第2次世界大戦後の15年間で、日本はアメリカ社会を真似た資本主義的な経済を構築し、復興を成し遂げました。1960年代に入ると、占領軍司令部からの独立を成し遂げた日本政府は、日本社会の経済発展を主たる政策課題として、国内総生産(GDP)を増加させるための政策を実施してゆきました。例えば、1964年の東京オリンピックは、、戦争の廃墟から再び立ち上がった日本社会を世界に紹介し、さらなる経済発展を目指して社会基盤を整備することなどを目的として、計画・実施されました。
東京オリンピックを契機として、高速道路や東海道新幹線が整備され、人とモノの流れが効率よく行われるようになりました。特に、太平洋ベルト地帯と呼ばれた東海道に沿って発展した地域には、多くの工場が建設され、東京近郊や大阪近郊へと製品が出荷されるようになりました。さらに、そのような東海道沿線に建設された多くの工場で働くために、日本各地から若い働き手が集められました。その多くは、中学校を卒業したばかりの人々でした。
そのような安価な労働力を供給できた ため、日本の経済は、その後の10年で大きく拡大しました。日本経済の拡大が続くと、戦後生まれのベビーブーマー達が社会人として企業の現場で働くようになってきました。その頃から、義務教育であった初等・中等教育を修了し、高等学校へ進学する生徒が徐々に増加し始めました。教育の高度化が始まったのです。このため、1975年頃になると、働き手として新たに社会に出る人々の中心は、中学卒業者から高校卒業者へと変わりました。
高校教育を終えた若者が、企業へ就職し、企業内での研修を受けた後に現場に配属され、仕事に従事するようになったのです。高校を卒業した若者の一部は、大学へ進学しました。当時、大学の絶対数が少なかったため、大学への進学は容易ではなく、高校を卒業して大学を目指す若者たちは、予備校と呼ばれる教育機関で1年から2年間学び、大学に入学する例が一般的でした。それでも若者の中で、大学へ進学できたのは約8人に1人でした。
高校を卒業して企業に就職した若者が数年間、企業で働き、一人前に仕事に従事できるようになったころ、同年齢の若者が大学教育を終え、同じ企業に入社するようになりました。当時の日本社会では、大学を卒業した若者の企業での待遇は、管理職候補としての扱いで、同じ年齢の高校を出て就職した人々よりも、高い職位でした。しかし、給与面では企業での経験が浅かったため、受け取れる給与額は、最初は、大学卒業者の方が4年以上の実務経験のある高校卒業者よりも低い例が普通でした。
これは、日本企業が年功序列の賃金体系を採用していたからです。この制度では、企業での勤続年数が長くなるほど給与は高くなるように決められています。給与額の決定に影響するもう一つの要因は、職位です。大学卒業者の職位は、同年齢の高校卒業者よりも高い例が一般的でした。毎年の昇給額は、職位が高いほど昇給額が多くなるように決められます。ですから、大学卒業者は、最初の数年間こそ同年齢の高校卒業者よりも給与が低いのですが、数年で高校卒業者のそれに追いつき、それからは高校卒業者の給与よりも高い給与を与えられるようになっていました。
高校卒業者の場合でも、企業の勤続年数が増加すると、大学卒業者の職位に就けるような制度があり、給与額等は追いつくようになっていますが、毎年の昇給額に違いがあるため、大卒者の給与額を超える例はほとんどありません。また、従業員が企業を退職し、他社へ移動した場合、移動した企業での勤続年数がゼロになるため、入社時の給与は周囲の社員と同じようであっても、毎年の昇給分は勤続年数が少ないため、少なくなります。このような理由から、日本企業においては「転職」は、その従業員にとって経済的に不利な例が多く、日本企業ではまれな例になってゆきました。
また、特に大学卒業者の従業員の場合、管理職として働くことを期待されているため、若いころから所属する職場間の移動を命令されるのが普通です。勤務する職場が変わると、勤務地も変更になる例も少なくありません。このため、日本社会においては、「転勤」と呼ばれる勤務地の変更が頻繁(ひんぱん)に発生します。そのような転勤は、従業員にとっては、当面の仕事の経験を積んでその仕事に精通するよりも、企業内の様々な部門を経験して、企業の様々な仕事を理解して、将来、管理職としてしっかりと仕事をするための準備をしていると考えられます。これが、日本社会における終身雇用制度の特徴です。
日本の企業の場合、若者がある企業に就職すると、社員としてその企業の労働組合の組合員になるのが一般的です。労働組合は、会社の代表と交渉して、社員たちの毎年の昇給額を決定します。労働組合の代表と会社の代表との交渉が決裂すると、労働組合は昇給額の増加などを求めてストライキを計画し、組合員に参画を指令します。会社は、ストライキが実施されると損害が大きくなるので、一定の範囲で組合側の要求をのみ、譲歩をします。このようにして労働者側と会社側の交渉は進みます。
一般の社員は、勤務を決められた日に一定時間働くことを約束しています。しかし、会社の都合で管理職の人は、一部の社員に残業を命じることがあります。この命令に従って残業に従事した場合、会社はその社員にはその社員の基本的な給与額に応じた時間単価で残業手当を計算し、余分な給与を支払わなければなりません。しかし、そのような残業も、無制限に命じることはできません。労働組合が、会社との交渉で決めた上限の範囲までとなっています。
