1911年にテイラーが『科学的管理法の原理』を出版して、工場労働における作業を詳細に分割し、その詳細な作業を実施するために必要な時間を計測する方法を提唱しました。さらに、その作業時間を短くする方法を見出し、それを標準的な作業として定義して、それを全ての作業者に実施させることで工場の作業生産性を向上させることができることを示しました。このテイラーの主張を採用することで、米国内における経済は大きく発展しました。
1931年にシューハートは統計的品質管理に関する理論を紹介した著書を出版し、米国社会において、生産した製品が良品であることを一定の確率で保証する方法が提案されました。上述したテイラーの科学的管理法とシューハートの統計的品質管理の2つの新理論によって、米国社会では、工場で効率よく品質の良い製品を大量に生産する方法が確立され、実践できるようになりました。これは、旧日本軍が真珠湾の米国艦隊を攻撃するほぼ10年前のことでした。
当時の米国の経済規模は、GDP(国内総生産額)で当時の日本のそれと比較すると、約4倍でした。その米国において、大量生産の基本となる理論が確立されたことで、その後の日本との経済格差はさらに拡大する傾向があったと思われます。
テイラーの科学的管理法の原理が出版される以前、米国内においては建国以来の文化的背景から、人々が「1秒たりとも無駄に時間を費やしてはならない」とする思想を持っていたことが19世紀のドイツの社会科学者であるマックス・ヴェーバーによって指摘されています。ヴェーバーは、米国社会の根幹にある新教徒的な思想や生活態度が、資本主義社会の発展を支える倫理観の基礎となっており、米国社会が経済的に発展したことは自然なことであるとした。
元来、プロテスタントの各宗派では、「一生懸命働くことを善いこと」とする傾向があります。特に、カルバン派とその影響を受けたイギリスのプロテスタントたちは、「常に一生懸命働いていなければ、最後の審判で救われることはない」と言うカルバンの説を信じていたため、一生懸命に働くことが真の信仰の道であるとしていました。そして、一生懸命働いた結果として得た財産は、その信仰心の現れだとしていました。イギリスの清教徒と呼ばれた人々もそうでした。
イギリスで迫害を受け、メイフラワー号で新大陸に渡ったアメリカ合衆国建国者の祖先たちも、清教徒でした。この伝統を受け継いだ独立後のアメリカ合衆国の人々も、聖書に書かれているように一生懸命に働くように教育されていました。彼らは、勤勉に働き、資産を蓄えることを信条としていましたが、蓄えた資産でぜいたくな生活をすることは堕落であると考えました。つまり、浪費は悪徳と考えたのでした。蓄えた資産の一部は、社会へ還元すべきとしました。
このような生活態度は、19世紀の米国社会でも維持されており、石油で財を成したロックフェラーも浪費を嫌ったと伝えられています。その「勤勉に働く」と言う姿勢を厳格に守った人々の中に、クェーカー教徒がいました。テイラーも熱心なクェーカー教徒であった母の影響を強く受けたと言われています。テイラーは、「正当な仕事の量」に見合った働きを、全ての従業員が達成すべきであると考えていました。
その正当な仕事の量を定めるために、作業に必要な時間を測り、その標準時間を守るように作業することを求めました。さらに、その標準時間を短縮できる作業方法が見つかった場合は、その作業方法を標準作業にすることで、工場全体の生産性(効率)を向上させられるとしました。しかし、この考えは多くの労働者に対して、仕事を怠ける時間的余裕を与えないことになるため、その後、労働者たちは標準作業と標準時間の導入に反対するようになりました。
1924年から1932年まで、シカゴ近郊のホーソン工場において、工場の生産性を最大にする作業環境に関する実験が計画され、実施されました。労働条件や工場内の照明、従業員一人当たりの占有面積の広さなど、様々な条件が設定され、実験が行われました。この実験の結果、良い条件での作業は、生産性の向上をもたらすことが分かりました。しかし、長期に渡る実験で必ずしも良い条件でなくても、作業者達は普通の工場の作業者達よりも高い生産性で働くことが分かってきました。
