ウラと大王 〜 桃太郎と鬼の話

公開: 2020年3月16日

更新: 2023年11月16日

あらまし
ここでは、大和(やまと)の大王であった第10代崇神天皇(すじんてんのう)が、4世紀頃に吉備の国(現在の岡山県北部))に居た、朝鮮半島から渡来したとされている王、「ウラ」、を攻めるように命じた「わけ」について考えてみます。
吉備(きび)のウラと大和の大王の戦い

日本書紀によれば、大和の国を4世紀前後、第10代の崇神天皇(すじんてんのう)が治めるようになった頃、吉備(きび)の国にウラ(温羅)という名の朝鮮半島の南部から来た王とその家来たちが、山の上に朝鮮式の城を築き、住みついていました。このウラたちは、朝鮮半島から持ってきた鉄を使って、様々な道具を作るやり方を知っていました。ウラたちが鉄の材料から様々な道具を作り出すことができることを聞いた、大和の大王、崇神(すじん)は、自分の身内の一人を大将に命じて、吉備(きび)の国を攻めて、ウラとその家来を大和に連れ帰るように言いました。

ウラたちが住んでいた場所は、現在は「鬼ノ城(きのじょう)」と呼ばれている吉備平野の北側の山の上に築かれた城の中でした。高い山の上に作られた城は、吉備平野側から、大和の兵が攻めるのには、攻めにくい城でした。ウラは、大和の人々からは、「鬼神(きしん)」とも呼ばれていたようです。また、「吉備の冠者(きびのかじゃ)」と呼ばれることもあったようです。このようなことから、桃太郎の昔話では、ウラは「鬼」と呼ばれるようになったようです。

大和の大王は、吉備津彦命(きびつひこのみこと)を大将として、将軍の「犬」が引き連れた大軍を吉備の国に送り込みました。吉備津彦命の軍は、吉備平野に到着すると、現在、吉備津神社のある辺りに陣を張り、山の上に陣取ったウラの軍との戦いに備えました。戦いが始まりましたが、吉備津彦命の軍とウラの軍は、互いに相手の軍に打撃を与えましたが、戦いの決着はつきませんでした。吉備津彦命は、このままではウラの兵たちは、山の上の城に立てこもり、鉄の矢じりがついた矢を射るウラの軍には勝てないと考えました。

そこで、吉備津彦命は、大和の大王に援軍(えんぐん)を送るように頼みました。大王は将軍の「サル」と「雉(きじ)」が引き連れた援軍を送ることにしました。援軍が到着して、吉備津彦命は、これまでの倍の軍勢で、ウラが居る鬼ノ城(きのじょう)を、将軍の「犬」が引き連れた軍が正面から、将軍の「サル」が引き連れた軍が背後から同時に攻めました。すると、背後から攻め込んだサル軍は、ウラが潜んでいた鬼ノ城のある山の裏側の洞窟(どうくつ)に、ウラと家来たちを追い込みました。ウラと弟のオニは、将軍「サル」の攻撃に驚き、洞窟から密かに逃げ出し、吉備平野の村へ降りて、逃げ去りました。吉備津彦命は、ウラを追いましたが、ウラは農民の住む村へ逃げ込み、なかなか見つけ出すことができませんでした。

すると将軍の「雉(きじ)」が率いた軍勢が、村の中をくまなく、ウラたちを追って探しました。ほどなくして、将軍の「雉」が率いた軍は、村の中に隠れていたウラを見つけ出しました。するとウラは、川へ逃げ込み、今度は船で川を下り、逃げようとしました。雉(きじ)の軍は、川の岸辺から矢を射って、ウラを逃げられないようにしました。とうとうウラは観念し、吉備津彦命に自分の負けを認め、「吉備の冠者(きびのかじゃ)」の称号(しょうごう)を返上することを申し出ました。吉備津彦命は、ウラを許し、ウラとその仲間の人々を捕らえて、大和の大王のもとへ連れ帰りました。

大和へ連れて行かれたウラたちは、大王に自分達が知っている鉄の板から様々な道具を作るやり方を大和の人々に教えるとともに、自分達も鉄の道具を作り、大王に差し出すことを約束したため、大王はウラたちが吉備(きび)の国に戻り、住むことを許しました。それ以来、ウラの子孫たちは、大王の家来として鉄の道具作りを行い、大王の日本征服を助けました。ウラの後を継いで「吉備の冠者(きびのかじゃ)」となった吉備津彦命(きびつひこのみこと)は、室町時代になると。「桃太郎」と呼ばれるようになり、ウラは、「鬼」と呼ばれるようになりました。

(つづく)