人材を育成する大学側も、それぞれの企業が作成する、それぞれの仕事に関する職務記述書を分析し、それぞれの分野の専門家として仕事に従事するために必要な最低限の専門知識と、実践的な技能にどのようなものがあるのかを明確にして、それぞれの大学の学科において教育を実施するための教育計画とカリキュラムを作成します。また、各専門科目について、単位授与の基準を明確化するとともに、卒業認定の基準を文書化し、公表しなければなりません。すでに日本の大学に対しては、卒業認定の基準を明確にすることを文部科学省が求めております。それを各大学がしっかりと実践し、その基準に従った学生への単位認定を実施する必要があります。
日本社会においては、大学の学部学科に対する教育の質認証であるアクレディテーション制度はすでに工学系の学部・学科を対象として導入されつつあります。しかし、日本のアクレディテーション制度は本来の利用者である企業側での認知度が低く、実質的に機能していません。その背景には、日本企業における終身雇用制度と新入社員一括採用が影響しています。社員の採用に当たって、企業側は採用する人材が入社後に従事する職務を定めずに入社を決定し、入社後の社内研修や実務での実績などを考慮して、次に従事すべき職務を決め、辞令を渡します。全ての社員は、発せられる辞令に対しては、本人の希望や意志に関係なく、その辞令に従うことが暗黙のうちに決まっています。ですから、教育を実施する大学側は、学生が希望する企業から内定を受けられるように積極的に指導しますが、どのような専門的な職務就くかは未定であるため、大学で教える専門知識についてはその科目を担当する教員の裁量に任せているのが実態です。
世界的な高等教育の潮流は、ワシントン条約で定められているように、専門的な知識の教育に関して、その内容、獲得する知識の質、その知識を教授するために提供する教育の量に関する大枠が決められています。そのようなワシントン条約に則った高等教育を実施してゆかなければ、日本で育成される専門家人材は、いつの日か、世界的な水準には到達していない、世界的に通用しない人々になり、結果として日本企業はグローバルな企業間競争に勝てなくなります。そのことは、日本全体の経済力が低下することを意味しています。現在の教育制度は、20年後の世界で活躍できる人材を育成するためのものです。現在の世界で活躍できる人材を育成するためのものではありません。時計の針を20年間進めて、何が重要であり、何が必要かを考える必要があります。
もう一つ、日本の教育制度において、進展しつつある経済のグローバル化に関する重要な課題があります。それは英語教育の問題です。最近、開発途上国の多くが、義務教育の早い段階から英語での知識獲得を重視した教育に変えています。それは、これらの国々では、高度な知識や専門的な知識を学ぶための母国語の語彙が少なく、高度な知識を母国語で学ぶことが難しいと言う背景があります。特に、数学系の知識や科学系の知識、さらに社会科学系の知識も、母国語で教えるよりも、基礎から英語で教える方が効果的だからです。日本では、そのような状況は成立していません。日本語の語彙は近代的な知識を学ぶのに十分な基本語彙がすでに確立しています。従って、大学入学までに必要な全ての知識を日本語だけで学ぶことができます。つまり、高等学校の生徒の水準の知識までは、日本語が理解できれば、完全に獲得することができます。
このことは、近代的な全ての知識を大和言葉だけで学べることは意味していません。新しい知識の多くは、漢字を用いた言葉や、カタカナで表現された言葉で表記されますが、少なくとも英語を知らなければ、専門用語が全く理解できないと言うことはありません。このことは、日本人にとって大変有利なことでした。今でも、その状況は継続しています。しかし、20年後の世界を考えるとどうでしょうか。多分、20年後の世界では、英語表記の新しい言葉をカタカナ表記にすることもできなくなる可能性があります。それは、数多くの学問分野で、時々刻々と新しい言葉が生み出されているからです。新しく生み出された言葉の日本語での説明を辞書に掲載するまでに必要な時間が長すぎるからです。現在の日本社会でもその兆候は見られます。政治家や官僚は、そのような新しい英語表現を英語のまま、日本語の表現の中に埋め込んで使います。そのため、一般の人々には意味が通じないことがあります。
似たような問題は、フランスやドイツでも起きています。このため、フランスやドイツの大学では、講義を英語で実施する例が増加しています。これは、フランス語やドイツ語が、英語に似ていて、さらに英語よりも厳密な文法構造を持っているため、フランス語を母国語とする学生や、ドイツ語を母国語とする学生にとって、英語での講義を理解することは、それほど難しいことではないからのようです。もちろん、学生たちは大学へ入学できる程度の基礎学力があるからです。しかし、日本人の学生にとっては、英語は、日本語とは全く異なる文法構造をもち、日本語ほど柔軟でなく、時制も多岐にわたっています。このため、日本人の学生達は、英語で行われる講義の内容をほとんど理解することができません。これは、単に語彙の問題ではありません。単語の意味は知っていても、話の内容を理解できないことがあるのです。そのような背景から、多くの大学において、講義は日本語だけで行われています。