この実験の計画や実施に当たっていた研究者たちは実験結果を分析して、作業者達の働く環境の条件と作業の結果である生産性の高さには直接的な関係はないと言う結論に到達しました。研究者達は、むしろ実験に参加した作業者たちが、「自分達は実験のために選ばれた」と感じたことで、作業に対する使命感や意欲を高くしたことが高い生産性の直接的な原因ではないかと結論付けました。このような実験に参加した人々のやる気が、良い結果を生み出すことを「ホーソン効果」と呼ぶようになりました。
このような20世紀初頭の米国社会における大量生産を効率的に実施するための研究や、米国社会における「働くことの意味」に関する理解によって、米国の工場における生産性の向上と、その結果としての米国社会の経済成長は著しく高まりました。また、この間、そのような産業化社会の発展を支えるための新しい学問が生み出され、大学における専門家教育が始まりました。
工場で、標準時間の測定や作業標準化の仕事に従事するためには、大学で産業工学を学び、その学位を取得しなければなりませんでした。品質管理の仕事に従事するためには、大学で統計的品質管理を学び、その学位を取得する必要がありました。これは、それまで電気工学の理論を応用した回路の設計や生産工程の設計のために、大学で電気工学を学び、その学位を取得しなければならないことと同じでした。米国では、特定の仕事に従事するためには、その仕事に必要な知識を大学で学び、指定された学位を取得しなければならないと言う雇用のための制度が確立されました。
第2次世界大戦が終わり、数多くの若者たちがヨーロッパ戦線や太平洋戦線から、米国社会へ帰ってきました。戦争中に男性の若者が社会に不足したため、多くの女性が工場で働くようになっていました。母国に帰ってきた若者には、最初、働くための仕事が工場には見つかりませんでした。当時の政府はこれらの兵役から帰ってきた若者たちが失業者として社会にあふれる状況を避けるために、兵役を終えた若者たちが無償で、大学で学べるようにしました。
この制度によって、数多くの米国の若者たちが大学で学び、学位を得て、専門家として社会へ出てゆきました。このことが、戦後の米国社会の著しい経済発展の原動力となりました。さらに、これらの若者たちの一部は、大学卒業後も大学に残り、大学院へ進学して研究者への道を歩むようになりました。このことは、米国を世界一の研究大国に押し上げました。さらに、企業内に設立された研究所にも、こうして大学院で博士号を取得した人々が就職してゆきました。
米国社会における専門職を基本とした雇用制度が確立されました。19世紀までは、米国の大学では、一般教養の教育に重点を置いた学部教育が主体でした。20世紀に入ると、この米国における大学教育が徐々に専門教育を重視した、実践的な学部教育に変わってゆきました。このことが、企業で特定の仕事に従事するためには、特定の専門教育を学ばなければならないとする、現在の専門職制度の確立につながりました。これは、日本社会における大学での専門教育に関係なく、大学卒業者としての採用を基本とする雇用制度とは大きく異なります。
この専門職制度によって、所属する企業に関わらず、どの企業に就職しても、同じ専門的な仕事に従事するのであれば、一定の範囲の収入が保証されます。この同一労働同一賃金は、労働者である個々の技術者が、ある企業から別の企業への労働移動を柔軟に行えるようにしています。これによって、採算性の高い企業は必要な人材に高めの給与を提供するのに対して、採算性の低い企業の場合には必要な人材にも十分に高い給与を提供できないため、労働市場の状況に従って、労働者が企業間を移動するようになります。企業は、不要な労働者を強いて雇用し続ける必要はありません。
このような仕組みが米国社会で確立された1950年代から、米国の社会では産業界が大学に対して、将来の産業界に必要な人材の育成を要求し、大学に新しい専門教育のための学部学科が創設され、その新設された学部学科で育成された人材の質を産業界の専門家が審査をして、適切な専門家人材育成が行われている大学であることを認定する「アクレディテーション制度」が確立しました 。これによって、アクレディテーション審査に合格した大学を卒業した人材は、社会において専門家として仕事に従事できるようになりました。
(つづく)