公開: 2020年3月16日
更新: 2023年11月15日
弥生時代の日本列島では、木や石で作った鍬(すき)や斧(おの)などの道具を使って、短い時間で、手際よく、広い田んぼを耕していました。そのため、さまざまな種類の道具を使った稲作のやり方が進歩しました。たくさんあった部落の中でも、優秀な村長がいた村では、新しい農作業のための道具を工夫して、同じ数の人々でも、より広い田んぼを耕し、たくさんのお米を作れるようになっていました。村人は、村長から教えられたように稲を植え、草を刈り、稲刈りをしました。そして、村長に教えられた道具を使いました。
弥生時代の中頃、日本列島では、まだ石器の斧(おの)やカマなどが普通に使われていました。それでも、一部の村には朝鮮半島から、鉄がもたらされ、少しずつ、鉄の斧(おの)やカマ、鍬(すき)なども作られ、使われるようになってきました。これらの道具を作る材料の鉄は、朝鮮半島の南部から海を渡って持ち込まれた四角い鉄製の板から作られました。鉄製の板を火にかけて熱し、石などでたたいて形を作ったようです。鉄の斧(おの)や鍬(くわ)などは、石の斧や木の鍬に比べると丈夫で強く、道具としても楽に木を切ったり、田を耕すことができたため、たちまち日本中に広まりました。
しかし、そのころの日本列島に住む多くの人々にとっては、これらの新しい道具の材料になる「鉄の板」を手に入れることは難しいことでした。古代の日本人たちは、朝鮮半島の人々と、物々交換でそのような「鉄の板」を手に入れたのです。日本の古墳時代、4世紀頃から、朝鮮半島では中国から伝わった製鉄が始まっていました。それは中国大陸で製鉄が始まった紀元前8世紀頃から、1200年近くも経ってからのことでした。中国で製鉄が始まったのも、人類が、現在のトルコ近くにあったヒッタイトと呼ばれた場所で、製鉄法が見い出されてから、1100年近くが経った頃でした。
弥生時代後期までさかのぼると、日本列島での鉄でできた器具の出土は、圧倒的に現在の北九州地域に集中しています。さらに、現在の島根県東部に当たる出雲(いずも)地方での鉄器具(てっきぐ)の出土(出土)が多いことも知られています。出雲地方も朝鮮半島から渡ってきた人々の集団が多く、そのため、材料の鉄の板も、たくさん持ち込まれていたのでしょう。その少し東にある鳥取県の妻木晩田遺跡には、鉄の板から矢じりを作っていた仕事場の跡が残っています。
鉄で作った鍬(すき)を使って田を耕すと、木の鍬(すき)を使った場合よりも。短い時間で、広い田んぼを耕すことができます。鉄で作った矢じりを矢の先につけて、それを弓で射ると、青銅で作った矢じりよりも硬い物を突き抜けます。近い距離で弓を射ると、青銅で作った鎧(よろい)でも突き抜けてしまいます。そのようなわけで、鉄の鍬(すき)や鉄の矢じり、そして鉄の刀などは、古墳時代の人々に大事にされました。
大和の国の大王は、全国の様々な村(国)の王に対して、鉄でできた鎧(よろい)や刀を分け与えたようです。これは、大和の大王が、自分が日本列島全体を治める力を持った王であることを、とても貴重だった鉄の刀や鎧(よろい)を各地の王に与えることで、自分の力を誇(ほこ)った「しるし」であると考えられています。鉄は、そのような意味でも、重要な物であったと言えます。