宗教について 〜 人の生と死を考える

公開: 2023年2月14日

更新: 2023年10月14日

あらまし

キリスト教に限らず、全ての宗教は、「人を殺してはならない」と教えます。しかし、人類の歴史を振り返ると、「倫理」概念の確立によって、同じ人間社会の集団の中で生きている人々の間で、ある人が、自分の手で、または他の人を使って、別の人を殺すことを企ててはならない、と教えるようになりました。それは、そのような倫理観に反する行為を許してしまうと、人間達が自分達の社会を維持できなくなり、破壊してしまう危険性もあると考えたからです。それは、別の言葉で言えば、「人類が、自分達の手で、人類を滅ぼすことになる」からです。

人間はしばしばこの宗教の教えを破って、他人を殺したり、他の集団の人々を、皆殺しにしたりしてきました。そのような経験から、宗教家達は、いかなる理由があっても、「人を殺してはならない」と言う教えに到達したのてしょう。特に、「許し」を教えの基本に置いたキリスト教では、たとえ、「許しがたい行為をした者であっても、その者を許す」べきであると教えました。しかし、現実の世界の政治では、ある社会が、対立する別の社会の主張を許すことができずに、戦争状態に入り、「国を守る」と言う美名の下に、敵国の兵士や市民までも、殺した例は枚挙(まいきょ)にいとまがありません。

これは、個人間の殺人は、各国の法律で規制されているにもかかわらず、戦争における敵兵の殺人は、敵対する国同士の間で、相互に戦争の宣言があれば、「許される」とした法解釈があったからです。似たようなことは、殺人の罪を犯した人に対して、国家が罰として「死刑」を宣告して、それを執行すると言う形式が整えば、「法律に基づく殺人行為」は許されると言う、法解釈と似ています。しかし、そのような解釈ができるとする考え方が、古すぎると言う理由から、近年、先進諸国の間では、「死刑」制度を廃止した国家が増加しています。

個人の殺人の特別な形式の一つに、「自殺」があります。これは、自分の意思に基づいて、自分の命を自分で絶つと言う行為です。「自殺」は、社会や文化的背景によって、その受け取り方が、大きく違います。キリスト教を基本とする社会では、「自殺は許されない」行為とされています。日本社会では、江戸時代まで、武士の間で「切腹」の作法が確立していたため、「責任を取る」行為として、社会的に認められていたため、「自殺」は、社会的に許される行為とされているようです。キリスト教で、自分を殺すことを含めて、殺すことが許されないのは、人間の生死は、「神だけが決められる」問題だとされているからです。

殺すこと 〜 殺人と戦争

キリスト教に限らず、全ての宗教は、「人を殺してはならない」と教えます。これは、「暴力の行使」の極端な場合に関する教えと言えます。それは、人類の歴史を振り返ると、「倫理」概念の確立によって、同じ人間社会の集団の中で生きている人々の間では、ある人が、自分の手で、または他の人を使って、別の人を殺すことを企ててはならない、と考えるようになったからでした。その理由は、そのような倫理観に反する行為を許してしまうと、人間達が自分達の集団や社会を維持できなくなる危険性がある、と考えたからでしょう。別の言葉で言えば、「人類を滅ぼす(自滅させる)ことになる」危険性があるからでした。宗教では、人間の生死を決定できるのは、神だけに与えられた、特別な「権利」であるとする考えが、基礎になっていました。

人類の歴史を見ると、人間が大きな社会を作り始め、社会の中で人々が行ってはならないことや、行わなければならないことを約束事として決め、同じ集団の構成員の間では、その約束事をしっかりと守ることを、その集団内の厳格な「約束事」とするようになりました。しかし、自分達とは異なる集団に属する人に対しては、その「約束事」は適用されませんでした。その結果、耕作が始まって約1,000年が経つと、人間は、異なる集団の間での「戦争を起こすようになりました。その「約束事」を守らない社会の構成員に対しては、社会全体で罰を与えるようになりました。これは、現代社会で言う、「法の支配」の原点です。約5千年ぐらい前、古代バビロニアで粘土板に「へら」を使って「楔(くさび)形文字」を書いて言葉を記録する方法が確立されました。すると、バビロニアのハンムラビ王は、その社会全体に共通な約束事をまとめ、国民が犯してはならない罪と、罪を犯した場合に、社会が罪を犯した人に与える罰をまとめた、ハムラビ法典と呼ばれる法制度を定め、石碑に記して発表しました。

