11. 労働市場の国際化と経済のグローバル化〜雇用制度

21世紀に入って、我々の世界は大きく変わりつつあります。特に、世界の経済はグローバル化の流れの中にあります。グローバル化とは、これまでの世界では、生産と消費が1つの国の市場を中心に考えられていましたが、これからは消費全体が世界の国々が含まれる世界的な1つの大市場で行われ、生産活動は世界のどこかで世界市場での消費に対応するように行われることを言います。生産者間の競争は、たった1つの巨大市場の中でのものとなり、数少ない供給企業だけが生き残るようになります。特に、人件費が高く、生産コストが高い先進諸国の企業は、生産コストの低い開発途上国の企業との競争に勝てなくなります。同じような製品を作っても、開発途上国の企業と同じ価格では売ることができないからです。

なぜ先進諸国の企業では生産コストが高くなるのでしょうか? その主たる原因は、先進諸国では、労働コストが開発途上国と比較して高くなるからです。労働コストが高くなるのは、先進諸国の労働者の給与が開発途上国の労働者の給与よりも高いからです。先進諸国に住む人々の生活は、開発途上国の人々よりも質の高い、良い生活環境で、豊かな生活をしています。そのため、生活するために必要な支出も多く、高い給与でなければ生活できなくなるからです。それに比べて開発途上国では、人々はあまり良くない環境で生活し、生活のために必要な支出も少なく、低い給与でも生活できるからです。

さらに、先進諸国の通貨の価値は、開発途上国の通貨の価値よりも高くなるのが一般的です。同じようなものを買うために必要な通貨の量を基準にすると、開発途上国で必要になる通貨量の価値は、先進国で必要になる通貨量の価値よりも低くなります。つまり、開発途上国の通貨を使って、先進諸国の市場で同じものを購入しようとすると、自分の国の中でそれを購入する場合よりも高い金額を支払わなければならないのです。この利用している通貨の価値の違いから、開発途上国の人々の給与を先進国の通貨で計算すると、開発途上国の人々の給与額は、先進国の人々の給与よりも低くなります。このような通貨の価値の問題もあり、開発途上国の製造業系企業は先進国の企業よりも、グローバルな市場における製品の価格競争では有利になるのが一般的です。

このような経済構造の大きな変化に対応するため、1980年代の末から、米国社会においては2つの重要な問題が議論されました。その一つは、当時の世界で経済的に大成功を収めていた日本の企業との競争にどう対応すべきかと言う問題でした。もう一つの問題は、特に経済成長が著しかった東南アジアの開発途上国とどのような経済的な関係を確立すべきかと言う問題でした。どちらの問題も、21世紀の世界において、米国社会がその経済力を維持するためには、1990年代の米国社会はどのような対応策を取ってゆくべきかと言う問題意識が根底にあったと言えます。当時の米国社会においては、全体的に「米国社会の繁栄は終わり、次第に衰退してゆくはずだ」とする見方が一般的だったからです。

そのような状況の中で、米国社会の知識人たちは、先進国として米国が開発途上国との新しい役割分担を担うことができれば、米国経済の発展は継続することができると考えました。米国の知識人たちは、それまでに米国社会に蓄積されていた知的資産は、日本などの先進諸国の追随を許さないほどであると確信していました。さらに、日本社会が社会的な変革を嫌う傾向が強く、「新しい経済体制、政治体制、新技術の開発と利用に積極的でない」ことから、社会的な変化を柔軟に受け入れられる米国社会は、その柔軟性において日本社会に勝っているとの結論に達しました。また、労働コストの高い米国での製品生産を放棄して、製品の企画・開発と販売に集中することで、製品生産に強みを持っていた日本などの製造業との競争にも勝つことができると考えました。そのためには、労働コストの安い東南アジアの開発途上国に工場を建設し、そこで集中的に生産を実施する「垂直分業方式」を採用すべきであるとの結論に達しました。

1990年代の前半において、米国企業は上述したようなグランドデザインに従って、経済の再構築を実施しました。特に、高い知的水準の労働力を供給できた台湾が注目され、数多くの米国系企業が工場を建設し、製品生産をしました。このことによって、台湾の経済は大きく発展しました。また、新技術を応用した工場の運営についても知識を得た人材が育成され、その後の台湾企業の発展に寄与しました。この台湾の経済発展は、大陸側の中国にも影響を与え、台湾で生産される製品に組み込まれる部品の生産などが、中国に設立された企業で実施されるようにもなりました。垂直分業が拡大し、米国企業、台湾企業、中国企業の3層構造を形成するようになりました。同じようなことは、シンガポールでも行われました。その結果、米国企業、シンガポール企業、インドネシア企業のような3層構造も形成されました。

