1970年代の終わりごろになると、日本経済は発展して、国民一人当たりの国内総生産高は、まだまだ米国に遠く及びませんでしたが、国全体の国内総生産高は、米国に次いで世界第2位の水準に達していました。1973年のオイルショックを契機に、日本の自動車は、小型でガソリン消費が少なく、米国社会でも少しずつ人気が出始めていました。ヨーロッパから輸入される小型車もあったのですが、ガソリン消費と故障の少なさで、日本製の自動車は群を抜いていました。
自動車だけでなく、電気製品でも日本製の製品は、米国市場を席巻し始めていました。電気製品でも、日本製品は品質の良さと価格の低さで、人気を集めていました。米国内での自動車生産の中心地であったミシガン州では、日本が安い労働コストで安い自動車を生産し、米国市場では不当に安い価格で販売していると言われ、日本車の「ぶっ壊しデモ」が行われたりしました。米国自動車会社で働く人々がハンマをもって広場に集まり、中心に置かれた日本車を数名の労働者達が、持ってきたハンマで叩き壊すのでした。日本車は、車体を軽くするために車体の鉄板が薄くしてあったので、すぐに壊れてしまいました。
米国自動車会社の労働者は、日本製の自動車は品質が悪く、簡単に壊れるので危険だとアピールしたわけです。確かに、1970年頃まで、米ドル1ドルは、日本円360円と決められていました。日本円が非常に安かったわけです。当時、日本国内で、1台100万円で売られていた自動車は、米国市場では3,000ドルぐらいで売ることができました。さらに、日本の自動車メーカは、日本市場向けの自動車を生産する工場で、その工場で働く従業員を使って、米国市場向けに輸出する自動車を作るので、材料費と人件費の追加分(時間外勤務手当)だけを費用として、輸出する自動車を生産できました。日本の工場労働者は、残業代だけで米国向けの自動車を生産したわけです。
つまり、日本市場で売る自動車は100万円の売値でも、米国市場で売るときは50万円の生産コストと、日本から米国までの輸送コストを足して、60万円から70万円程度で売ることもできました。これでは、米国製の自動車の半分近くの値段になってしまいます。ですから、米国製の自動車には勝ち目がありませんでした。このような背景から、米国市場では日本製の自動車がどんどんと増加してゆきました。このため、米国の対日本貿易収支は、大幅な赤字となってゆきました。
米国政府も米国の企業も、このような状況を放置すれば、長期的には米国製造業は日本の製造業に打ち負かされるであろうと考えるようになりました。この問題に対する米国社会の対応は、米国側の一方的な対日本貿易赤字を解消することを目標として、円とドルの為替相場を適正化すること、日本企業における米国向け製品の輸出量に上限を設定すること、日本企業が米国向けの製品を生産し米国市場に輸出するときの価格設定に米国企業の価格設定と似たような仕組みを導入することなどを、日本政府に要求することでした。
さらに米国政府は、米国製品が日本市場にほとんど出回っていないことを知り、その原因に日本市場の閉鎖性があることを突き止めました。つまり、米国製品を日本市場で売ることは簡単ではありませんでした。その理由は、第2次世界大戦に負けた貧しい日本は、製品を輸出して国民が生活するための製品を生産するための原材料を輸入しなければなりません。しかし、輸入代金を支払う外貨(米ドル)がなかったため、国内の外貨を可能な限り国外に流出しないようにしなければなりませんでした。そのために、輸入品はぜいたく品として高い関税を課しました。また、輸入が簡単にできないような仕掛けを作りました。
米国政府は、これらの問題を関税障壁、非関税障壁に分けて、日本政府に対して改善するように求めてきました。そのような日米の政府間の協議を継続的に実施しました。この協議の結果を受けて、日本政府は米国からの輸入品に対する関税を少しずつ下げてゆきました。さらに、米国企業に有利な産業部門においては、政府調達や当時の電電公社(現在のNTT)の調達では、英語での調達情報の公開などを実施するようにしました。特に、ドルと円の為替相場を変動相場制に移行させ、市場の判断でドルを高くしたり、円を高くしたりして調整するようにしたため、少しずつドルは安く、円は高くなってゆきました。最近では、円とドルの為替相場は、1970年頃と比較すると日本円がドルに対して3倍程度高くなっています。
このような政府間の努力にもかかわらず、日米間の貿易摩擦問題は解消しませんでした。米国経済は少しずつ悪化し、日本経済はますます強くなってゆきました。そして、1980年代の末には、日本経済はバブルの絶頂期を迎えました。この間、日本円の価値は米国のドルに対して1970年の半分程度になっていました。それでも、日本において100円で買えるものの価値と、米国において1ドルで買えるものの価値にはほとんど差はありませんでした。つまり、円は1980年代の末においてもドルに対して「安く」設定されていました。
それは、日本の経済が製品を米国市場に輸出して外貨を獲得する輸出産業に依存した構造に変わりがなかったためでした。日本政府は、日本円の価値を低めに維持して、輸出企業が海外への製品輸出をし易くし、海外で同じ製品を同じ価格で売っても、国内において日本円で受け取れる販売利益を大きくできるようにしていたためです。逆に言えば、輸出製品の生産に関わっていた人々は、世界的な平均労働コストよりも安い価格で労働を提供していたと言えます。石油などを輸入する場合にも、割高な価格で石油を買っていました。
当時の日本国内の工場で働いていた人々の中心は、ベビーブーム世代と呼ばれる1947年から1951年頃に生まれた人々でした。この人たちが生まれたころ、日本社会はまだ地方における農業生産従事者が多くを占める第一次産業を主体とした社会でした。つまり、子供の頃、これらの人々は昔からの日本社会の風習が根強く残っていた社会の中で、大家族的な環境の中で育ちました。そして、中学や高校を卒業して、大都市圏に出て、大学や企業で働くようになりました。その意味では、古い日本人的な行動様式を持った人々で、長時間労働にも耐えられる人々でした。
このベビーブーム世代の人々が40代の働き盛りに達したころ、日本経済は頂点に達していました。1980年代の終わり頃でした。当時、首相であった宮沢総理は、「米国の労働者は怠惰である」と発言して、米国内にその報道が伝えられると、米国社会では大騒ぎになりました。宮沢総理は、日本経済が好調で、米国経済が低調であった原因は、人々の働く意欲や働き方の違いであると主張したかったのでしょう。しかし、これは大きな間違いだったと思います。当時、米国経済を担う人材の中心は、米国のベーブーム世代が50歳を過ぎ、現場の第一線を離れつつありました。代わりに若い20代の人材が多数雇用され、第一線で働き始めていました。この若い世代が経験を積んで、活躍できるようになるまでの生産性の低い数年間が始まっていたのでした。