その「ハムラビ法典」でも、罪の一つとして「他の市民の『所有物』である奴隷を、ある市民が殺す」罪が定められていました。ハムラビ法典では、「誰が、誰の所有物の何を盗んだか」によって罪と、それに対する罰が定められていました。「誰が」と「誰の」、と言う意味では、「貴族」、「市民」、そして「奴隷」などが区別されていました。上の階層の者が、同じ階層の者の所有物である、下の階層の奴隷を殺した場合と、奴隷が上位の階層の者の所有物である別の奴隷を殺した場合を比較すると、市民が他の市民の所有物である奴隷を殺した場合の方が、奴隷が自分の主人ではない市民の所有物である別の奴隷を殺した場合よりも、罪が軽くなるように定められていました。上位階層の人間が殺人の罪を犯し、下位の階層の人間の命を奪った場合、同じ階層の人間の命を奪った場合よりも、与えられる罰は軽くなることが決められていました。

古代の社会では、全ての人の命の価値は、同じではなく、殺した人の属する階層と、殺された人が属していた社会の階層によって、命の重さ・軽さが変わりました。それは、現代の社会における人の命の価値が、誰が殺されたのかによらず、原則的に、全ての人の命が、同じ価値であるとするのとは、大きく異なる点の一つです。「全ての人が平等である」と考えるのは、現代社会の特徴です。ただし、現代の社会でも、保険金の支払いなどに関する査定では、収入の高い人が死んだ場合、高い保険金が支払われるのに似ていると、言えます。日本の社会などでは、殺人の刑事裁判では、殺された人の地位によって、判決が影響されることはほとんどありませんが、民事裁判における損害賠償問題では、殺された人がどれくらいの収入を得ていたかによって、損害賠償額が変わります。その意味では、広い意味での罰については、「誰を殺したか」によって、罪の重さは変わるとする考え方が、現代の民主主義でも生き残っているのです。

20世紀後半からの世界においては、米国社会の一部の州や、日本社会では、殺人の罪を犯した者に対する刑罰として、「死刑」を言い渡す例も残っています。しかし、国連の国際的な議論においては、「殺人に対する量刑としても、「死刑」は残酷である」とする意見が、大半であることは事実です。この意見に従う形で、法律で「死刑」の刑罰を除外した国家は、数多くあります。それでも、米国の一部の州や日本では、昔からの「死刑」を残す制度を採用しています。その理由の主たるものは、「死刑をなくすと、殺人に対する歯止がなくなる」と言うものです。しかし、このような法律を維持することで、本当に「殺人事件の発生に、歯止めがかかるかどうか」については、科学的な検証が行われていないため、結論が出ていません。死刑には、罪を犯した人に対して、被害者遺族の「恨みをはらす」と言う、報復の意味が重視されている、日本社会のような例もあります。

「殺人」の罪に対して、「死刑」の罰が残されていることと、殺人事件を未然に防げるかどうかは、本質的に別の問題でしょう。殺人事件の発生を少なくするための、最も効果的な方法は、倫理教育でしょう。全ての子供に、しっかりと倫理教育が行われ、殺人が「悪いこと」であることが、しっかりと教えられれば、殺人事件は減るでしょう。最も重要なことは、「殺人を行うことが、悪であること」を、小さいころからしっかりと教えられていれば、その罪を犯す人は減るはずだ、と言うことです。日本の縄文時代には、殺人事件で命を落とした人の数は、極めて少なかったと推定されています。しかし、日本社会に「所有」の概念が強く根付いた、弥生時代以降、人口の増加もあって、部族間や個人間での争い事が増え、徐々に殺人の例も増えるようになったと、考えられています。これは、人間の「所有」と「独占」の考え方が、文明の進歩によって、強く結びついたことを意味しているのでしょう。そして、「極度の怒り」が、怒りの対象である人の「命を絶つ」行為に向かわせるのです。

