第3章 21世紀の秩序(2)

公開: 2019年7月30日

新版更新: 2025年7月16日

あらまし

20世紀に人類は、2つの世界大戦を経験し、力の秩序による国際問題の解決は、本質的な問題の解決にはならないことを学びました。そして、法に基づく社会の秩序、人間の理性に基づく徳の秩序、そして人間性に基づく人間愛の秩序などが、力の秩序に優先されるべきことを確認し、国際連合を設立し、戦争のない世界を確立しようと考えました。しかし、20世紀末になると、東西の冷戦が終わり、経済のグローバル化が著しく発展したため、各国は理性と論理だけに基づいた経済の秩序を何よりも優先した世界に変化してゆきました。各国は、経済的に成功できなければ、政治的には失敗したと認識されるようになったのです。そのため、各国の政治は、経済の成長を維持することが、第一の命題になりました。しかし、それは、経済のグローバル化によって、企業組織の成功と、国家経済の発展が、整合的に調和しない例を生み出し、世論の中に、対立する世論が生み出される背景になりました。

経済秩序を優先する世界の世論と政治

一般の組織の場合、組織の目的は明確で、その目的を達成するために組織が作られ、目的を達成するための活動を始めます。従って、その目的が社会の進歩や変化が原因で、社会の倫理観に適合しなくなる例は数多くあります。例えば、19世紀に始まった帝国主義の世界では、各国は軍事力の増強に努力しました。その結果として、国内において戦争のための兵器を生産する巨大企業が生まれ、数多くの技術者や作業者を雇い、生産が行われました。それは、国家の存続という目標を達成するために重要な産業でした。つまり、国家の目的に適合した企業組織だったのです。しかし、大量殺人のための爆弾などの兵器を開発・生産することは、倫理的な視点からは、認められるものではありません。

平和な時代に入って、国家の存続・繁栄のための戦力は、帝国主義時代のように重要なものではなくなり、国家の繁栄のためには、国家の安全保障よりも、国家経済の発展の方が重要になりました。このような社会の変化に対応して、兵器を生産する企業は、「善い企業組織」とは考えられなくなりました。もちろん、そのような時代になっても国家の防衛は、政治的には重要な問題の一つなので、そのような兵器を生産する軍事産業が消失することはなかなかありません。しかし、世界が平和になると、その国のGDP(国内総生産)に占める軍事産業の比率は低くなります。そして、19世紀から20世紀の前半までには数多く存在した兵器を生産する大企業は、消滅したり、業務内容を変更したりしました。例えば、戦争用の飛行機を開発・生産していた企業は、旅客機などを開発・生産する企業に変わりました。

このような組織に対して、同じような人間を要素とするシステムでも、組織としての国家は一般の企業組織とは違います。それは、国家には企業組織のような明確に決められた目的がないからです。そして、そのために国家は、ある目的のために作られた組織ではありません。国民は、組織の目的を達成するために集められた人々ではありません。たまたまその国に生まれた人々によって国家は作られています。そして、国家とは、その国家を可能な限り長期に渡って存続させることです。それは、全ての生物が、自らの生命を可能な限り長生きさせようとするのに似ています。そのようなそれ自身の長期的な存在を目的とする特殊な人間の集合体を、一般的にコミュニティと呼びます。

企業は、その設立目的で定められた経済活動を行い、その結果として一定量の資金労働力を投入し、その結果として生産された経済財(製品やサービス)などを販売して収入を得ます。その収入から生産で消費した労働や資材に投じた費用を差し引いたものが利益となります。可能な限り長期に渡って、多くの利益を獲得することは、企業組織の目的です。このため、生産に消費した費用に対して、生産で得た利益がどの程度であるかが組織の経済効率を表す尺度とされています。そのような経済効率の高さは、豊かさの指標として国家においても重要ですが、それだけでは国家の良さを考えることはできません。

歴史的に考えてみると、永続的な存続を目的とする国家として重要になるのは、他国に攻められることがないように自国を守る兵力、その兵力を長期に渡って維持するために必要になる経済力、さらにその兵力の元となる人間を集めるために必要な、よく教育された国民の数(人口)、国民の知的水準を維持し、向上させるために必要になる教育制度の完成度、国民全体の倫理観や道徳観の高さなどです。これらは、(兵)力の秩序、財力の秩序、人口の秩序、科学技術の秩序、法の秩序、倫理の秩序などに属する問題です。コントスポンビルの言葉を使えば、これらは論理的な理性の秩序社会の秩序徳の秩序と言えます。

