公開: 2020年3月18日
更新: 2023年11月17日
最初に、古い書物に書かれた、吉備津彦命(きびつひこのみこと)とウラとの戦いの話から私たちが学ぶべきことについて、考えてみましょう。現在の奈良地方に成立した大和(やまと)の政権は、少しずつ周囲の村を攻めて、自分達の勢力に取り込み、自分達の勢力を大きくしてゆきました。近畿地方、吉備(きび)地方、出雲(いずも)地方と、勢力を拡大し、最後には、九州南部の隼人(はやと)の人々までも攻めました。この話が、神話の中の素戔嗚尊(すさのおのみこと)と出雲の大国主の命の話、大国主の「国譲り」の話に展開してゆきます。また、隼人(はやと)の人々を攻めた話は、日本武尊(やまとたけるのみこと)のクマソ攻めの話として残りました。吉備の国で起きた吉備津彦とウラとの戦いも、同じように伝承されました。
大和朝廷は、その後も、今度は日本列島を北に向かって攻め進み、奈良時代後期の桓武(かんむ)天皇の頃、東北のエミシと呼ばれていた人々を攻めました。この戦いにも大和朝廷は、大軍を送り込みましたが、簡単には勝つことができませんでした。それまで、大和朝廷には従っていなかったエミシの人々は、朝廷軍に対して、狩猟民の得意な方法を使って、抵抗を続けました。桓武天皇の命(めい)を受けた坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)は、征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)として現在の仙台市にある多賀城(たがじょう)の砦(とりで)に入り、エミシ軍を率いていたアテルイと向き合います。アテルイとの戦いは大変な苦戦でしたが、坂上田村麻呂とアテルイは、長く続いた戦争を止める約束を交わし、アテルイともう一人の将軍が坂上田村麻呂に降伏(こうふく)し、エミシの人々は、敵とは見なされないことになりました。
坂上田村麻呂は、アテルイともう一人のエミシの将軍を連れ、京に帰りました。京に帰った田村麻呂は、アテルイとの約束を守って、天皇にアテルイらをエミシたちの村に戻すことを主張しましたが、桓武天皇と公家たちは、アテルイらを「死罪」とすることを決めました。最終的に、アテルイらは、現在の大阪にある枚方(ひらかた)辺りで、首をはねられたと記録されています。その後、長く続いた戦いのために朝廷の財政も苦しくなり、桓武天皇も高齢で亡くなったため、エミシとの戦いは終わり、大和朝廷は現在の岩手県の南半分までを支配するようになりました。岩手県の北半分と現在の青森県に当たる部分は、エミシやアイヌたちの領土のままでした。このとき、桓武天皇がエミシを攻めたのには、エミシたちが集めていた毛皮や海産物が貴重だったことと、政権基盤(せいけんきばん)の弱かった桓武天皇が、自分の力を誇示(こじ)するために、領土を拡大したいと考えたからのようです。
これらの歴史から分かるように、日本列島は、もともと天皇家の支配下にあったわけではなく、いくつかの地方を治めていた豪族や土着の勢力があったものを、天皇家が大軍を送って攻め、それらの戦いの結果として、各地を併合していった結果として日本列島の大半が、天皇家の支配下に入ったのです。かつて、ウラが支配した吉備の国も、アテルイが率いたエミシの人々の国も、戦いの結果として大和朝廷の支配下に入りました。現代に生きている私たちは、日本人は、元々から「日本人」であったと考えますが、実は、朝鮮半島から渡来した人々の子孫であった桓武天皇など、大和朝廷が、土着の人々を攻め、併合していった結果であり、「日本人」と呼べる人々がいたわけではなく、様々な遺伝的な特徴をもった人間が、集まり、交わってきた結果、今の日本人ができて来たのです。
明治以降でも、北海道に残っていたアイヌの人々は、日本人として生きることを強制され、アイヌの言葉や文化も捨て去ることを強いられました。その結果、今やアイヌ語やアイヌ文化は、消えてなくなろうとしています。このような、少数の人々のグループが、大多数に飲み込まれてゆく傾向は、日本だけでなく、世界中のいたるところで見られた傾向でした。私たちホモ・サビエンスは、そのように数を増やすことで繁栄することができた種族です。日本人もそのような人間のグループの一つに過ぎません。日本や、日本の天皇家が、特別なものであると信じることは、個人的には自由ですが、それを他の人に強いることはできません。20世紀に、大日本帝国は、朝鮮半島を自らの領土に組込み、朝鮮半島の人々に日本人として生きることを強いて、朝鮮語を話すことを許しませんでした。そのようなことは、許されるはずがありれません。
つぎに、教育について考えてみましょう。最初は、昔から言い伝えられてきたおとぎ話だった桃太郎の話を、それを国の教育制度の下で教えて、国民を教育しようというつもりで、ある時代の政府が考えると、それはその国の人々を、ある方向に動かすかもしれない大きな力になることを、桃太郎の話は示しています。最初は、昔の出来事に関する伝承だったかもしれません。伝承は、文字ではなく言葉として伝えられ続けるため、正確な事実よりも、聞いた時の印象で、話の筋が決まってゆきます。そのようにして残ってきた伝承(でんしょう)が、文字にされ、後世に伝えられているうちに、それが新しい話の基(もと)となります。吉備津彦命が桃太郎になったのは、その例の一つでしょう。さらに、そのような寓話のような話が、小学校教育で使われる教科書の題材になると、その話はその国では、有名な話の一つになるかも知れません。特に、国家が特定の教科書を定めて、全ての子供にその教科書を使って教育を行っていた大日本帝国では、この影響が著しかったと言えます。
さらに、ある時代のある国の政府は、そのようにして選定した教科書の題材を、国民の教育に利用しようと考えた場合、その国の子供たちの将来、特にその人々の倫理観などの形成に、強い影響を与えることができるでしょう。桃太郎の話が、第2次世界大戦の時代を生きた日本人の、多くの人々の倫理観の形成に強く影響を与えたことは、「特攻隊員」(とっこうたいいん)の例を見ても明らかでしょう。小学校教育の内容は、それほど人々の人格形成(じんかくけいせい)に大きな影響を与える可能性があります。その意味でも、教科書の内容の選択には、十分な注意と検討が必要です。特に、小学校の低学年で使う、読み書きの教科書の内容に関しては、それは単に、私たちが文章を読み、書くための基本的な能力をつけるためだけでなく、それ以上にその教科書で学ぶ人々の思考の土台を形成する基礎になることをしっかりと理解し、教科書の選択をしなければなりません。
極端な表現を使えば、今の教科書で学んでいる子供達は、その教科書を通して教えられる全人的な倫理観(りんりかん)に縛られた行動パターンを選択する傾向が生まれると言えます。そして、そのことは将来の日本社会のあり方を決めることとなり、それがそのまた将来の日本人の倫理観を方向づけることになるのです。「桃太郎」と第2次世界大戦は、私たちにそのようなことを教えていると言えます。
(おわり)