米国経済が谷間の5年間に入り、最も不調であった時代に、米国は湾岸戦争を始めました。戦争は膨大な消費で、長期的には国家の経済を停滞させる原因になります。幸いにも湾岸戦争は早期に解決して、平和が戻りました。それでも、米国経済の停滞はその後の数年間続くことになりました。逆に日本経済はその頃、バブル経済の頂点にありました。東京証券取引所の平均株価は、4万円に近づいていました。そのような状況の中で、米国の大統領がブッシュ氏から若いクリントン氏に代わりました。クリントン氏は、米国経済の回復を最重要課題として政権運営を始めました。
クリントン氏が1993年に大統領に就任してすぐに行ったことは、ドルの為替相場の適正化でした。就任当初、1ドル130円程度であった為替相場は、1年後に100円以下になりました。この為替相場の変化で、好調だった日本経済の状況を反映して、円はどんどんと高くなり、1ドル90円、80円と高めに推移してゆきました。円がドル対して高騰すると、日本経済を支えていた自動車や電気製品などの輸出産業は大打撃を受けます。米国市場で販売される製品の価格を上げなければ、製品の生産コスト以下の価格になってしまうため、価格を上げます。価格を上げれば、製品の市場競争力が低下し、米国市場では製品を販売することが難しくなります。そして、日本の企業は1980年代のように米国市場で利益を得ることができなくなりました。
さらに、1992年にニューヨークの証券取引所で起きた株価暴落の影響で、東京証券取引所でも株価が暴落し、最終的に東京証券取引所の平均株価は、バブルの絶頂期の半分程度にまで下落しました。上述した日本の輸出産業の不振と、東京証券取引所における株価の急落によって、日本経済は少しずつ停滞の道を歩み始めました。いわゆる「バブル経済の崩壊」と呼ばれた現象です。この経済の低迷に対応するため、日本の企業は、新入社員の採用を少しずつ減らし始めます。人件費の増加を減らすためでした。また、従業員の定期昇給による、給与の上昇も抑えるようになりました。
労働者人口の中心を担っていたベビーブーム世代の人々は、この間、少しずつ高齢化しており、50代に差し掛かっていました。これらの人々は、定年まではあと10年近くの期間がありましたが、健康問題なども起き始める世代で、40代の時のようにがむしゃらに働くことはできなくなっていました。労働の生産性(効率)が少しずつ低下し始めていました。さらに、米国社会では、この頃からIT革命が急速に進み始めていました。つまり、インターネットとパーソナルコンピュータを活用した仕事への転換です。このIT革命によって、米国の労働者の生産性は大きく向上し始めていました。
当時の日本では、通信回線の利用料金が高く、インターネット利用の障害になっていました。このため、企業内の通信は専用回線を利用したもので、社外との通信はほとんど不可能な状態でした。このことが、企業間でのコンピュータを利用した情報交換を不可能にしていたため、労働の生産性は高まりませんでした。さらに、日本社会ではコンピュータを利用した文書の作成や、様々な計算の実行などについて、高校等での教育が進んでいなかったため、コンピュータを利用できる人材が限られていました。このことは、その後の20年間、日本における経済発展の足かせになりました。
1990代の日本社会では、1980年代と同じような働き方で、1980年代と同じように高齢化し始めたベビーブーム世代の人々が、長時間労働でがむしゃらに働く傾向が続いていました。このような背景もあり、日本社会においては、米国社会のようにインターネットを活用した新しい事業を立ち上げる若者がほとんど出現しませんでした。1990年代の終わりごろになると、このことが日本社会と米国社会の経済の格差を拡大し始めていました。特に、このころから日本社会においては若者人口の減少が著しくなっており、消費市場においてもベビーブーム世代の人口が多く、市場をけん引する力を失っていませんでした。そのベビーム世代にとっては、当時、インターネットは身近なものではありませんでした。
1980年代の後半から1990年代の前半まで、米国では社会における政府の介入を最小限にすべきとするリバタリアニズムの思想が主流になっていました。そのリバタリアニズムの考え方に基づき、新自由主義経済が唱えられ、規制緩和の政策が実施されていました。この間、日本では政府も民間企業も、従来からのやり方を踏襲し、政府による様々な規制をそのままにして、米国との経済競争を続けようとする考え方が主流でした。日本企業の経営者にとっては、インターネットは若者達だけのものと言う先入観が強く、事業に応用すべきと考えている人々は少数派でした。
1990年代の前半に、米国のウェルズファーゴ銀行がネットバンキングのサービスを開始し、アマゾンが書籍のネット販売サービスを開始しました。1994年にその事業が日本国内で報じられても、その動きに反応する経済界の動きは生まれませんでした。日本国内では、インターネット通信の利用が高額で非現実的だったからです。日本国内で利用可能であったものは、パソコン通信を利用したニフティなどのメールサービス程度でした。文書作成は、ほとんどワープロで行われていました。その後の日本経済の停滞は、この時点での遅れが決定的に影響しました。日本の経営者達も労働者も、1990年の段階では、インターネットの重要性に気づいていませんでした。
1990年代になっても日本人の働き方は、1980年代やその前の時代の働き方と大きく変わりませんでした。長時間労働と仲間との同調性を重視し、互いに助け合う、チームワークを大切にした働き方を守っていました。米国などの先進諸国で一般的な、個人個人の任務や責任を明確にして、その任務の達成に重点を置いた個人中心の働き方は、日本人には向いていないようです。むしろ、仕事の責任をチーム全体のものとして全員で共有し、互いに助け合って仕事をするやり方に適合しています。このことは、インターネットを利用して、複数の作業者が別々の場所や、別々の企業に居ながら、それぞれの専門性を活かして働くと言う現代的な仕事の仕方ではないと言えます。1980年代までの世界では、このことが日本社会における経済発展を助けました。しかし、1990年代になると日本社会における経済発展を妨げる原因と変わりました。
産業化社会までは有効に機能していた日本社会の集団主義的な労働習慣や制度は、1990年代の中頃から顕著になった新しい知的な労働を価値の根源とする世界経済の中では、十分に機能しなくなりました。それでも日本人の多くは、1980年代までの日本社会での労働習慣や制度を変えられずにいます。今でも、日本の教育では周囲の人々と同じように考え、行動することを重視しています。周囲の人々と調和した行動をとれない人は、その人の輪から排除される傾向が、今でも見られます。このような社会からは、世界的な舞台で活躍できる人材を数多く輩出することはできません。日本社会は、大きな岐路に立たされています。