大学で教えなければならない専門知識を、現在、日本語だけで教えることも可能です。しかし、フランスやドイツの大学と同じように、20年後の世界を考えると、それは難しいでしょう。何よりも、講義で教えられる専門知識が古いものになってしまうことが懸念されます。このことは、日本の大学を卒業した専門家の知識と、外国の大学を卒業した専門家の知識では、その量や質に差が生じる可能性を意味しています。著者が現役時代に専門を教えていた10数名の学生が、インドの企業でインターンシップを実施することとなり、インドへ行きました。インターンシップ先の企業で担当する職務の説明を受け、どうすればその職務をこなすことができるかの説明をインド人指導者が英語で行いました。
その説明の途中で、インド人指導者が「皆さん、大学の講義でXXXについて勉強しましたね?」と尋ねました。日本人学生たちは何を聴かれているのか理解できず、ポカンとしていました。インド人指導者はさらに、「XXXを知っている人は手を挙げてください?」と質問しました。学生は誰も手を挙げませんでした。学生達を引率していた若い日本人の先生は、この事実に愕然としました。専門を学んでいる学生が基礎的な専門知識を知らなかったからです。この報告を若い先生から聞いた著者は、電子メールで学生全員に質問しました。「巡回セールスマン問題を知っている人は返信してください。」ほぼ全ての学生から「知っています」との回答を受けました。つまり、学生たちは「巡回セールスマン問題」を英語でどのように表現するのかを知らなかったのです。日本語で専門知識を学ぶことは、効率よく高度な知識を学ぶには好都合です。しかし、世界の舞台で自分の才能を発揮するためには、それだけでは不十分なのです。
重要なことは、世界の専門家たちと同じ土俵で意見を交換し、自分の発案を相手に理解できるように表現し、説得することです。そのためには、世界の標準語である英語で、問題を説明し、それを解決する方法について議論できる技能を身に着けることです。文学的に高度な表現を理解し、美しい表現ができることは次の問題です。技術者や科学者にとって、英語はコミュニケーションの手段です。日本語だけでなく、英語でのコミュニケーション技能を持つことによって、自分の活躍できる舞台を大きくすることができるのです。そのような意味で、これからの時代に生きる専門家にとって、英語でのコミュニケーション技能を身に着けることはとても重要です。
そのような視点から考えると、大学における講義の全てではなくても、かなりのものを英語で実施し、学生たちがそのような専門知識を英語で学び、問題を議論できるようにさせることが重要です。ただし、そのためには学生の入学時における英語力を高める必要があると言えます。この英語力の意味ですが、それは単に高校までの英語の授業で学ぶ語彙力や文法力をこれまで以上の水準に到達させることを意味するものではありません。多分、語彙や文法は、中学卒業程度の内容で良いでしょう。簡単な文法構造で、少ない基本語彙で構成される英文でも、話されている言葉を理解するためには、頭の中で英文を日本語文に翻訳しているのでは理解は追いつきません。
簡単な英文であれば、英語の文を日本語に翻訳しなくても、そのまま理解できるような訓練をしておくことが必要です。現在の受験英語では、文字で書かれている比較的長文の英語文を日本語に翻訳して理解することが重要であり、そのための訓練に重点が置かれています。書かれている文章であれば、時間をかけて構文を理解し、その構文に従って日本語訳を考えることができます。何度も文章の同じ部分を読み直し、どのような構文であるかを読み解くことができます。話されている文の場合には、一度発話された文の部分は二度と繰り返されません。簡単な構文の表現でも、全ての文を記憶して話し終わった時点で日本語に翻訳するのでは、次の文が話されるので、話に追いついてゆくことはできせん。そのような単純な構文で話される英文を、会話の速度で理解してゆく力を実践的な英語力としておきます。
そのような実践的な英語力がなければ、大学での英語の講義を理解することはできません。実践的な英語力を養成するためには現在の高等学校での英語の授業内容では目的を達成できないでしょう。読んで理解することを中心とした内容ではなく、聞いて理解することも重視した内容を盛り込むことが必要です。既に文部科学省は小学校の高学年で英語を正規の科目として導入する方針に変更することを決定しています。このことは、中学校における英語の授業の内容にも影響し、内容も変化するでしょう。そして高校の英語の授業も変えてゆくことが可能になるでしょう。そのような意味で、義務教育から高等教育までの英語教育に、実践的な英語力を養成する内容が強化されることを期待しています。