。聖書ですらラテン語で書かれていました。そのラテン語を読み書きできた人々は、高い教育を受けた貴族や僧侶などの、特別な階級の人々に限られていました。16世紀の有名なイタリアの芸術家、レオナルド・ダビンチも、ラテン語の読み書きができなかったと伝えられています。ダビンチが、ラテン語の読み書きを学ぼうとしていたことは、よく知られています。ダビンチの父親は、ラテン語の読み書きができる村の書記官だったと言われていますが、私生児だったダビンチには、ラテン語の読み書きを学ぶ機会が、与えられませんでした。しかし、ダビンチは、イタリア語での読み書きはできました。
宗教改革が始まると、ルターのような伝道者たちは、現地で話されている現地の言葉を使って、一般の人々に対して、聖書の内容を説明するようになりました。この努力は、各地の言葉を書き残すための文法を整理させ、ドイツ語、フランス語、英語などの言語の書き言葉を成立させました。そのため、聖書だけでなく、新しい知識や主張を、現地の言葉で書き、印刷して配布することで、ある人の思想を、一般の人々に広く流布させることが、容易になりました。また、郵便馬車の普及によって、個人の間での情報の交換も容易になりました。この、出版と郵便の制度が、当時の社会に定着したことによって、社会全体の知的水準は、中世に比べて、著しく向上しました。
これからの新しい世界で、皆さんは、積極的に新しい知識を獲得し、その新しい知識を利用して、さらに新しい知識を作り出したり、新しいものを作り出してゆかなければなりません。それは、そのような創造的な活動が、これからの人々に、最も強く要求されている活動だからです。そのような新しい社会の要求に応えるために、皆さんが、常日頃(つねひごろ)から心がけていなければならないことについて、ここに説明します。そのような新しい世界で生きるための姿勢は、これまでの世界で生きてゆくためには、それほど重要てはなく、むしろ社会から「異端」として排除される、危険性の高い姿勢でした。つまり、これまでの社会では常識的であった考え方も、変わってしまうことを意味しています。
ここでは、これからの人間は、どう生きるべきかについて考えてみましょう。世界は、中世から近代へと、大きく変化しました。最も大きな変化は、人間が、生きてゆくために、知らなければならないことが、それまでの世界とは比較にならないほど、多くなったことです。このことは、多くの人々が、長い期間、小学校などの初等教育で基礎的な知識を学び、さらに、高等教育で、将来働くために必要な、高度な専門知識を学び、その後、社会の中での実践(実務)経験を積んだ上で、一人前の専門家として独り立ちするまで続きます。専門分野によって異なりますが、短い人でも13年から、長い人では24年間ぐらいかかります。それぞれの子供の親は、その期間、子供の生活費や、教育費の一部または全てを負担しなければなりません。19世紀の終り頃であれば、その期間は、わずか6から8年間程度でした。これからの世界では、親が子供の成育のために負担しなければならない経済的負担の総額は、もっと増加するでしょう。ここでは、このような時代に、人々が、どのように学び、どのように働き、どのように経験を積んで、知識を増やしながら生きてゆかなければならないのかを、考えます。まず、知識を得るために、その基礎となる知識を獲得しなければなりません。そのことについて考えてみましょう。
人類に文明が誕生してからの最初の5,000年間、人類が知っていたことのほとんど全てのことは、その5,000年間、変わることはありませんでした。例えば、人間とサルは、互いに異なる動物であり、人間は、最初から知能を持った、特別な動物であると考えられていました。この知識は、5,000年間、ほとんど変わることがありませんでした。しかし、現代の世界は、そうではありません。人間は、サルから進化した動物であり、何百万年かさかのぼれば、同じ種類の、互いに似た動物同士であった可能性が高いのです。ここでは、皆さんが、これからの変化の激しい、新しい時代を生きてゆくために、考えなければならない、重要なことを説明します。これらのことは、必ずしもこれまでの伝統的な宗教では、教えられなかったことでしょう。それは、近代までの社会の構造が固定的で、社会の変化が、現代と比較すると著しく遅かったからです。この社会の変化の速度が大きく変化したのは、ドイツで活版印刷機が発明され、文字で書かれた知識を大量に、しかも安くコピーして、多くの人々に配ることができるようになってからのことです。特に、そのことがきっかけとなって、北ヨーロッパの諸国で、宗教改革の動きが起こり、一般の人々の識字率が高まり、その結果として、一般の人々の知的な水準が一気に高まったからでした。
