公開: 2019年7月11日
更新: 2024年11月15日
明治時代になると、日本におけるモノづくりは、明治政府が掲げていた「富国強兵」策に基づき、産業の近代化を基本的な戦略として、外国から導入される資本を利用した官営工場の操業を開始し、そこでの生産を学んだ人材の育成に取り組み始めました。この産業の育成に成功した日本社会では、次の段階である、産業の拡大を目指した、工場の民営化と、そのための人材の供給問題に直面しました。特に、官営工場で育成された人材に頼る民営化では、限られた人材に依存するため、労働コストの増加に直面することになります。ここのようなことから、日本社会では、財閥系の大企業を中心にして、中学校を卒業した若者を企業が採用して、工員として必要な知識を教え、育てる終身雇用の考え方に基づく人材育成が始まりました。
幕末の戊辰戦争を経て、明治政府が設立され、日本の社会は急速に近代化を始めました。そこでは、「富国強兵」(ふこくきょうへい)が最大の国家的課題として認識され、製鉄や絹の製糸などは国家事業として実施されるようになりました。これらの事業もやがて民営化されますが、日本の経済が成長軌道に乗るまで、政府が運営する官営工場(かんえいこうじょう)として運営されました。
世界文化遺産に指定された群馬県富岡の官営製糸工場は、フランス人技術者によって設計され、日本人の職人たちによって建設され、輸入された機械を使って操業されました。その運営は、全国から集められた武家の子女を中心に行われたと伝えられています。女工哀史のような過酷な労働条件での製糸作業は、民営化後の実態です。実際、富岡製糸工場は、フランスと同じように、週5日の労働で運営されていたと記録に残されているそうです。
明治初頭の日本の近代化期における日本製品を輸出して外国から外貨を獲得して、無借金で日本の工業化を実現しようとする、日本政府の努力が注がれました。外国から機械を購入するにも、鉄鉱石や石炭を輸入するのにも外貨が必要です。近代的な工場を建設するためには、莫大な資金が必要でしたが、日本にはその資本(資金)の蓄積が乏しく、銀行なども育っていなかったため、政府が直接工場を建設し、運営するやり方がとられたのでした。
工場の運営のためには、機械を操ることができる人材も必要です。外国から技術者を招いて、日本人技術者の育成に努めた結果、人材は少しずつ育ってゆきました。当初は、江戸時代に武士階級であった家に育った若者たちがそのような人材に選ばれ、育成されましたが、その後、江戸時代の町人階級や農民階級の家庭で育った人々に代わってゆきました。
当時の日本社会では、やっと義務教育制度が始まったばかりで、現在の小学校を卒業したばかりの若者や、高等小学校と呼ばれていた現在の中学校程度の教育を終えた人々が、工場の従業員見習いとして働くようになっていました。江戸時代の武士階級の家に育った人々は、より高い教育を受けるために、現在の高等学校や大学に相当する、高等教育機関へ入学する若者たちが多かったため、主たる労働力は小・中学校の卒業生でした。
そのような若い人材を採用し、現場の親方の下で見習い仕事をさせ、機械の操作や仕事の仕方を身に付けさせていました。明治の中期以降、官営だった工場が民間企業に売却され、民間の工場になると、同じような仕事が様々な工場にあったため、作業者たちはより高い賃金を求めて、親方について工場から工場へと移動するようになりました。企業から見ると、せっかく仕事を教え、一本立ちできそうになった若い作業者が、その親方に連れられて、他社の工場に移動する例が多くなり、品質が安定した製品を継続して生産することは容易ではありませんでした
例えば、明治初期の日本における主力輸出製品であった絹糸は、農家で生産された蚕の繭(まゆ)を沸騰した水で茹(ゆ)でて、茹でた繭から糸を取り、それをより合わせて1本の絹糸にしていました。繭をほどいて絹糸を生産する工程は機械化されており、ほとんど自動的に行われるようになっていました。しかし、1個の繭をほどいて取ることができる糸の長さは限られているので、繭から糸を取りつくしてしまうと、新しい繭から糸を取るようにしなければならなりません。この繭の取り換えは手作業で行われていたので、機械を操る女性工員は、そのような作業を担当していました。
