公開: 2020年3月16日
更新: 2023年11月15日
弥生時代が終わり、稲作が日本列島の西側の地方に広まると、隣り合った部落同士の戦いが盛んになりました。それは大きな集団ほど、多くの人々がいるため、稲をたくさん収穫できて、豊かになれるからでした。そのような争いの末に、それらの部落の中から、戦いに勝って、戦いに負けた部落の人々を自分達の仲間にして、勢力を大きくした部落の人々が生まれ始めました。その人々は、新しく仲間にした部落の人々を支配して、自分たちのために働かせました。
そのような大きな部落の人々(部族と呼びます)は、日本列島のあちらこちらの地域にできていました。そのような大きな力を持つ部族の中でも、奈良の大和(やまと)の国の部族は、周りの国々を仲間にして、とうとう大和から、今の大阪あたりの難波(なにわ)の国、そしてさらに西にある今の神戸の西の須磨(すま)の国や、奈良の北にある琵琶湖の周辺の近江(おおみ)などの国々との戦いに勝ち、それらの国々を治めていた王を、大和の大王の家来(けらい)にしました。
大和(やまと)の大王(おおきみ)が、周りの国の王との戦いに勝てたのは、大和の国の大王が日本列島の四季を知る方法(天文学)を、正しく知っていて、いつ稲の種をまき、いつ田んぼに水を引き、苗を植え、いつ刈り取れば良いのかを、間違いなく判断できたため、たくさんの稲を実らせ、多くの米を刈り取ることができたからです。このことは、各部落の中の人間の数を増やし、自分達の部族の力を強くするために大事でした。周りの部落との戦いになれば、戦いに参加する人間の数が多い方が得だからです。
この、四季を正しく知るためのやり方は、この時代より数百年前、日本の縄文時代に、中国大陸を逃れて、日本列島の西の端の九州北部に流れ着いたと考えられている、彼らの祖先が、中国大陸に居た時に、そこで学んだやり方でした。太陽の動きや、太陽の高さ、山の景色の変化や、空模様(そらもよう)をよく見て、種をまく時期、田植えをする時期、稲を刈り取る時期を誤りなく決めるやり方です。例えば、「山に桜が咲いたら、稲の種を植える」などです。今のように、暦(こよみ)がなかった古代に、このような季節の移り変わりを正しく知ることは、大変難しいことでした。
各部落の村長たちは、自分の子供にだけ、そのような季節を知るやり方を、教えました。このやり方を正しく学ぶことができなかった村長が率いる部落では、食料である米をたくさん取ることができなくなるため、部落内の人間の数が増えません。そのため、周りの部落との戦いに負けて、勝った部落と一緒になるしかありませんでした。ですから、部落の村長が、季節の移り変わりを正しく見極められるかどうかは、すごく大切なことでした。大和の大王は、そのような村長の中の、とても優秀な村長達だったのでしょう。そして、戦いのやり方も上手(じょうず)だったと、思われます。