約5,200年前に、メソポタミア地域に生まれた古代シュメールで、絵文字が生み出され、約5,000年前の古代バビロニアで、粘土板に木のヘラを押し付けて記録する「楔形(くさびがた)文字」が生まれました。特に、楔形文字が生み出されると、話し言葉を文字で記録するための表記法も生み出され、人間が考えたことを文字にして記録することができるようになりました。さらに、古代ギリシャでは、複雑な思考を説明し、記録するための高度な文法や、論理立てて説明する方法(修辞(しゅうじ)法と呼ばれます)も生み出され、古典的な論理学も開発されました。これらによって、古代ギリシャの哲学者達は、数多くの講義録や著作物を残しました。古代ローマ時代には、ラテン語が生み出され、法律や条約などの社会的な文書が、ラテン語で記録されるようになりました。また、民間における商取引の記録などもラテン語で記録されました。ローマの思想家キケロ達は、ギリシャ語で書かれた古代ギリシャの哲学者達の著作を、ラテン語に翻訳するため、哲学的な事柄を書き表すラテン語の言葉(語いと言います)を作り出しました。中世ヨーロッパにおける思想は、このラテン語によって、羊皮紙に書かれ、記録されました。また、古代ローマと同じように、公式な文書もラテン語で書かれ、記録されました。
中世ヨーロッパで実施された数多くの宗教裁判の記録も、ラテン語で書かれ、現代に残されています。宇宙の起源に関して、イタリアのある宿屋の主人が、宗教裁判で主張したことなどは、その詳細な記録が残されています。驚くべきことに、その説は、現代のビッグバン仮説に似ています。宗教者である宗教裁判の判事たちには、宿屋の主人が何を言っているか理解できず、最終的な判決は留保されたことが記録されています。また、15世紀に、フランスとイギリスの100年戦争で戦ったジャンヌ・ダルクの宗教裁判の詳細な記録も、ほとんどがラテン語で書かれ、記録が残されました。ジャンヌ・ダルクの証言の一部だけが、ジャンヌがフランス語で語ったため、フランス語で記録され、残されました。ジャンヌ・ダルクの宗教裁判では、ジャンヌがラテン語を理解できなかったため、通訳がフランス語に翻訳し、ジャンヌの証言をラテン語に翻訳したことも記録に残っています。この記録から、ジャンヌ・ダルクの宗教裁判では、判事や検事による説明の一部が、ラテン語からフランス語に訳されず、ジャンヌに不利になったことが指摘され、後年、再審査の必要性が認められました。歴史においては、詳細な記録を残すことが、とても重要であることが、この例からも理解できます。
ヨーロッパの社会では、6世紀から16世紀まで、知の中心にあったローマ教会(カトリック教会)によって、知識の管理が徹底されており、ラテン語以外の言葉による知識の交換と記録はできませんでした。それは、知識を書いて記録する書物が、修道院で筆写され、保管されていたことが、第一の理由です。書物を読む人も、書き写す人も、ほぼ修道院の修道僧に限られていました。第二の理由は、各地域の話し言葉を書き残すための厳密な文法が、まだ確立しておらず、ラテン語でしか、正確に記録することができなかったことも影響しました。最後に、第三の理由として、ラテン語で書かれた文を読める人々が、貴族階級の人々や、ローマ教会の関係者しか、いなかったためです。これらの理由により、社会全体の知は、発展しにくかったと言えます。つまり、社会の中で、過去の知識を知ることができる人々が限られていて、新しい知識を生み出す人々の数は、もっと限られていたからです。この間、イスラム世界では、新しい知識が生み出されていました。そのことが、ヨーロッパ社会の世界的な知的水準を、低下させました。
その後、十字軍の遠征もあり、また、12世紀頃からの東ローマ帝国の衰退もあって、イスラム圏で発展した新しい知識と、イスラム圏が古代ギリシャから受け継いだ知識が、中世後期のイタリア社会に持ち込まれました。イスラム圏で発展し、アラビア語で書き残された、新しい数学や天文学の知識が、12世紀のイタリアにもたらされると、イタリアの知識は大きく進歩しました。その結果、12世紀から13世紀にかけてのヨーロッパ社会には、イタリアやフランスなどを中心にして、各国に大学を中心とした自治都市が生まれ始めました。その大学が、ローマ教会から独立した立場で、新しい知識の開拓をし始めました。大学での教育は、修道院と同じく、全てラテン語で行われ、共通のカリキュラムで実施されました。イタリアのボローニャ大学、フランスのパリ大学、イギリスのオクスフォード大学などが、初期のヨーロッパの大学として誕生していました。これらの大学では、出身階層に関係なく、世界から集まって来た学生に対して、学問が有料で教えられていました。各大学は、卒業者に対して、学位を授与すると言う、大学だけに特別に認められた権利を与えられていました。
