日本人とモノづくり

公開: 2019年7月11日

更新: 2024年12月21日

あらまし

1930年代に入ると、米国に始まった株価暴落がきっかけで、世界恐慌が始まり、世界各国において、経済が破綻しました。その中で、日本やドイツは、軍国主義化の動きを強めました。アメリカ合衆国でも、社会主義的な政策が採られ、ニューディール政策が実施されました。日本では、経済恐慌の出口を模索して、陸軍による中国大陸侵攻が進められ、その軍備を支えるための生産活動も増強する必要性が高まっていました。1941年になって、対米戦争の回避が困難になると、対米戦争のための軍備生産のための技術者や工員の確保も、国家的な課題になりました。現在の日本の雇用慣行・制度の基礎となっている法律や慣行の多くは、この頃、確立したものが中心になっています。

4. 第2次世界大戦中の日本のモノづくり

第1次世界大戦が終わり、1930年代に入ると、ニューヨーク証券取引所で起こった株価の暴落が発端となり、世界的な不景気が始まりました。当時の日本社会でも、株価の暴落を発端として、銀行の倒産なども起こり、大変な不景気に進展しました。この間、日露戦争に負けたロシア帝国では、ドイツの思想家マルクスが提唱した共産主義を国家運営の基礎とする国、ソビエト連邦が誕生しました。レーニンが主導して帝政ロシアを倒したロシアの民衆を中心に、隣国の民衆も加わり、旧ロシア帝国の領土を中心に、現在のウクライナを含む、ソビエト共産党が支配するソビエト連邦が誕生したのです。

このソビエト連邦の誕生は世界中の人々に影響を与えました。特に、資本主義体制を確立していたヨーロッパの先進諸国を中心とした社会では、米国や日本も含め、資本主義の矛盾に苦しんでいた一般市民を中心に、工場とそこに設置されている機械などの生産資源を所有する資本家を排除して、それらを国有化し、国民の共有財産として利用し、国民が平等な立場で生産活動に参画するという思想が、多くの人々の共感を得ました。経済学の分野でも、その共産主義国における経済運営の基本となる新理論であるマルクス経済学が、マルクスが著わした「資本論」における記述を基礎に打ち立てられました。

そのソビエト連邦誕生に影響され、日本社会でも労働者の権利を認め、その待遇を大幅に改善すべきとする考え方が社会的に広まりました。その影響もあり、当時の大企業においては従業員の処遇を長期的な考え方で見直し、終身雇用の制度を導入するとともに、給与の制度も学歴による差を小さくするような修正が模索されました。その結果、学歴によって従業員が従事できる仕事に関する制約を可能な限り小さくし、給与額を仕事の内容(地位や職種)と、勤続年数に基づいて計算する方法が普通になりました。

日本社会においては、世界恐慌に陥った後、経済破綻からの脱出を目的として、帝国主義的な政策の採用が進められ、少しずつ軍国主義的な国家体制がとられるようになってゆきました。そのような政策の下で、日本国内の軍事産業は高度な科学技術を利用する兵器生産のために、有能な専門技術者の特定企業への定着を目的として、日本的な終身雇用制度の導入が、政府の方針として採用され、様々な法律制度が社会の中で準備され、定着してゆきました。

特に、その後に起こった第2次世界大戦では、軍艦、潜水艦、戦車、飛行機など、高度な科学理論を応用した兵器の生産が不可欠となったため、国家として、日本国内における専門家人材の配置や活用を最適化する必要が出ました。そのような意味では、終身雇用制度は軍国主義日本の制度として、社会的にも、政治的にも重要なものになってゆきました。飛行機の部品など、高度な技術を応用しなければならない製品を、高い品質で生産するためには、熟練した作業者や、優秀な専門技術者が必要だったからです。

日本政府と旧日本(陸)軍は、1931年の中国大陸における「満州事変」(日中戦争)の勃発と戦線の拡大、それに反対する英米を中心とした連合国との戦争に備えて、兵器の近代化を準備していました。そのために新型の軍用飛行機の開発や、新型の軍艦の建造などを計画し、その開発・生産のために必要な人材の育成と集約を急いでいました。それらの軍需産業は、財閥系と呼ばれた三菱銀行、三井銀行、住友銀行、安田銀行などを中心とした企業グループに属する大企業に頼っていました。例えば、有名な戦闘機ゼロ戦は、1937年に三菱グループに属する三菱重工で開発に着手されました。

第2次世界大戦前の日本社会では、戦後の日本の社会で確立した「終身雇用」の考え方を明確に示してはいませんでしたが、従業員は長期に渡って1つの企業社会に属し、「一生懸命に働く」ことを前提としていました。そして、従業員を雇用する業に対しては、ある程度の業績の悪化で企業の経営が苦しくなっても、「簡単には従業員を解雇するべきではない」とする考え方が一般化していました。長期間に渡って1つの企業に属すことにより、従業員の給与も少しずつ増加する年功賃金制度も整備されました。さらに、従業員が一定の年齢に達すると「定年退職」する労働契約が一般化し、その際に終身年金を支払うなどを決めた退職金規定も定められてゆきました。

1941年に日本と米国との間で戦争が始まり、1942年に日本側の戦況が悪化し始めると、国内の家庭から多くの若者たちが兵士として戦場に向かいました。1943年に入ると日本側の戦況はますます悪化し、当時、大学で学んでいた大学生に対して、早期卒業・従軍を命じる「学徒動員令」が発せられました。この制度によって工学系の専門を学んでいた学生を除き、数多くの大学生が兵士として戦場へ向かい、命を失いました。

女性の学生や高校生なども工場での兵器の生産に従事する、勤労動員を命じられ、日本各地の工場で働いていました。そのような人々の中にも米軍の爆撃や戦闘機の攻撃によって命を失った人々がいました。特に、1944年からは米軍の爆撃機による国内の工場を対象とした戦略爆撃が激しくなり、数多くの工場労働者が命を失いました。このような工場を標的とした組織的な攻撃によって日本国内の兵器生産は大打撃を受けました。

(つづく)