ウラと大王 〜 桃太郎と鬼の話

公開: 2020年3月18日

更新: 2023年11月17日

あらまし
ここでは、ウラと吉備津彦命(きびつひこのみこと)との戦いの伝承が、室町時代ごろから、「桃太郎の鬼退治」の昔話になり、さらにそれが、明治以降、誰もが知る話になっていった歴史について振り返ってみます。
桃太郎の逸話は、なぜ童話になったのか

「桃太郎」の昔話は、室町時代に成立し、江戸時代に入って、元禄(げんろく)時代ごろに、曲亭馬琴(きょくていばきん)という作家によって五大昔話に選ばれたことが、最初に全国に広まった理由のようです。江戸時代の話では、老夫婦が桃を食べて若返り、元気な男の子を産んだ話で、その子がすくすくと育ち、力持ちになったという筋書(すじがき)でした。この話は、瓦版(かわらばん)のような、木版印刷で印刷され、安価に売られたため、多くの人々の知るところになりました。

明治時代になって、1887年に、日本政府は小学校で「読み書き」を教えるための教科書の題材の一つに、桃太郎の話を採用しました。しかし、1904年に制定された国定(こくてい)教科書では、桃太郎の話は、採用されませんでした。さらに1910年に作られた小学校の教科書では、再び採用され、童話作家の巖谷小波(いわたにこなみ)が、現在のような「桃太郎」の話の執筆を行ったと言われています。それまでの、江戸時代の話では「仲間」であった桃太郎と犬、サル、キジの関係は、明治期以降の「桃太郎」では、犬、サル、キジは、桃太郎を主人とした、家来であるとする「上下関係」に変わりました。これは、明治政府が、周囲の国々を従えた大日本帝国のイメージを国民に植え付けるためだったと考えられています。

この新しい「桃太郎」像に従って、日の丸の鉢巻きを額に巻いて、陣羽織(じんばおり)を着た、戦装束(いくさしょうぞく)の桃太郎の絵が描かれるようになりました。さらに、「桃太郎さん、桃太郎さん、お腰につけた黍団子(きびだんご)、一つ私にくださいな」の詩で良く知られている唱歌(しょうか)も作られました。このことが、「桃太郎」の伝説が日本全国に広まった最大の理由でしょう。

さらに、第2次世界大戦が始まる頃になると、昭和の軍国主義の流れを背景として、敵対していた米国を表した「鬼」を退治する桃太郎の勇敢さを強調した政治的な宣伝に利用されました。さらに日米間の戦争が始まると、日本政府の主導者たちが考える孝行や正義などの徳を体現した国民の見本として、桃太郎が利用されるようになりました。

ただし、明治以来、福沢諭吉や芥川龍之介などの著名な思想家や作家たちは、桃太郎の話が日本人の、深層心理に与えている影響について指摘しました。特に、福沢諭吉は、「桃太郎が鬼ヶ島へ鬼退治に行き、宝を持ち帰ったことは、許されることではない」とする見解を述べたそうです。「悪い鬼を懲(こ)らしめることと、鬼の宝を持って帰ることは別である」と言う主張でした。

いずれにしろ、「桃太郎」が小学唱歌の題材になった理由は、明治政府から昭和の敗戦までの日本政府の考え方が、「富国強兵」にあり、それが国家としての最大の関心事であったからです。戦争に勝つために、強い軍隊を作る。そのために、日本の国家に忠誠を尽くす兵士となる日本国民を作らなければならないという理由からでした。つまり、桃太郎は天皇の象徴(しょうちょう)であり、犬、サル、キジは、国民を象徴したものだったといえます。

日本の政府を主導している政治家が、国民を自分達が思うように動かそうと思うことは、昔も今も変わりません。崇神(すじん)天皇や吉備津彦命(きびつひこのみこと)の時代であっても、明治時代や昭和の時代であっても、そして令和の現代でも、政治家たちは、国民が自分達の思ったように動くことを望みます。そのために、将来の国民である子供達を教育します。教科書や唱歌は、その教育のための道具の一つなのです。

(つづく)