第3章 21世紀の秩序(3)

公開: 2019年8月1日

更新: 2019年8月2日

あらまし
力の秩序を優先する古い思想の影響

個人間に発生した利害の対立問題を解決する方法としても、国家間に発生した利害の対立問題を解決する方法としても、力の秩序による解決は、最も原始的ではあっても、最も確かなものでした。それは、動物の世界でも使われているものです。ただ、動物の世界では同一種内で発生した利害の対立を解決するとき、勝っている方が負けている相手を、最後まで打ちのめし、殺すと言う行動を取ることはありません。負けている方が、負けを認める態度を示したとき、闘争は終わります。しかし、人間の場合、負けている方が負けを認めないとき、勝っている方は最終的に相手の生命を奪うまで打ちのめす例が、しばしば見られます。

知能が発達した高等な動物の行動において、どうしてこのような行動パターンが見られるのかは分かっていません。高度に発達した脳によって生まれる行動パターンなのかも知れません。国家間の対立で言えば、勝った国が負けた国の兵士を皆殺しにするという方法は、古代から用いられてきた方法の一つです。このような力の秩序を優先した対立の解消は、文明が進歩すると、兵士の数と武器によって、勝敗が決まるようになります。金属の兵器をもった軍隊が、石の兵器しか持たない軍隊を撃破するのは、その例です。さらに、馬を操る軍隊は、そうでない軍隊に比較すると圧倒的な力を持っています

つまり、力の秩序とは言え、それは単なる体力の問題ではなく、道具を生産できる能力であり、そのような道具を使うことができる人材を育成できる教育制度の力も含まれています。このことは、国家間の衝突の場合には、両国の経済力や、人口も要因として関係していることを意味しています。特に、20世紀以降の戦争は、国の総力をかけて戦う戦争になっており、戦っている国の生産力が大きく影響するようになりました。さらに、第2次世界大戦では、戦闘に参加している国々の技術力も、新兵器の開発に大きく影響するようになりました。生物兵器や核兵器の開発には、高度な知的人材が必要でした。第2次世界大戦当時の日本やイギリスの国力では、研究には着手していたものの、核兵器(原子爆弾)を開発する力はありませんでした

核兵器の誕生によって、兵器の殺傷能力は極限に到達し、戦争が起これば当事国は完全に破壊される可能性が生まれました。このため、核兵器の保有を国際的に管理しようとする動きもありますが、効果的な管理ができている状況にはありません。その結果、核保有国とされる国家の数は、少しずつ増えています。このような力の秩序に依存した国際政治は、既に限界に来ています。兵器の開発や利用は、無限に許されるとする思想は、古代的で、科学技術が著しく進歩した現代では、有効に働かなくなっているのです。さらに、国際的な戦争の規定を定めても、それが守られるかどうか確実ではありません

核兵器の利用は、その効果を戦場に限定することは難しく、必ず、一般の市民(非戦闘員)も巻き込む結果になります。このことは、非武装の一般市民を組織的に攻撃することを禁じたジュネーブ条約に違反しています。しかし、第2次世界大戦では、どの国の軍隊も一般市民を攻撃目標とした爆撃を、戦略爆撃として実施しました。これは、各国の政治家も軍事専門家も、一般市民を対象として組織的に攻撃を行うと言う、人間の倫理観に反する行為が、戦時下においては許容されると考えたからでしょう。アウシュビッツや南京の大虐殺と同じように、東京大空襲やドレスデン爆撃も、人道上は許されないものだったのです。原爆投下は、もちろんのことです。

20世紀の後半に入って、人類は戦争以外の方法で国家間の利害の衝突を解決しようと、新しい方法を模索しています。国際連合における安全保障理事会決議などによって、国家間の軍事衝突を未然に防止することも試みられましたが、成功していません。特に、中東におけるユダヤ教徒とイスラム教徒との対立では、イスラエルとアラブ諸国の間で、2回の全面戦争が行われています。さらに、イスラエル領土内のパレスチナ自治区に居住するイスラム教徒とイスラエル政府軍の間には、長年にわたり戦闘が続いています。さらに、イスラム教国内においても、民族対立があり、内戦が絶えることはありません

