日本人とモノづくり

公開: 2019年7月11日

更新: 2024年12月22日

あらまし

1900年代に入ると、米国社会は、南北戦争を乗り越え、ヨーロッパ大陸からの大量の移民を受入れ、鉄道網も整備され始めて、経済状況は大きく改善始めました。企業規模も増大し、工業生産も拡大し始めていました。そのような環境の中で、企業では、合理性を追求する試みと、労働者の中に芽生え始めた労働運動の波がぶつかりあい、大きなうねりを生み出し始めました。その結果、米国社会はね世界最大のGDPを生み出す、経済大国に成長しました。

5. 第2次世界大戦前後の米国のモノづくり

1911年にテイラーは、『科学的管理法の原理』を出版して、工場労働における作業を詳細に分割し、その詳細な個々の作業を実施するために必要な時間を計測する方法を提唱しました。さらに、その作業時間を短くする方法を見出し、それをその作業を実施するための標準的な作業方法として定義し、それを工場内の全ての作業者に実施させることで、工場全体の作業生産性を向上させることができることを示しました。このテイラーの主張を採用したことで、米国内における経済は大きく発展しました。

1931年にシューハートは、統計的品質管理に関する理論を紹介した著書を出版し、米国社会において、生産した製品が良品であることを一定の確率で保証する方法を提案しました。上述したテイラーの科学的管理法とシューハートの統計的品質管理法の2つの新理論によって、米国社会では、工場で品質の良い製品を、効率よく大量に生産する方法が確立され、実践できるようになりました。これは、旧日本軍が真珠湾の米国艦隊を攻撃するほぼ10年前のことでした。

当時の米国の経済規模は、GDP(国内総生産額)で当時の日本のそれと比較すると、約4倍でした。その米国において、大量生産の基本となる理論的枠組みが確立されたことで、その後の日本との経済格差はさらに拡大する傾向があったと推測されます。

テイラーの科学的管理法の原理が公表される以前、米国内においては建国以来の文化的背景から、人々が「1秒たりとも無駄に時間を費やしてはならない」とする倫理観を持っていたことが、19世紀のドイツの社会科学者であるマックス・ヴェーバーによって指摘されています。ヴェーバーは、米国社会の根幹にある新教徒(プロテスタント)的な思想や生活態度が、資本主義社会の発展を支える倫理観の基礎となっており、米国社会が経済的に発展したことは自然なことであるとしました。

元来、プロテスタントの各宗派では、「一生懸命働くことは信仰的である」とする傾向がありました。特に、カルバン派とその影響を受けたイギリスのプロテスタントたちは、「常に一生懸命働いていなければ、最後の審判で救われることはない」と言うカルバンの説を信じていたため、一生懸命に働くことが真の信仰の道であるとしていました。そして、一生懸命働いた結果として得た財産は、その信仰心の現れだとしていました。イギリスの清教徒と呼ばれた人々は、その典型でした。

イギリスで迫害を受け、メイフラワー号で新大陸に渡ったアメリカ合衆国建国者の祖先たちも、清教徒でした。この伝統を受け継いだ独立後のアメリカ合衆国の人々も、聖書に書かれているように一生懸命に働くように教育されていました。彼らは、勤勉に働き、資産を蓄えることを信条としていましたが、蓄えた富で「ぜいたくな生活」をすることは堕落であると考えました。つまり、「浪費は悪徳」と考えたのでした。ですから、自分が蓄えた富の一部は、社会へ還元すべきとしました。

このような生活態度は、19世紀の米国社会でも維持され、石油で財を成したロックフェラーも浪費を嫌ったと伝えられています。その「勤勉に働く」と言う姿勢を厳格に守った人々の中に、クェーカー教徒がいました。テイラーも、熱心なクェーカー教徒であった母の影響を強く受けたと言われています。テイラーは、「正当な仕事の量」に見合った働きを、全ての従業員が達成すべきであると考えていました。

その「正当な仕事の量」を定めるために、作業に必要な時間を測り、全ての作業者が、その標準時間をしっかりと守るように作業することを求めました。さらに、その標準時間を短縮できる作業方法が見つかった場合には、その新しい作業方法を標準作業にすることで、工場全体の生産性(効率)を向上させられるとしました。しかし、この考えは多くの労働者に対して、仕事を怠ける時間的余裕を与えないことになるため、その後、労働者たちは標準作業と標準時間の導入に反対するようになりました。

