公開: 2019年7月11日
更新: 2024年12月23日
1950年代に入ると、日本社会は、第2次世界大戦の敗戦後の国内政治の混乱から抜け出し、マッカーサーが率いていた占領軍司令部の指導の下、日本経済の再構築に取り掛かり始めました。そして、財閥解体や農地改革などを実施して、産業界では経営陣の人材若返りと、過剰になりつつあった農村人口の都会への移動を実現しました。それとともに、日本社会の工業化を推進するために、米国社会で発展した「科学的管理法」や「統計的品質管理法」を、日本企業で定着させ、良い品質の製品を安く生産するための基礎作りをしました。
1950年代から、日本の経済は高度成長期に入り、経済は著しく発展しました。この間、日本の経済構造は、農業を中心とした古い経済構造から、工業を中心とした新しい産業構造に転換されました。そのため、それまで各地方で、米作などの農業に従事していた人々の多くが、大都市を中心とした工業地帯に移り住み、工場の労働者として働くようになりました。その多くは、義務教育である中学教育を終え、卒業すると同時に、都会の企業に就職した若者達でした。
この時代に日本国内では、第2次世界大戦以前から日本社会に定着していた、「企業に就職した若者を企業内で教育」し、技術者や工場労働者などの仕事に従事する専門家の卵に育て上げ、現場に配置して、「実践的な知識を学ばせ、働かせる」人材育成方式が採用されていました。若者たちの賃金は低かったのですが、経験を積むことによって少しずつ給与が上がってゆく、年功賃金制が普及したため、成人して、結婚した後でも家族を養って行けるようになりました。この日本における新しい雇用の形態を、当時、日本を訪問した米国の専門家たちが「終身雇用制」と名付けました。
この終身雇用制度では、年齢が上がって、仕事の経験が豊かになるに従って、社内での地位も給与も上がってゆくようにしていました。そのため、中学を卒業し、15歳で就職した若者が、50歳になる頃には、高い賃金を支払わなければなりません。そのような理由から、日本の企業では、50歳を超えた従業員に対して、強制的に仕事から解き放つ「定年制」を設けました。ただ、定年で職を失った人々が無職・無収入になってしまうことを考慮して、企業年金の制度を確立し、最低限の生活を保障できるようにもしました。
1950年頃には、日本国内において企業に所属して働いていた人々が中心となり、各企業の経営者と給与などを含めた労働条件の改善を議論することを目的とした労働運動が盛んになりました。経営者側が労働者の意見に全く耳を傾けることがなければ、従業員たちは協力してストライキと呼ばれる、「全員が一致団結して仕事への従事を拒否する」行動に出ました。大規模なストライキでは、警官隊が労働者たちの会社への立ち入りを阻んだりすることもありました。当時のストライキには、1900年頃のソビエト連邦誕生の時の、共産革命での民衆の蜂起を真似たものもあったようです。
そのような労働者と経営者が対立した時期を経て、1955年頃から日本の社会は少しずつ安定化しはじめ、上述したような終身雇用制が普及し、農家の次男・三男が都市の工場に就職するやり方が定着し始めました。東京では、毎年、3月の終わりごろになると、東北各地から乗ってきた中学を卒業したばかりの若者たちを「ぎっしり」と乗せた列車が、上野駅に到着する光景が見られました。上野駅の到着ホームには、各企業の人事担当者が、企業の旗をもって新入社員になる若者たちを出迎えていました。
そのようにして地方から都会に出てきた若者たちは、企業の宿舎に入り、長期に渡って集団で生活しました。「寮」と呼ばれていた宿舎には、地方から出てきた若者たちの日常生活を監督する、会社の管理人が配置されており、食事の準備をする「まかない」の「おばさん」もいて、朝食と夕食を出してくれました。休日には、若者たちは何人かのグループを作り、繁華街などへ遊びに行っていました。若者たちにとって、工場での教育や作業は楽ではなかったでしょうが、同じ年齢の人々との寮生活は、楽しい経験でもあったようです。