絹糸は、輸出製品として一時、大量に生産され、原材料として輸出されました。しかし、絹糸そのものを輸出するよりも、それを布にした方が高い価格で売れるので、糸から布を織る紡績機を導入して布を織り、完成品の布を輸出するようになりました。さらに、そのような布を染色してスカーフなどの製品として輸出する方が高い価格で売れるので、商品化した製品を開発するようになりました。このような段階まで進んでくると、製糸工場、紡績工場、染色工場、スカーフ生産工場などが連携して輸出品を生産しなければなりません。
このような分業体制 が確立すると、それぞれの工場はしっかりと生産品の品質を管理することが必要になります。良い品質の生産品を作り出すためには、その生産品を作るために使う機械を操る工員たちが、機械を適切に使って「ものづくり」を行う必要があります。そのため、機械操作に熟練(じゅくれん)した工員が必要になるわけです。そのような工員が、親方と一緒に他の工場へ移動してしまうと、代わりの工員を採用しなければなりません。工員が簡単に見つからなくなると、それまでよりも高い賃金を約束して、新しい工員を採用しなければなりません。
明治時代の後半になると、日露戦争などで日本国内の需要を満たすための製品生産も必要になったため、輸出用の製品を生産するための工員が不足するようになりました。そのため、工員の賃金はどんどん高くなりました。このような人材獲得に悩まされた日本の企業は、安定的な人材確保のために、小学校や中学校を卒業した人材を企業で直接採用し、企業内で訓練をして、専門工員として作業に従事させるようになりました。これらの企業内で養成された専門工員たちは、企業内で専門家として少しずつ地位を高めてゆき、長期に渡ってその企業で働き続けるようになりました。これが、日本における終身雇用(しゅうしんこよう)の始まりです。
そのような企業側の努力に加え、政府は終身雇用制度を定着させるために、終身雇用を導入した企業を優遇する税制を導入したり、従業員にも長期の勤務が有利となる退職金制度の導入を推進するなどしました。これらの政府の支援もあり、第2次世界大戦が終わるまでの日本においては、特に財閥(ざいばつ)系の大企業での終身雇用が一般的になりました。とは言え、中小企業では職人の雇用は、従来と同じ日雇い制が主流だったようです。
この大企業と中小企業との雇用制度の違いは、大企業の工員や中小企業の職人の仕事の内容の違いが主たる要因だと思われます。大企業では、最新の工作機械が導入されるようになったため、従業員個人の手先の器用さなどの問題よりも、機械を操作するための知識の獲得の方が重要だったはずです。これに対して中小企業では、高度な工作機械などの導入が進んでいなかったため、職人個人の経験と勘を活かした作業実施が重視されていたためでしょう。このため、中小企業で生産される製品の品質は、作業に従事した職人の技に大きく頼っていたと言えます。
大企業では、技術部で設計を担当する高等教育を受けた専門技術者と、現場でものづくりを担当する工員が、新製品の開発では、協力して仕事をする必要が生まれていました。いくら優秀な技術者でも現場での作業を知らなければ、適切な設計をすることが困難な場合があります。そのような場面では、専門技術者が現場の工員の助言を受けながら設計を変更するという状況がしばしば見られるようになりました。
そのような背景から、大企業では優秀な現場工員も、長期的には専門技術者として処遇できる雇用制度の必要性を感じるようになっていました。単純化した例で説明すると、大学を卒業して専門技術者として入社した人々だけでなく、中学校を卒業して入社して、企業内の研修や現場での経験を積み重ねて技術を学び成長した人々も、技量が十分であると認められれば、最終的には専門技術者の待遇を受けられるようにすべきとするものでした。当時、大学や高等専門学校へ進学できる人々は、極端に少なかったからです。
第1次世界大戦前後の好景気が続いている間に上述したような日本的雇用制度が形成し始め、企業にとっても、企業で働く労働者にとっても、さらに経済の発展を望む政府にとっても、有益な終身雇用の制度が日本社会、特に大企業を中心に定着し始めました。この制度は、社会の根幹にしっかりと組み込まれ、第2次世界大戦後も維持され、1990年代に入るまで日本社会の基本的な制度として残りました。