しかし、管理職になった社員の場合、会社経営の一部分を担うと言う意味で、身分は一般社員ではなくなります。従って、管理職に就任すると、その従業員は労働組合の組合員でなくなるのが普通です。さらに、管理職には残業手当も支給されません。管理職の職位に定められた基本給の額は、一般社員の職位に定められた給与の額よりも高いのですが、いくら残業をしても残業手当がつかないため、残業の多い一般社員に比較すると管理職に昇進したばかりの人が受け取る給与は、そのような一般社員より低くなる例もあります。
このような雇用制度は、日本の終身雇用に特有なもので、世界的に見れば一般的なものではありません。米国社会では、企業で働く一般社員の労働者は、企業の枠を超えた労働組合の組合員になります。そして、その組合から推薦された企業で働きます。組合が同意しなければ、その企業での仕事からレイオフされることはありません。給与や残業手当の額は、仕事に従事する企業には関係なく、組合の規定によって決められています。一般的には、資格と組合員としての経験の長さで給与額が決定されています。ある企業から別の企業に変っても、給与に変化はありません。このため、日本社会よりも企業間を渡り歩く人が多くなっています。
レイオフとは、経済が悪化して企業の業績が低迷したとき、企業が労働組合と協議をして、一定数の労働者に対して一時的な解雇を通告します。通告を受けた労働者は、解雇と同じように職場への出勤は必要でなくなり、別の企業の職場へ勤務することもできます。ただし、勤務していた企業の業績が回復すると、企業側はレイオフを通告した労働者に対して職場への復帰を要請します。労働者は、元の職場へ復帰するかどうかを決め、会社へ回答します。従って、日本の企業における解雇とは異なっています。
また、レイオフは、企業が採用を決定した労働者の順番を記録したリストに従って、最後に採用された労働者からの順序で実施します。レイオフを撤回して雇用を再開する場合は、その逆の順序で、最後にレイオフした労働者から再雇用を行ってゆきます。雇用者リストは、企業と労働組合の双方が保管し、管理しています。このため、企業側は恣意的に労働者を指名して解雇やレイオフを行うことはできません。このような雇用制度は、20世紀に入って、米国社会で労働者の権利を守るために労働組合制度が確立された後に成立したものです。
米国社会では、管理職になる人々は、エクゼンプト制度で採用された人々で、最初から残業手当の支払いは行われません。労働組合の組合員でもありません。さらに、レイオフの対象にもなりません。しかし、エクゼンプトとして採用されるためには、大学で専門的な知識を得ていなければなりません。どんな大学のどんな学科でも、大学を出ていれば良いと言うわけではありません。
世界では類を見ない日本の雇用制度は、1960年前後に日本社会で確立され、その後、いくつかの労使間の裁判で出た判例によって形作られてきました。そのような判例では、日本企業においては一般の社員でも、解雇やレイオフに相当する会社の行為は、多くの場合、違法行為とされてきました。このため、企業側からすると、社員として採用した従業員を解雇することは実質的に不可能であるとする認識が、1970年代に定着しました 。
一般的に、当時の日本企業の従業員は、ほとんどが日本で生まれ、日本社会で育った、両親のどちらかが日本生まれ日本育ちの「日本人」であり、その多くが地方の農村社会で育った人々でした。日本的な価値観や習慣を身に着けた人々がほとんどでした。日本生まれでも、長期に渡り海外で生活し、海外の学校で教育を受けた日本国籍の人も、日本企業の従業員として働いている人はほとんどいませんでした。
そのような人々は、会社が決めた仕事の手順をしっかりと守って、一生懸命に働き、企業や日本社会の発展に寄与しました。1950年代に日本社会に導入された品質管理の方法を学び、工場などの生産現場で応用する労働者達は、現場にQCサークルを作り、製品品質の改善に努めるようになりました。このことは、1980年代の世界市場で「日本品質」と称賛された高い製品品質を達成する基礎を形成しました。その根幹には、1946年に占領軍司令部の命令で、来日し、「企業は何のためにあるか」と、セミナーの参加者に対して問いを発した、30代の米国企業の技術者からの啓発があったことを忘れることはできません。
また、当時の日本人には、弥生時代からの伝統で、その社会に根付いていた「日本人が周囲と同じように考え、同じように行動する」という習性が身についていました。それは、個々人の個性を十分に発揮できないと言う短所もあるのですが、工場における集団での生産活動には効果的に働くものでした。米国のテレビ放送では、日本の工場で、毎朝、始業前に皆でラジオ体操をしている労働者の映像が流されることがありました。当時の米国社会では、日本人の全体主義的な傾向を表していると考えたようですが、まさにそのことが品質の良い製品を安く生産する日本の工業の底力だったと言えます。