公開: 2019年7月26日
更新: 2019年7月xx日
テロが多発し、自分たちの身の安全を保証できない一般の市民は、時として自分たちが生まれた国を出て、より安全に生活できる新しい国を求めて移動します。そして、自分たちが安全に生活できると考える国に、定住することを希望します。そのような、自分たちが生まれた国を捨て、新しい国に定住することを「移民」と言います。現在、国家の情勢が不安定な中東諸国を出て、ドイツなどの西側諸国への移住を希望する人々は数多くいます。また、政情が不安定なシリアの人々や、イランやトルコに住むクルド人の中にも、故郷を捨てて東ヨーロッパや西ヨーロッパの国々へ逃げる人々がいます。これらの人々は、「難民」と呼ばれています。
そのような移住は、移住を希望する人々にとっては、より良い生活環境に身を寄せることが可能になると言う意味において、望ましい解決策と言えます。しかし、そのような人々を受け入れる側の国家と、その国に以前から生活している市民・国民から見ると、そのような移民や難民を受け入れることで、国家の財政的な負担が増え、さらにそのような移民の人々が形成する新しいコミュニティは、もともとその国に暮らしていた人々のコミュニティと比較すると、経済的には貧困の度合いが強く、国内の治安の悪化などにもつながる例が少なくありません。
しかし、ドイツやフランスの政治リーダーたちは、そのような移民・難民を受け入れることが、豊かな社会の義務であると考えています。そのような考えの根底にあるのが、博愛の精神です。キリスト教の社会では、そのような博愛の精神は、人間の生きる道として、維持されなければならないと教えられ、考えられています。つまり、自分たちが働いて得た富の一部は、社会に還元しなければ、単なる強欲でしかないとする考え方です。これは、博愛の秩序と呼ばれている基本的な人間の秩序です。
このような博愛の秩序は、キリスト教にのみ特有なものではなく、仏教にも「慈悲」と言う類似の考えがあります。ただ、現実を肯定する傾向の強い仏教では、その行為の徹底は、キリスト教ほど強いものではありません。キリスト教徒にとって、強欲は深い罪であり、そが理由で最後の審判で自分が救われないからです。宗教改革を押し進めたルターやカルバンは、そのことを徹底的に教えました。そのため、特に新教国において、移民の受け入れは、宗教的にも重大な関心事になります。
その移民を受け入れるべきとする国家の姿勢は、それらの国々における社会情勢の悪化をねらう国際テロリスト組織にとっては、自分たちの武装テロ行為を実施し易くする方法を与えてくれます。2001年の9月11日に米国で発生した9.11テロは、そのようなテロ計画の典型だったと言えます。複数の旅客機がハイジャックされ、ニューヨークの高層ビルに激突させられたり、ワシントンのペンタゴン(国防総省のビル)に激突したりしました。このテロ行為で命を落とした犠牲者は、4,000人以上になりました。その中には、日本人も含まれていました。
ハイジャックを実行した犯人たちは、乗客を装って武器を機内に持ち込み、飛行中の機内でその武器を取り出し、操縦室へ押し入って、自分たちで飛行機を操縦し、飛行機をビルに激突させました。もちろん、飛行機に乗り合わせた乗客は全員死にました。さらに、激突時にビル内にいた人々も数多く死にました。また、ビル内に残っていた人々を救助に向かった消防士達も数多く死にました。アラブのイスラム教テロリスト達は、米国の移民受け入れ政策を逆手に取ったのです。
前節の最後で述べたトランプ大統領のイスラム系諸国から米国への人々の流入を禁止しようとした大統領令は、そのような現実の問題を強引に解決しようとしたものでした。この大統領の過激な決断に対して、米国市民の多くが反対の態度を表明しました。それは、今でも米国市民の多くが、米国建国の精神の基礎にあるキリスト教的博愛の考え方が重要であると考えているからでしょう。それは、米国市民のある程度の犠牲を払ったとしても、守るべき価値のある精神であり、思想であると考えているからだと言えます。
これに対して、トランプ大統領と彼の政策を支持している人々の考え方は、米国の経済発展、安定した米国社会の維持、米国国民の生活水準の改善を優先するとき、これ以上の移民や不法移民を受け入れることは、国家の利益にはならないとするものです。確かに、短期的にはこれらの問題を優先すれば、移民や不法移民を受け入れることは得策ではないかも知れません。これらの人々は、安い賃金でも働こうとします。その結果、一般の米国国民の給与収入が減るからです。そうすれば、ものを買わなくなるので景気が悪くなります。そして、経済が停滞するのです。
しかし、長期的な視点で考えると、移民の受け入れは悪いことばかりではありません。移民として受け入れられた人々は、一般の国民が嫌う肉体労働にも従事します。そのような肉体労働は、誰かがやらなければならないのです。もし、それらの仕事を国民全員が嫌って、誰もやらなくなれば、国家の経済は回らなくなってしまいます。また、移民として受け入れた人々が中心となって形成される新しいコミュニティは、米国社会を不安定にします。それはその人々の収入が少なく、貧しい生活に甘んじるからです。しかし、その人々の第二世代達は、米国で教育を受け、一般の米国市民と同じような知的水準に到達し、米国社会の発展に寄与するようになります。このようにして、米国社会に同化した移民の第二世代以降の人々の努力によって、米国社会全体はさらに発展するのです。