「所有」と「独占」が同じようなことを意味する社会では、人々に「独占」の意識が強くなります。その社会で、「独占」の権利が脅かされる状況が起こると、自分の「所有」についての権利を主張しようとする人は、他の動物と同じように、古代社会においては自分の武力で、現代社会においては国家の権力を使って、自分に「所有」の実態があることを主張し、自分の「独占」的な権利を認めさせようとします。そのような主張が、二者間で対立すると、抗争に発展し、暴力が優先する社会では、時として憎しみの感情が増大し、殺人などの暴力行為にまで発展します。現代では、殺人にまで至る事例は少なくなりましたが、時として殺人に至る事例は発生しています。これは、抗争による感情の対立が激化して、恨(うらみ)みの感情に変化し、相手の存在を消し去ろうとする感情にまで激化するからでしょう。現代社会では、個人的に抱いた恨みの感情を、暴力を使って解消することは許されていません。それでも、感情が理性を抑え込み、殺人にまで至る場合が、発生しています。

現代の世界においても、国家間における領土の所有権などに関する主張の対立は、しばしば、国家間の暴力的な力の行使(つまり戦争)によって解決しようとする例が、少なくありません。例えば、2022年の2月に行われた、ロシア共和国によるウクライナ共和国への侵略は、ウクライナ政府を倒し、ロシアの国家権力に従順な政府を、ウクライナに設立する意図をもって行われた、戦闘行為と考えられています。これは、個人間の例に例えれば、ある個人が所有している土地を、自分の土地であると主張し、暴力に訴えて、その土地を「横取り」しようとする行為のようなものです。現代社会では、法律では認められない行為ですが、国際政治においては、武力による戦争によって解決可能な問題の一つです。このような国家間の意見の対立では、それを裁定する、国家より上位の権力が存在していないため、現実的に解決する方法がないからです。それが、国家間では、武力による戦争がなくならない、主たる理由なのです。つまり、国家間であれば、殺人も容認されているのです。

17世紀まで、キリスト教国が多かったヨーロッパの社会においては、国家間の武力抗争が容認されており、武力抗争の結果が、「この世界を支配する神」の意志であると解釈されたことから、武力による国家間の意見対立の解決は、合理的なやり方の一つである、と考えられていました。20世紀中ごろに、世界的な大戦争(第2次世界大戦)を経験した人類は、19世紀までの考え方では、再び世界的な大戦争の勃発を、回避できないとして、国家の上位に地球規模の世界を統治する政治機構の必要性を考え、「国際連合(united nations)」と名付けた組織を設立しました。しかし、その国際連合で特別な地位を与えられた5か国(安全保障委員会常任理事国)、のどれか1つの国でも、その時代の国際常識に反した行為を行った場合、その行為を止める機能は、国際連合には備わっていません。その意味で、国際連合と言う組織は、21世紀の国際社会において、18世紀までの『神』の役割に相当する機能は持っていません。それは、国際政治の舞台で活躍する政治家達の倫理観が、彼らが担うべき責任に見合う水準に至っていないからです。

似たような現象は、現代の世界における、個人の犯罪行為にも、見ることができます。個人間の紛争の解決には、裁判制度による裁定と、国家の権力による刑の執行による、国家の力による方法が有効です。しかし、時として、この国家の権力による、社会の秩序維持が機能しなくなる場合もあります。殺人事件は、その特別な例と言えます。個人的な恨みの感情が、国家の力の歯止を超えると、他人の命を、個人の力で奪うと言う行為が行われます。冒頭で述べた、若者による元総理大臣の暗殺は、そのような例と言えます。個人的な怒りの感情が、「日本の法律に従うべき」とする理性的な精神を押し殺し、元首相の生命を自分の力で奪うと言う、暴挙に出たわけです。このような「怒りの感情の爆発」は、国家の法律による抑止効果を、失わせる場合もあるのです。つまり、国家の法律による、個人の暴力的な行為の抑止には限界があり、むしろ宗教的な倫理教育による精神的な抑止の方が、強く、有効に働く場合があるのです。