終身雇用制がしっかりと定着し始めると 、企業は結婚した従業員のための社員住宅を建築し、安い家賃で若い従業員とその家族を住まわせました。多くの場合、そのような社員住宅は、集合住宅形式で、数十件の世帯が一緒に住めるようになっていました。入居者には結婚したばかりの社員も多く、ほとんどの社員は朝、同じ時間に社員住宅を出て、夕方、ほぼ同じ時間に帰宅しました。社員住宅で問題が発生すると、多くの場合、最も長期に渡って会社に勤務している年長の従業員が中心となり、問題の解決に努めました。
さらに、会社は春と秋の2回、グランドを借り切って運動会を開催したり、大規模な社員旅行を実施したりして、社員同士の円滑なコミュニケーションを図りました。つまり、企業をあたかも巨大な家族のように考えた組織の運営が行われていました。このことは、当時の日本の地方の農村に育った人々にとっては、まるで自分の故郷で暮らしているかのように生活し、行動できるようにしていたわけです。経営者は、その大家族の家長のように振る舞い、管理者たちは従業員たちの兄のように振る舞っていたと言えます。
地方の農家では、家族全体のために「ひとりひとり」が働くのと同じように、都会の企業でも、企業全体の繁栄ために、「ひとりひとり」が勤勉に働いていました。自分がまじめに働かなければ、迷惑をこうむるのは自分の身内の人々なのです。そして、その結果は企業業績の悪化として、必ず自分の身にも降りかかってくるのです。隣で働いている人が困っている時、苦しんでいる時、それを見ても、「見ていない振り」をするのは、家族の一員の苦難を無視していることと同じだと考えられていたようです。
このようなことから、第2次世界大戦後に日本を訪問した米国の研究者たちは、日本企業における社員間のチームワークの良さに驚かされました。最初、第2次世界大戦直後に日本で生産された製品は、安価ではあっても、質の悪いものが多いと言われていました。しかし、1955年を過ぎたころから、日本から米国に輸出された製品の中には、価格が安いにもかかわらず、質の良いものも多くなってきていました。その原因に、日本的経営における終身雇用の効果があるとする米国の経営学者も少なくありませんでした。
この間、当時の日本社会を統治していたマッカーサーの占領軍司令部は、軍国主義の大日本帝国が誕生した原因に、軍隊と軍事産業との癒着(ゆちゃく)があったと考えました。民主主義社会構築のため、占領軍司令部は日本の産業構造の転換が必要であるとして、三菱銀行、三井銀行、住友銀行、安田銀行などを中心として形作られていた企業グループの集まりであった「財閥(ざいばつ)」を解体し、それぞれの企業の経営者も若手の人々に変えてゆくよう指導しました。
さらに、新しい民主主義国家の建設には、健全な資本主義の考え方に基づいた経済の発展が必要不可欠と考え、産業における日米格差の分析を進め、第2次世界大戦中に存在していた工業生産方式の違いを突き止めました。その一つが、テイラーの科学的管理法の応用であり、もう一つが統計的品質管理でした。占領軍司令部は、これらについて日本企業の新しい経営者を対象とした教育プログラムを計画し、米国からその講師を招き、教育を実施しました 。その後、日本政府の主導で教育機関を設立させ、教育プログラムの実施を任せました。現在も存在する日本科学技術連盟や日本生産性本部などがその例でした。
マッカーサーによる財閥解体政策によって、大企業の経営から離れた経験豊かな経営陣に代わって、従来は現場で指揮を執っていた若手管理者が経営を携わるようになりました。その新経営陣達は、日本科学技術連盟や日本生産性本部などが主催したセミナーで最先端の経営手法を学び、自社における生産ラインの再構築に取り組み始めました。このことが功を奏して、日本企業は新しい経営手法と終身雇用制の導入に成功し、米国の生産に匹敵する生産性と品質で、製品を生産し、米国市場に輸出することができるようになりました。この成功が、第2次世界大戦後の日本の経済復興の基礎になりました。