大学で学位を認められた卒業生は、ヨーロッパのどの大学においても、学位を得た分野の講義を行う資格が認められていました。講義は、ラテン語で行うため、母国語は関係ありませんでした。この伝統は、最近までオクスフォード大学で、守られていました。ですからラテン語は、必修科目でした。オクスフォード大学は、1200年代に設立された大学なので、約800年の歴史があります。バリ大学で神学を教えたトマス・アキュナスの実現論(レアリスム)に対抗して、唯名論を唱えたイギリスのオッカムは、オクスフォード大学で教えていました。大学都市は、普通の都市とは異なり、領主や教会からは独立した、学生や教員らによる自治によって運営される特別な都市でした。このため、大学内で教えられる学問や、大学内で行われる研究は、国王や領主の貴族、そして教会による制約を受けることはありませんでした。とは言え、教えられる内容は、従来、修道院で教えられていた教育内容に準じていました。つまり、ラテン語、基本的な数学、論理学などの弁論に関する方法、などの基礎的な知識と、神学、哲学、法学、医学などの専門的な知識でした。
ヨーロッパの社会に大学が誕生したことによって、社会における知の中心は、それまでの修道院から、新しい大学へ移り始めました。書物の作成は、修道院内における分業による写本の作成から、専門写本業者の分業による写本生産に移行し、本の価格も低減しました。その写本業者による組織的な分業方式による写本生産は、ドイツにおける活版印刷機の発明によって、印刷による書籍の印刷に変わりました。この本の大量生産よって、本の価格は大幅に低下し、多くの人々が印刷された本を入手できるようになりました。その著しい例が、現地語訳された聖書の印刷・販売です。聖書の印刷・出版によって、ドイツ語を読むことができる人々は、ラテン語を学んでいなくても、聖書を読み、キリスト教の教えを理解できるようになりました。それによって、一般の人々でも、教会の神父によるラテン語聖書の内容についての説明なしに、直接、聖書からその内容を読み、理解することができるようになったのです。これによって、ルター達、宗教改革者が主張した、「キリスト教では、神父の仲介がなくても、個人個人が、神と直接契約を結び、キリスト教徒になることができる。」と言う状況が、生み出されました。
このことは、単にキリスト教徒への福音や伝道が容易になっただけでなく、文字を読める人々が増加し(識字率が向上)、さらに宗教以外の分野の知識の水準も、押し上げる結果をもたらしたと言えます。これは、当時のヨーロッパ諸国における思想の発展と、科学技術の進歩、さらに産業の発展を促す下地を作ったと言えるでしょう。特に産業革命が始まったイギリスの社会では、その傾向が著しかったと言えます。その要因の一つに、イギリスで根付いたカルバン派宗教思想の影響を受けた清教徒達が、革命を起こし、それが失敗に終わると、一部の人々は、迫害を避けるために新大陸のアメリカへ逃れ、新しい資本主義の社会を作りました。200年後、これが20世紀前半に起こった世界的な経済発展と、2回の世界戦争の原因の一部にもなりました。17世紀までの社会では、ほとんどの人々は、読み書きができず、領主である貴族の命令に従って、畑を耕す肉体労働に就いていました。しかし、イギリスで産業革命が始まると、イギリスの農民の多くが工場労働者になり、工場で機械を動かして、製品を大量に生産する作業に従事するようになりました。これは、その人々の知的水準が向上して、機械を操作できるようになっていたからです。
この産業革命によって、人類全体の経済は、中世を通して、1,000年以上の期間、ほとんど成長しなかったのに対して、産業革命以後の世界では、約200年間にわたり、毎年、平均すると2パーセント前後の成長を続け、結果として、先進諸国では、全ての人々が経済的に豊かになりました。この豊かさは、さらに次の世代の人々に、より高度な知識を持たせるための教育を受けさせることを可能にし、特に、ヨーロッパ諸国では、国民の知的水準が著しく向上しました。この国民の知的水準の向上は、生産現場において、新しい機械の導入を可能にしただけでなく、戦場においては、より殺傷能力の高い兵器の導入と、新しい道具の広範囲な展開も可能にしました。1900年代前半の、2回の世界大戦では、戦車や戦闘機・爆撃機、無線機やレーダー装置だけでなく、毒ガス兵器や核兵器など、大量虐殺兵器も開発され、実際に使われるようになりました。このことに学んで、世界の政治家たちは、次の世界大戦を引き起こさないような仕組みを、作り出すことに力を尽くしました。しかし、現実には、人類世界から戦闘をなくすことはできませんでした。