この台湾とシンガポールの発展に影響した要因の一つに、(1)中国文化が背景となっている社会であり、高い水準の義務教育を提供する制度があったこと、(2)米国企業での勤務経験のある人材が多いこと、(3)英語を理解する人材が多いこと、(4)近隣に労働コストが低い、人口の多い国が存在することなどがあげられます。2000年代に入ると、これらの国々の企業の一部は、自分達で自社製品を開発し、労働コストの安い隣国で製品生産を行い、直接、米国市場へ製品を輸出するようになりました。人口が少し多く、社会の構造は少し違いますが、同じ時期に韓国も似たような経済発展をしました。特にサムスン電子は、携帯電話、特にスマートフォンの生産において、今や世界最大のメーカの1つに成長しました。

1990年代の中頃から、日本は経済発展が停滞しました。製品生産の中心が東南アジア諸国や韓国に移動したからです。歴史的に日本と同じように、中国の文化的な影響を強く受けたこれらの国々では、かつての日本社会に似た制度や風土が残っており、労働コストが日本に比較して安かったため、日本に代わる製品生産拠点として活躍し始めました。その影響もあり、労働コストの影響でどうしても高額になる日本の製品は、米国市場において、東南アジアの企業の製品との競争に負けるようになりました。日本企業も生産拠点を東南アジアに移し、生産コストの低減に努めましたが、競争相手ほどの低コスト生産を達成することはできませんでした。また、日本企業はコスト低減を狙って、高い人件費を抑えるため。正規社員の採用を抑制したため、企業内人材が不足し。結果として国際競争力を弱めました。

1990年代の終わりごろから、日本企業においても、海外の大学を卒業した専門家人材を試験的に採用する試みが行われました。しかし、教育制度も雇用制度も異なる海外からの人材を受け入れ、日本企業の中でそのような人材を有効に活用することはできていません。日本企業には、海外からの人材を適切に管理する能力を備えた管理者人材が不足しているためです。職務記述書に基づいて、具体的な仕事の指示を出し、その成果をしっかりと評価して、次の年の給与査定に反映することができないからです。そのような管理を適切に実施できなければ、海外の人材を有効に活用することはできません。海外の企業で仕事をした経験の乏しい一般の管理者にとっては、そのような日々の仕事の管理は困難だと言えます。

日本の企業は、日本社会に生まれ、日本で教育を受け、日本企業に就職する人材だけに焦点を当てた人材開発に特化したシステムを整備しています。このことは、それ以外の、海外で育成された人材への対応を困難にしているのです。現場の管理者に与えられた裁量も限られており、一人一人の部下に対応したきめ細かい管理を実施することが難しいのも現状です。そのため、折角、海外で育成された有能な人材を獲得しても、日本企業の組織構造ではそのような人材を活用するのが難しい状況にありました。経済のグローバル化が急速に進行する現代社会においては、このような従来からの日本企業の組織構造を変革することが必要になります。それを怠れば、日本企業は世界市場における他国の企業との競争に負けることになるでしょう。日本経済の復興はありません。

21世紀の世界では、労働市場もグローバル化しつつあります。日本企業とは言え、日本出身の人材に限定して雇用制度を整備しているだけでは、これからの世界経済のグローバルな競争環境で生き残り続けることは困難になるでしょう。開発途上国でも世界の労働市場で十分競争力のある、有能な人材を輩出することは可能です。そのような人材は、先進諸国で育成された人材に比較して、安い労働コストで雇用することができます。ですから、一般的に労働コストの高い日本企業においても、開発途上国から流入する低コストの人材を活用することで、労働コストを低減することができます。

その場合でも、開発途上国で育成された専門家人材を採用し、社内で有効に活用するため、雇用制度を見直し、適切に改善してゆく必要があります。特に、採用については、大卒人材の同一賃金での一括採用、採用後の社内教育による人材育成制度を見直す必要があります。大卒人材は、専門家としての採用になるので、どのような仕事に対して、どのような能力や経験を持った人材を期待しているのかを明確にして、その内容を文書にして公表することが必要になります。そのような文書は、「職務記述書」と呼ばれます。職務記述書に記載された仕事の責任範囲と、その仕事に従事するために必要な知識や経験の内容に基づいて、給与が決定されなければなりません。ですから、同一労働同一賃金ではありますが、同一採用年次同一賃金ではなくなります。

企業側は、そのようなグローバルに見て標準的な雇用制度に移行するため、社内における全ての仕事について、職務記述書を作成し、それぞれの仕事に適合した基本給と、知識と経験によって増加する昇給分を決めなければなりません。また、それぞれの職務に従事するために必要となる専門知識について必要かつ十分な細かさで定義する必要があります。この作業は、現在、それらの職務に従事している人々の受けている教育、それまでの職務経験、実施している職務の内容を調査・観察し、記述してまとめることになります。簡単ではありませんが、これからの企業にとっては必須の作業と言えます。

(つづく)