公開: 2019年7月11日
更新: 2024年11月14日
江戸時代になると、日本におけるモノづくりも、専門別の職人による分業が進みました。これによって、職人の習熟も進み、それを集約した製品の質も高度になりました。同じようなモノづくりの分業化と、完成品の質の高度化は、世界中で起こりました。ここでは、江戸時代の「たたら」製鉄を例に、日本のモノづくりを振り返ります。
日本人の祖先は、石器時代からモノを作り、自分達の生活に利用していました。それは必ずしも自分自身が利用するものであるとは限らず、周囲の誰かが使うためのものであることもあったはずです。つまり、分業によるモノづくりが始まっていました。
その後、分業はより専門化し、高度になりました。江戸時代になると、作り出すものの種類も多種類になり、モノづくりのための素材となる鉄や木材の生産も、それを専門とする人々の仕事になってゆきました。例えば、日本刀を作るための鉄を作るタタラの人々、鉄から刀の刃を作りだす鍛冶屋などです。
玉鋼(たまはがね)と呼ばれた日本刀の刃を作る材料は、砂鉄を集め、松の木から炭を焼き、「たたら」と呼ばれる土の釜で炭を焚(た)き、そこに砂鉄と炭を少しずつ投入して、72時間ほどをかけて作られました。その間、「たたら」に空気を送り込む「ふいご」を踏む人たち、炭を投入する人たち、砂鉄を投入する人たちが働き続けました。
このように数多くの人々がそれぞれの仕事に分かれ、協力して働きました。このようにして、「たたら」の底に玉鋼ができると炭の投入を止め、たたらの土の壁を壊して、木の棒で出来上がった玉鋼の塊(かたまり)を取り出し、近くにつくられた池に投げ込んで作った玉鋼を冷やしました。たかだか数トンの玉鋼を作るのも大変な仕事でした。
この玉鋼の生産に関する説明からも分かるように、江戸時代には、すでに高度な分業によるモノの生産が始まっていました。しかし、たたらによる玉鋼の生産は、その生産に必要な労働力に対して、生産される玉鋼の量が少なく、効率が良くありませんでした。そのため、幕末になると大砲などの武器の生産には不向きで、ヨーロッパからもたらされた新しい反射炉(はんしゃろ)による近代的な製鉄に代わってゆきました。
この玉鋼の例で示されるように、人間の労働を集中的に投入したモノづくりのことを、労働集約(ろうどうしゅうやく)と言います。たくさんの労働を集めて実施されるからです。これに対して、幕末に始まった反射炉による大規模な鉄の生産のように、大規模な施設を利用するものつくりは、資本集約(しほんしゅうやく)と呼ばれます。それは、モノづくりのための施設などを建設するために投入される資金(お金のこと)の量が膨大なので、たくさんの資本(お金と同じ意味)を集めて実施されるからです。
全体をまとめてみたとき、江戸時代のモノづくりは、労働集約でした。とは言え、江戸時代のモノづくりも、その主体となるのは裕福な人たちが中心的な役割を担いました。それは、生産の途中でも分業のために集めた、たくさんの人々に賃金(ちんぎん)を支払う必要があったため、十分な資金力がある人々しか仕事を取りまとめることができなかったからです。江戸時代では、そのようなことを行うことができたのは、地主や大店(おおだな、大規模な商店)の店主などでした。幕末に反射炉で鉄を生産できたのは、藩主や幕府だけでした。
この江戸時代、品質の高い玉鋼を作るために、タタラで働く人々はさまざまな工夫をしたようです。特に、現在の島根県の中国山地沿いにある奥出雲(おくいずも)では、タタラによる玉鋼の生産が盛んでした。それは、砂鉄を多く含んだ土を山から採集できたこと、山に松林があり炭焼きが容易だったことが有利に働き、数多くの「タタラ場(たたらば)」が作られ、玉鋼の生産が行われ、タタラ場同士の競争もあったからのようです。
タタラ場で生産された鉄は、刀の刃だけでなく、包丁のような料理道具や、鍬(くわ)や鎌(かま)などの農機具の生産にも使われました。さらに、釘(くぎ)や金槌(かなづち)などにも鉄が使われました。それぞれの用途に適した鉄を作るために、タタラで働く人々は、それぞれに鉄の作り方を工夫しました。作られた鉄は、それぞれの道具を作る専門の鍛冶職人に売られました。それぞれの鍛冶職人は自分の納得できる道具を作るために必要な鉄に関する要求をタタラで働く人々に伝えました。タタラで働く人々は、その要求に応えるように工夫をこらしたそうです。