1924年から1932年まで、シカゴ近郊のホーソン工場において、工場の生産性を最大にする作業環境に関する実験が計画され、実施されました。労働条件や工場内の照明、従業員一人当たりの占有面積の広さなど、様々な条件が設定され、実験が行われました。この実験の結果、良い条件での作業は、生産性の向上をもたらすことが分かりました。しかし、長期に渡る実験で、必ずしも良い条件でなくても、作業者達は「普通の工場の作業者達よりも高い生産性で働く例がある」ことも分かってきました。

この実験の計画や実施に当たっていた研究者たちは実験結果を分析して、作業者達の働く環境の条件と作業の結果である生産性の高さには、直接的な関係はないと言う結論に到達しました。研究者達は、むしろ実験に参加した作業者たちが、「自分達は実験のために選ばれた」と感じたことで、作業に対する使命感や意欲を高くしたことが高い生産性の直接的な原因ではないかと結論付けました。そして、このような実験に参加した人々のやる気が、良い結果を生み出すことを「ホーソン効果」と呼ぶようになりました。

このような20世紀初頭の米国社会における大量生産を効率的に実施するための研究や、米国社会における「働くことの意味」に関する理解によって、米国の工場における生産性の向上と、その結果としての米国社会の経済成長は著しく高まりました。また、この間、そのような産業化社会の発展を支えるための新しい学問が生み出され、大学における専門家教育が始まりました。

工場で、標準時間の測定や作業標準化の仕事に従事するためには、大学で産業工学を学び、その学位を取得しなければなりませんでした。品質管理の仕事に従事するためには、大学で統計的品質管理を学び、その学位を取得する必要がありました。これは、それまで電気工学の理論を応用した回路の設計や生産工程の設計のために、大学で電気工学を学び、その学位を取得しなければならないことと同じでした。米国では、特定の仕事に従事するためには、その仕事に必要な知識を大学で学び、指定された学位を取得しなければならないと言う雇用のための制度が確立されました。

第2次世界大戦が終わり、数多くの若者たちがヨーロッパ戦線や太平洋戦線から、米国社会へ帰ってきました。戦争中に男性の若者が社会に不足したため、多くの女性が工場で働くようになっていました。母国に帰ってきた若者には、最初、働くための仕事が工場には見つかりませんでした。当時の政府はこれらの兵役から帰ってきた若者たちが、失業者として社会にあふれる状況を避けるために、兵役を終えた若者たちが無償で、大学で学べるようにしました

この制度によって、数多くの米国の若者たちが大学で学び、学位を得て、専門家として社会へ出てゆきました。このことが、戦後の米国社会の著しい経済発展の原動力となりました。さらに、これらの若者たちの一部は、大学卒業後も大学に残り、大学院へ進学して研究者への道を歩むようになりました。このことは、米国を世界一の研究大国に押し上げました。さらに、企業内に設立された研究所にも、こうして大学院で博士号を取得した人々が就職してゆきました。

その結果、米国社会では専門職を基本とした雇用制度が確立されました。19世紀以前は、米国の大学では、一般教養の教育に重点を置いた学部教育が主体でした。20世紀に入ると、この米国における大学教育が徐々に専門教育を重視した、実践的な学部教育に変わってゆきました。このことが、企業で特定の仕事に従事するためには、特定の専門教育を学ばなければならないとする、現在の専門職制度の確立につながりました。これは、日本社会における大学での専門教育に関係なく、大学卒業者としての採用を基本とする雇用制度とは大きく異なります。

この専門職制度によって、所属する企業に関わらず、どの企業に就職しても、同じ専門的な仕事に従事するのであれば、一定の範囲の収入が保証されます。この同一労働同一賃金は、労働者である個々の技術者が、ある企業から別の企業への労働移動を柔軟に行えるようにしています。これによって、採算性の高い企業は必要な人材に高めの給与を提供するのに対して、採算性の低い企業の場合には必要な人材にも十分に高い給与を提供できないため、労働市場の状況に従って、労働者が企業間を移動するようになります。企業は、不要な労働者を強いて雇用し続ける必要はありません。

このような仕組みが米国社会で確立された1950年代から、米国の社会では産業界が大学に対して、将来の産業界に必要な人材の育成を要求し、大学に新しい専門教育のための学部学科が創設され、その新設された学部学科で育成された人材の質を産業界の専門家が審査をして、適切な専門家人材育成が行われている大学であることを認定する「アクレディテーション制度」が確立されました 。これによって、アクレディテーション審査に合格した大学を卒業した人材は、社会において専門家として仕事に従事できるようになりました。

(つづく)