日本人とモノづくり

公開: 2019年7月17日

更新: 2025年1月22日

あらまし

1970年代に入ると、日本社会の急激な経済成長も一段落し、1973年の第1次オイルショックを経て、物価と賃金の高騰を経験しました。この頃、戦後生まれのベビーブーム世代(団塊の世代)が大学を卒業し、大量の人材が、工業化社会への道を突き進んでいた日本の産業社会に供給されました。若い彼らは、企業内教育を受けて育成され、徐々に一人前の専門家として、現場で活躍するようになってゆきました。1980年代に入ると、そのベビーブーム世代の人材が就業人口の大半を占めるようになり、消費者の中心世代にもなりました。それは、その時代の日本経済の大発展につながりました。この間、日本企業では、新しい、全社的品質管理の取り組みが模索され、そのことが功を奏して、日本製品の品質は、世界一と言われるようになりました。

7. 1970年代のモノづくり

1970年代になると、日本経済は発展軌道に入り、国全体の国内総生産高(GDP)は、米国に次いで世界第2位の水準に達しました。そして、中東戦争の結果として1973年、第一次オイルショックが日本で発生し、ガソリンの小売価格が、1リットル当たり50円前後から、100円前後にまで高騰しました。その結果、物価も大きく高騰しました。その影響で、平均給与も、大きく増加しました。大学を卒業した新入社員の給与額は、1974年の4月入社の場合、4万円前後から、6万円前後まで、跳ね上がりました。大学院の修士課程修了者の場合は、7万円台から9万円台になり、日本社経のインフレーションは、加速度的に進みました。それにもかかわらず、各企業の採用方針は変わらず、就職市場は大学生の「売り手市場」でした。日本の経済は、成長基調に変化はなく、ベビーブーム世代が大学を卒業し、社会へ進出しつつあり、人材が豊富であったにもかかわらず、人材の不足感は、続きました。特に、1975年になると、ベビーブーム世代の大半が大学を卒業しており、卒業見込みの学生が少なくなることが予想されていたため、各企業では、人材不足が心配されていました。

1975年になると、米国社会でも長く続いたガソリン小売価格の高騰で、一般消費者の間には、ガソリン消費の少ない乗用車の需要が高まっていました。そのような米国市場の環境において、小型で、軽量、燃費の良い、日本製の自家用車は、注目され始めていました。この時、特に注目されていたのが、日本製自家用車の故障の少なさでした。当時の米国製自動車は、新車購入時にすぐに発見される欠陥や不具合の数は、4個から8個程度でした。これに対して、日本製自動車の新車購入時に発見される不具合の数は、2個から4個程度で、米国製の自家用自動車の半分程度でした。この、初期欠陥の数の少なさは、日本製品の品質の高さを物語っていると、米国市場の消費者は受取りました。

日本製製品の品質の高さは、単に製品の初期不良品質の高さだけでなく、その後の故障率の低さに関する評価でも、米国市場において高い評価を受けていました。これは、日本製製品の製造過程では、製造工程での品質検査が厳重に実施されており、その成果が表面化したものでした。それは、各企業の製造工程では、単に製造工程の最終段階にある、製品検査での検査によって、不良品が確実に排除されているだけでなく、生産過程で、各工程の作業者によって製品の異常が発見されると、製造作業を実施している作業者が、不具合を発見した時点でその問題を報告し、その「しかかり製品」を不良品として、生産ラインから除去するよう、実践されていました。これは、当時の米国社会の工場では、全く見ることができない、生産工程の実践でした。

米国社会の生産工場では、工場で生産にあたっている労働者には、厳密に書かれた作業指示書が与えられており、その指示書に書かれている作業内容をしっかりと実施することだけが決められており、しかかり製品の「不具合の発見」や「報告」などの作業に関する記述はなく、作業者にはその作業の実施が要求されていませんでした。このことは、製品の生産工程では、容易に発見できる「しかかり製品」の「明らかな不具合」でも、製造工程として定義されている全ての作業を実施し、その最終工程にある「検査」で、不具合を発見し、不良品としてその製品を除去することが決められていました。しかし、そのような不良が検査で確実に発見でき、除去される確率は、100パーセントではありません。この作業者の仕事に対する姿勢の違いは、日本製製品と、米国製製品の品質の違いに、大きな差をつける結果になりました。