似たようなことは、国家間における紛争解決の場合にも言えます。対立関係にある国の国家指導者の片方が、国際連合の取り決めを守る努力を諦めてしまえば、その両国は戦争状態に入ってしまうのです。戦争を起こさないようにするためには、個人における宗教のような、「戦争は起こしてはならない」と言う信念を、対立する両国の首脳が、互いに共有していて、相手も同じ信念に立っていることを、信じていなければならないのです。相手国の首脳が、そのような信念を持っていることに疑いを抱けば、両国は相手国が戦争を始めるかも知れないと言う疑念を持ちながら、互いの主張を述べ合う議論を続けることになり、その協議は最終的に物別れに終わり、戦争が始まります。1930年代末から1941年に至る日米間の外交交渉は、近衛文麿首相とルーズベルト大統領の間で、妥協の道が模索されましたが、日本国内における対米戦争開始への世論の圧力と、英国首相による、米国の対ドイツ戦争への参戦を求める圧力によって、両首脳の戦争回避への信念は、薄らいでゆきました。

個人的な殺人も、国家による敵国への侵略戦争も、その個人や政府首脳の強い倫理観がなければ、国家の法律や国際政治における国際協定などによる、殺人や戦争の抑止・阻止は、できるものではありません。「殺すぞ」や「攻めるぞ」と言う、個人や国家の脅し文句は、交渉において、自分の立場を優位に導く例はありますが、それは相手の心理状態に強く依存する効果であり、むしろ相手からの攻撃を誘発する原因にもなりかねません。基本的には、双方が、理性的に振る舞い、互いに「妥協する心」をもって、辛抱強く話し合うことが、相互の問題を解決する唯一の道になります。2022年2月のロシアによるウクライナ侵攻においては、ロシアのプーチン大統領は、言葉を尽くしてロシアの安全保障上の脅威や懸念を、ウクライナやNATOに代表される西側諸国の首脳と、しっかりと話し合うべきでした。プーチン氏も、西側諸国の首脳、特にバイデン米大統領も、その話し合いを避けていました。

殺人行為も戦争も、その行為が始まってしまうと、その行為を途中で止めることは大変難しくなります。それは、一旦、その行為が始まると、対立する両者に少なからず損害が発生し、途中でその行為を止めると、その損失を回収することが難しくなるからです。第2次世界大戦の日本も、2022年2月のロシアによるウクライナ侵攻でも、一旦始めてしまった戦闘行為を、途中で終わらせることは、東條英機元首相にとっても、プーチン大統領にとっても、難しい問題です。その結果、戦争は泥沼化し、長期に渡って続くことになります。それは、当時の日本国民や米国の国民、ロシア国民やウクライナ国民にとって、大きな痛手だけを残すものになるからです。つまり、戦争の勝者と言えども、無傷ではありえないのです。「殺人」も「戦争」も、最初から、その行為に着手してはならないのです。宗教は、そのことを教えています。

そのような意味で、冒頭に述べた安倍元首相暗殺を狙い、犯行に及んだ青年の行為は、理由は何であれ、正当化できるものではありません。2023年4月の参議院議員補欠選挙期間中、またしても、ある若者が、選挙応援演説のために地方の漁港を訪れ、応援演説を準備していた岸田首相を狙い、聴衆に紛れ込んで、手製の爆弾を投げつけ、数十秒後に爆発させました。幸いにも、首相にも、集まっていた聴衆にも、重大なケガ人は出ませんでした。しかし、爆発物は、本体が聴衆の頭上を40メートルほど飛んで、近くの建物の壁に当たりました。もし、その物体が低く飛んでいたならば、大ケガをした人が出たでしょう。または、首相、本人を直撃した可能性も否定できません。そのような、暴力的な行為は、許されるはずはありません。何よりも、我々自身、一人一人が、どのような行為をしてはならないのかを、再確認しなければなりません。また、社会も、そのような殺人行為を、未然に防ぐように、倫理教育を徹底しなければなりません。

(つづく)