これらのイスラム国などの国内における軍事抗争は、内戦と呼ばれたりテロと呼ばれたりしていますが、基本的には力の秩序によって問題を解決しようとする考え方に基づく行動です。最近では、イスラム教徒の中の、イスラム原理主義者と呼ばれる人々の一部が、西ヨーロッパの先進諸国へ移民した人々の2世世代に教育をして、移民先の国の国民を巻き込んだ武力抗争を実施させる例も生じています。この場合、犠牲となる人々の多くはイスラム教徒ではなく、異教徒であるキリスト教徒などとなります。これも、原因の一つに宗教的な対立も含まれていますが、力の秩序による問題解決を目的とした行動と言えます。

このようなテロと国家間の戦争との違いを整理しましょう。国家間の戦争ではそれぞれの国家の軍隊同士が対峙し、国際的な戦力の行使に関する条約の取り決めに従って戦闘行為が実施されることを言います。これに対して、テロでは政府への打撃を目的として、政府の施政方針や施政方法に反対する一部の者たちが武器を取り、政府内において国内の治安維持を担当する警察や国防を担当する正規軍、さらに一般市民である国民なども攻撃対象にして、国内法の制約を無視し、組織的な武力行使を実施することを言います。

テロのこのような性格は、その武力行使が、一般的にテロ行為が実施される国の国内法に抵触する可能性が高く、犯罪行為とみなされるのが一般的です。このため、テロにおける武力の行使は、国家間の戦争と比較すると、一般的に残虐さを増す例があります。つまり、犯罪行為とみなされることから、その行為に歯止めがかかり難くなっていることが考えられます。例えば、アラブ系の国々の一部地域を支配した自称イスラム国の兵士が、武力行使中に捕らえた政府軍の兵士や一般の市民、他国から入ってきたジャーナリストやNGO団体の職員などに対して、無抵抗であるにも関わらず、武力を利用して殺人を行う例がありました。時として、テロにおける武力の行使は、必要以上に残虐になります。

このことは、国家間の戦争における武力の行使は、一定の秩序を維持しながら実施されるのですが、テロにおける武力の行使には、そのような秩序は存在しません。その意味では、テロにおける武力の行使と国家間の戦争における武力の行使は、一見すると互いに似通ったもののようですが、実は、本質的には大きな違いがあります。つまり、武力の秩序による問題解決と言っても、詳細を見ると、いくつかの異なる段階が存在します。テロの武力行使は、国家間の戦争に比較して、より原始的で、より低いレベルのものであると言えます。このことが、その武力行為の行使の目的からすれば、不必要に残虐な行為に至る原因にもなっていると思われます。

相対的に国家よりも力が弱い個人の集まりであるテロリスト集団が、武力行使を計画し、実施しているため、このような問題が発生します。これに対して、それを抑え込もうとする国家権力側の人々には、国家としての一定の節度の下での治安維持が要求されます。従って、対峙している相手がテロリストであると言う理由で、どのような武力行為でも許されると言うわけにはゆきません。テロリスト集団の一員であることを理由に、国民でもある一般市民を逮捕・拘束することはできません。個人の人権は守られなければなりません。

2017年に米国の大統領に就任したトランプ氏は、一部のアラブ国家から米国へ移住しようとしていたり、米国に一時的に滞在しようとする人々の米国領土への入国を拒否する命令を出しました。これは、それらの国々から米国へ入国した人々の一部が、過去に米国内でテロ行為を実施したと言う理由からです。しかし、米国の憲法は、人種や宗教によって人を差別することを禁じています。そのため、一部の州の司法関係者から、憲法違反を理由にその命令の差し止めが提起され、裁判所に於ける審議を通して、その命令は無効であるとの結論になりました。とは言え、トランプ氏の考え方は、変わっていません

(つづく)