この日米の製品生産工程での、作業者の品質に対する姿勢の違いは、1970年代から日本企業で導入されてきていた、「全社的品質管理(TQC)」の取り組みが、実を結んだ成果でした。当時の日本企業の生産現場には、高等学校を卒業した知的水準の高い工員も多く、各企業の品質管理部門の専門スタッフによる指導の下、その品質向上施策の実践法を理解し、周囲の工員を指導して、効果的な実践を考え、さらには、品質管理部門の専門家スタッフに対して、より効果的な実践方法を提案するなど、現場の作業者と専門家スタッフとの間の効果的なコミュニケーションが確立されていました。それは、職務記述によって、きっちりと専門スタッフの仕事が定義され、現場の作業者に対する作業指示が書かれている、米国社会の生産現場では起こりえない光景でした。

1980年代に入ると、この日本の「全社的品質管理(TQC)」の考え方は、米国社会にも知られ、評価されるようになってきました。それは、日本人の勤勉さや、仕事に対する姿勢としても、高く評価され、日本製品の質の高さを生み出す原因と考えられるようになりました。ただ、米国社会では、その背景に、当時の日本社会においては、まだ、日本社会における大学進学率が十分に高くなく、高等学校を卒業して、すぐに企業に就職して、生産現場で働いている人々の中に、本来であれば、大学へ進学し、専門を学能力を持った人々も少なくなかったことは、理解されけていませんでした。そのような現場の作業者が少なくなかったことは、日本社会の製造現場で、全社的品質管理の導入を容易にし、その効果的な実践を可能にしたとも言えます。

1980年代における日本経済の世界的な躍進は、日本製品の米国市場における売り上げの拡大に支えられていました。それは、1960年代までに、米国社会が世界経済の中で確立した、米国製品の世界市場への輸出による経済繁栄を、製品の質に注目して実践したと言えるでしょう。それを可能にしたのは、弱い「日本円」に守られた、安い日本の労働力と、高校を卒業したベビーブーム世代がピークに差し掛かり、知的水準が高く、質の高い労働力を豊富に現場へ供給できる環境が整っていたからです。さらに、当時の日本社会では、男尊女卑の傾向が残っており、高等学校を卒業した女性の多くは、高等教育へ進まず、特に大企業への就職を選ぶ選択をせざるを得なかった状況にあったことも、日本企業の発展を後押ししました。

1980年代の米国社会は、ベビーブーマーと呼ばれた、労働人口のピークを絞めていた「戦後世代」が、働き盛りを過ぎ、大手製造業では第一線を退き始めていました。それから5年ほど遅れて、日本の労働市場は、戦後の団塊の世代が、労働人口の中心になり始めていました。この時間差によって、日米の労働生産性のギャップが生まれ、技術の変わり目に当たっていた米国の産業が停滞を始めていました。この間隙をぬって、日本の企業が安い労働力と、高い教育水準を背景に全社的品質管理を完成し、製品の価格と品質で、米国市場を凌駕(りょうが)したわけです。それは、社会全体が、まだ「豊かになっていなかった」日本社会では、全ての若者たちに高等教育の機会を与えることができず、親の経済負担が大きく、優秀な若者でも高等学校を卒業すると、社会人として企業で働かざるをえない経済状況に置かれていた人々が多かったことが、功を奏していたと言えます。

この点については、似たような教育制度と教育政策を採用していた日米の2国間でも、社会的な経済発展段階が著しく異なっていたため、労働経済の視点から見ると、技術と社会の転換期において、その違いが、著しい経済発展の差を生み出したと言えます。しかし、その後の10年間では、日米の経済状況は、大きく逆転しました。

(つづく)