第2次世界大戦中に敵国の暗号文の解読のために使われ始めていたコンピュータは、戦後、人間が手作業で行っていた従業員の給与計算や、在庫量計算、原価計算など、大量の事務処理を、高速に実行するための道具として利用されるようになりました。これによって、企業内における事務計算を人間の手から解放するようになりました。それと同時に、コンピュータを利用した事務処理を可能にするために、コンピュータ上で稼働するプログラムを作成するための、数多くの技術者が必要になりました。米国などの大学では、1960年代に入ると、そのための専門家を育成する大学の学部学科が、数多く設立され、その専門教育のための、標準「コンピュータ科学」カリキュラムも1960年代末に制定されました。そのような新しい専門教育制度を導入できなかった日本社会では、1960年代後半に情報処理技術者試験制度が導入され、実質的に米国の専門教育を受けた人々に匹敵する知識をもつ人々を認定するようになりました。このことは、人類の社会が、従来の社会とは比較にならないほど、高度な専門知識をもった人々を必要とし始めたことを意味しています。さらに、それらの専門家が、職業上の経験を踏まえた、より高度な技術を身につけるための、育成プログラムを設定するようになり始めています。
12世紀の中世ヨーロッパで、大学制度が生まれたのと同じように、20世紀末の米国社会やいくつかの先進諸国の社会では、新しい世界に要求されるコンピュータの利用に必要となる、ソフトウェアの開発に関係した仕事に従事する専門家人材を育成するための、専門家の大学院のような育成機関、その教育機関を卒業した専門家が「見習い」として実務を学び、学んだ技術を適用した仕事に従事します。そして、その技術の実践に習熟したとき、さらにその技術を高めるために必要な、高度な知識を学ぶための大学院博士課程などの、高等専門教育機関などが必要になります。その後、そのような高度に専門的な知識を身につけた人々が、現実のプロジェクトでの実践において、個別のプロジェクトにおける仕事の遂行に、特別な専門知識を必要とする場合、それを提供する専門化された教育プログラムをもつ、特別な専門職教育機関も必要になります。プロジェクト管理やシステム工学のような特別な分野では、そのような高度な専門知識の教育を行う教育機関なども設立され、資格認定なども、米国などでは、すでに行われています。
20世紀前半までの社会では、大学で専門分野の知識を学んだ人々、特に技術者達は、その分野の専門家として、その一生を通じて、専門分野の仕事を続けることができました。しかし、その後の世代の人々は、大学で専門知識を学んでも、10年から20年が経過すると、学んだ専門知識は陳腐化するため、たとえその分野の技術が、社会で必要とされている場合でも、個々の技術者が持つ知識は、古くなり、必要とされなくなります。さらに、技術進歩の速度が速くなっているため、学んだ分野の技術全体の知識を、社会が必要としなくなる例も少なくありません。そのような分野を学んだ人々は、新しく社会が必要としている分野の技術を、必要な基礎知識から学びなおすことができる、再教育の制度や教育機関が必要になります。これからの時代を生きる人々にとっては、働く意欲がある限り、一生、学び続ける努力を継続する必要があります。
このような現実が、実社会の中で、最も顕著に表れているのが、医学の専門分野で働く人々です。新しく発見される病気や障害に関する知識、その治療のための最新の治療法に関する知識、治療を行うために利用する器具や装置の利用に関する知識、治療後の患者のケアに関する知識など、大学での専門教育や、現場での実習などで学んだ後に、医学分野の進歩によって更新しなければならない知識は、時間の経過とともに数多く、大量に出現します。そのような、社会の中で共有されるべき新しい知識を、継続的に学ぶ個人の態度や、その学びを支援する社会の制度を、整えなければなりません。これまでの医学分野では、各専門分野の学会が、そのような役割を担う制度となっていました。また、個人の「常に学ぶ姿勢」については、大学の学部教育の基礎的な部分で、医学に従事する人間として「持つべき倫理観」として、徹底して教えることに重きが置かれています。これは、宗教上の問題ではありませんが、現代社会に生きる人間として、人生の早い時点から教えられなければならない倫理観の一つです。