すなわち、短期的な経済発展に着目すれば、問題もある移民や不法移民の受け入れですが、長期的な国家の発展を考えれば、米国社会の発展にとって、移民の受け入れは絶対的な条件になっています。日本社会が、1990年代に入って、経済の長期低落傾向に歯止めがかからず、低迷している現状の最大の理由は、人口が増えなくなり、国内経済が低迷し始めたことが原因です。この間、米国社会は、着実に人口を増やし、経済を成長させてきました。このように、長期的に考えると経済的に発展した国では、移民の受け入れは受け入れ国にとって、一時的な負担増加になりますが、長期的には経済の発展に寄与します。
このように国家の長期的な経済発展を重視する視点で考えると、博愛精神に基づく、人々の平等と個人的な価値を重視する政治は、国家の経済発展と矛盾するものではないことが分かります。しかし、そのような国家の経済発展が人々の目に見える姿で実現するのは、数十年後になることもあります。そうなると、現在、その国に生き、働き、生活している人々が、そのような博愛的な政治の恩恵を受けることはできないかも知れません。恩恵を受けるのは、そのような政治を選択した人々の子供達であったり、孫たちでったりします。このような政治の成果が発揮されるまでに要する時間の問題で、そのような博愛的な政治姿勢に反対する人は少なくありません。
博愛的な政治姿勢に反対し、もっと現実的に、短い時間で、自分たち自身に利益を与えてくれそうな経済優先の政治姿勢を好む人々は、豊かな先進諸国においても、決して少数派ではありません。さらに、自分たちが今、享受している先行者利益を、博愛主義的な政治によって失う可能性がある人々もいるのです。そのような人々にとっては、長期的な視点では国家のためになる政治でも、自分や自分たちの子孫にとっては不利な状況をもたらす、悪い政治に見えるのです。つまり、時間だけでなく、誰のための政治を考えるのかによっても、選択は変わってきます。
このような理由で、今、世界中で社会の分断が起き始めています。それは、政治がどのような秩序を重んじて実践されるべきかの合意が、国民の間に存在しないからです。現在の時点で既に裕福な生活を手に入れており、それを手放すことに拒否感をもつ一部の国民と、現在は貧しく、生活に必要なものを買うこともできないため、より平等な所得の配分を希望して新しい政治への移行を求める人々が、互いに反目している状態が生まれています。これは、20世紀後半の工業化社会の進展で先進各国での経済発展が続き、さらに工業生産で利益を得る経済から、高度な知識を利用した活動で利益を得る経済へと移行したため、その結果として高い所得を得られる人々と、そうではない人々との間の相対的な所得の差が著しくなったことが原因です。
さらに、20世紀の最後の10年間で著しく普及したインターネットを利用した情報交換技術の進歩により、それまでの社会では不可能であった個人から社会への情報発信が容易になりました。それまでの社会では、個人が社会へ情報発信をすることは、一部の特別な人々を除けば、マスメディアへのアクセスがなかったため、ほとんど不可能なことでした。インターネットの普及によって、今では、多くの人々がSNSなどを活用して、自由に社会への情報発信が可能です。最近では、国の政策決定に重大な影響をもつ政治家なども、自分の個人的な意見を直接、一般の人々に伝えるため、そのようなSNSを利用する例が増加しています。
SNSを利用した個人的な情報の発信は、人類がこれまでに利用してきた印刷技術を利用した情報の発信や、電波を利用した情報の発信のように、莫大な資金の投入を必要とする機器や設備を必要としないため、手軽に情報発信が可能です。このため、直接・間接の第三者による監視や校閲を受けない情報発信が可能となり、内容に関する自由な表現が可能になる反面、内容が本当に正しいかなどの確認は発信者個人に任せられることになります。このようなことから、SNSで発信される情報には、時として内容に誤りが含まれるものも存在します。
とは言え、そのような内容に誤りが含まれる情報であっても、社会に向けて発信されることになるので、その真偽の判断は完全に受け手である人々に委ねられます。これまでの印刷や電波による情報発信の場合であれば、印刷物を出版する組織や、放送を作成し配信する組織が、出版物の内容や放送の内容を吟味し、社会に誤った情報を提供することがないように確認作業を実施していました。しかし、そのような第三者による確認作業なしに発信される情報が伝えられると、その内容が誤りであっても、真実と誤解してしまう人々は少なくありません。
このような自分たちに好都合な情報だけを早く、恣意的に発信する方法として、インターネットのSNSは現代社会では重要な情報伝達の道具となっています。このような道具が利用可能になったことで、最新のニュースが瞬時に、世界中に配信されるようになり、従来のマスコミによる情報の流布と比較すると、情報が伝播する速さは、著しく早くなったと言えます。その反面、誤った情報があたかも「真実の情報である」かのように世界中に流布される危険性も問題になってきました。現代の社会は、そのような問題も持っています。