公開: 2020年3月16日
更新: 2023年11月17日
ウラとその家来たちは、朝鮮半島の南部にあった百済(くだら)から、現在の島根県にあった出雲(いずも)の国に、海を越えて渡来したと思われます。ウラたちが鉄の材料を加工して、鉄製の道具を作る方法を知っていたとされていることから、渡来したのは3世紀の中頃であったと思われます。ちょうど、崇神天皇(すじんてんのう)が、大和の国の大王になっていた頃です。
古事記や日本書紀の伝承では、崇神天皇が大和の国の大王になる前、「国譲り(くにゆずり)神話」に述べられているように、出雲の国の人々は、大和の国の軍に攻められ、大和の国の支配に従うことを約束したようです。この「国譲り(くにゆずり)」は、日本列島に鉄が広く伝わる以前のことであったようです。その「国譲り(くにゆずり)」の後、出雲の国は、朝鮮半島に近いため、多くの朝鮮半島からの「渡来人(とらいじん)」が住み、鉄の加工(鍛冶(かじ)の仕事)などを手がけるようになっていたようです。出雲の国が大和の国の大王の支配を受けるようになったのは、まだ鉄が日本列島で広く使われるようになる前、青銅の武器や鏡が広く使われていた時代のことのようです。
鉄が日本列島に伝わったとき、最初に中国大陸に近い北部九州の国々や、朝鮮半島に近い出雲の国に伝わりました。これらの国々には、もともと中国大陸や朝鮮半島から渡来(とらい)した、渡来人(とらいじん)と呼ばれる人々の子孫が多かったからだと考えられています。ウラたちも、朝鮮半島から出雲へ移り住み、そして中国山脈を越えて、吉備平野の北の端に移り、そこに住み着いたのでした。吉備平野より東の国々(大和の国も含まれます)には、当時は、まだ鉄は広く伝わってはいませんでした。そのため、鉄で作った武器や道具は、東の国々では、大変貴重なものだったのです。鉄の武器や道具を作ることができるウラたちは、その貴重な鉄の武器や道具の作り方を知っていた、日本列島では数少ない人材集団だったのです。
ウラたちが吉備津彦命との戦いに、負けた後、100年もしないうちに、出雲の国では砂鉄から鉄を作り出す、「たたら製鉄」と言う方法が生み出されました。それは、中国山地の山の土に大量に含まれている砂鉄が、出雲平野を流れる斐伊川(ひいかわ)に流れ出て、その川底に沈む性質を利用して、簡単に砂鉄を集めることができたからです。出雲の国で鉄を作り出せるようになると、鉄の材料を朝鮮半島から持ち込む必要がなくなり、鉄の材料そのものは、それまでのような特別に貴重なものではなくなりました。
それでも、鉄の材料から刀や矢じり、田を耕す鋤(すき)や鍬(くわ)、そして鎌(かま)などを作り出す仕事に就(つ)いていた鍛冶屋(かじや)は、重要な仕事として、明治時代になるまで、吉備の国や出雲の国では、大切な職業(産業)として続きました。鍛冶の仕事をする人々は、その後、吉備の国だけでなく、少しずつ京都に近い場所にも移り住むようになりました。例えば、現在の兵庫県や、大阪府の堺などにも多くの鍛冶屋が、移り住むようになりました。これらの人々は、出雲の国や吉備の国で、鍛冶のやり方を学んだ人々でした。今でも、広島県東部から、岡山県、兵庫県、大阪府の堺、奈良県、和歌山県関市には、日本刀の伝統を引き継ぐ鍛冶屋が数多くいます。
時代が進むと、砂鉄から鉄の材料を作る仕事は、真冬に肉体を使う仕事として、あまり重要視されなくなりました。炭焼きとおなじように、農民の仕事になってゆきました。それに比べて、鍛冶の仕事は、刀を作る人々も従事していたためか、江戸時代まで、武士にとっての大切な仕事として、重要視されました。砂鉄から鉄を作り出す方法は、出雲の国から日本中に広まり、色々な場所で「たたら製鉄」が行われるようになりました。たたら製鉄には、高い温度になる松の炭と、砂鉄が必要なため、日本中のどこでもできる訳ではなく、場所は限られていました。明治時代になって、イギリスから近代的な製鉄法が伝わり、最初は政府が運営する製鉄所も建設され、鉄の量産が始まりました。そのため、「たたら製鉄」は少しずつ衰退し始めました。
第2次世界大戦後、日本における「たたら製鉄」は、ほぼなくなり、島根県の安来市にある日立金属の工場だけが、和鉄の生産を続けました。「たたら」を使った和鉄の生産は効率が悪いため、結果として長期に渡り、中断されました。昭和の終わりごろになって、島根県の吉田町に残った数人の炭焼きの職人さんを中心に、「たたら製鉄」の技術を伝承するための鉄づくりが再び始まりました。現在では、日本刀剣保存会が、毎年、冬にたたら製鉄を行い続けています。たたら製鉄で作られた鉄は、主として日本刀を作るための材料として、全国の刀鍛冶(かたなかじ)の職人さんたちに配布されているそうです。2000年代に入って、かつてのたたら製鉄に参加した経験のある職人さんたちが高齢化して、かつてのたたら製鉄を知っている人は、いなくなりました。
それでも、日本刀剣保存会は、毎年、冬の「たたら製鉄」を続けています。このたたら製鉄の技術は、昭和の後期に、復元されたかつての「たたら製鉄」の方法を忠実に再現した手順に従って、新しい人々によって継承(けいしょう)されています。和鉄(わてつ)は、日本刀を作るためだけではなく、寺院の修理や歴史的建造物の修理などにも必要な、釘(くぎ)などの材料としても使われているそうです。