このように「どのように作られたか」の形成過程が異なる企業組織と、コミュニティとしての国家や地域との間には、時として調和がとれない秩序の競合が生まれることは少なくありません。国家を例にとれば、国家としては自国の領土や国民の安全を守ることを優先して、他国の政府と衝突することがあります。しかし、この対立した2つの国で事業を展開している企業組織や、非営利組織などはそれらが設立された目的の達成を優先して活動を企画し、それぞれの国で実施し、その成果を統合します。個々の活動は、2つの国に置かれた下部組織によって実施されるのです。このことは、それぞれの国で実施される活動は、その国の法律制約の範囲で実施されなければなりません。

国家がその国内に適用される法律を制定した目的と、その国の中で活動を実施する企業組織の活動の目的が一致するとは限りません。そのような組織と国家の法制度の目的との間に食い違いがあると、企業は国家の法制度に準拠する範囲の制約の中で、自分たちの目的を達成するために最も効果的な選択をします。もともと、目的が違っているわけですから、そのような企業の選択は、それを実施する国の社会全体から見れば、「好ましい」ものにならないこともあります。このような問題は、企業と国家の間だけでなく、国家と個人との間にも生じる可能性はあります。ただ、企業組織の場合、その活動の実施に関わる国民であり、組織に属する人間の数も多く、社会的な影響度も大きくなるので、大問題になることがあります

経済がグローバル化している最近の世界では、多くの大企業が複数の国々で生産・販売を展開しています。これらの国際企業は、株式会社として運営されていれば、利潤を最大化することを目的としています。それによって、世界中の投資家に対して高い利子を支払うことができるからです。A国を拠点として事業を展開しているX社が、B国とC国に工場を持ち、製品の生産を実施している時、A国の通貨とB国、C国との通貨の為替市場における交換率が変化し、その企業にとってB国での生産がコスト高になり、C国における生産の方が有利になったとします。その場合、X社の経営者たちは、B国での生産規模を縮小し、C国における生産規模を拡大する選択をするのが自然です。

B国内のX社の工場における労働者の雇用が5千人で、関連する企業に勤務する労働者が1万人いるとするとき、X社の生産規模の縮小はB国内の雇用のうち、その1万5千人に直接的な影響を与え、結果としてB国の国内総生産(GDP)の低下を招きます。B国の政府としては、自国の経済の停滞や、失業者の増加を考えると、それを放置するわけにはゆきません。当然の結果として、B国の政府はX社に対して、B国の工場における生産規模の縮小を考えなおすように言うでしょう。B国は、その代償としてX社に対する資金援助(融資)などの方法を使い、生産規模の縮小を最低限にするような提案をするかも知れません。

このような現象は、先進諸国においてこの20年間にわたり、継続的に起きてきた問題です。そして、開発途上国に数多くの生産拠点を建設し、雇用を先進諸国から開発途上国へ移してきたのです。これは、企業組織が営利を目的とし、利潤を最大化することが使命になっているため、資本主義経済のシステムでは変えることができない本質的な問題です。とは言え、企業組織と言えども社会的な倫理観に反することはできません。そうなると、企業が「現在の雇用を維持する努力はどこまで必要か」と言う問題になります。営利を目的とした企業組織の場合、「企業間の競争に負けない範囲まで」と言うことになるでしょう。しかし、そのような経営倫理の考え方が世界的に一般化しているわけではありません

国家間の衝突においては、これまでと同じように今でも武力の行使による問題解決が、最終的な手段として使われています。企業間の競争のために生じる国家と企業組織との対立には、国内法の適用による問題解決という手段もありますが、上述した例のように企業組織が拠点としている国と、問題が発生している生産拠点が存在する国が異なる場合、どの国の法律を適用して裁判をするのかは、明確には決まりません。上述の例で言えば、裁判になった場合、A国の裁判所で審議をするのか、B国の裁判所で審議をするのかで、判決が全く異なることもあり得るでしょう。場合によっては、A国とB国間の外交問題に発展する可能性もあります

さらに、同一国内において国民の間での階層間の経済格差が拡大しつつあるため、同一国内における別階層に属する人々の間においても、意見や利害の対立が生じており、それが特定の階層に属する人々、その国の政府との対立にまで拡大する可能性も増しています。特に、人種の違い、宗教の違い、職業の違いに基づく社会階層など、アメリカ合衆国のような国家では、国民の間に対立する世論が生じることは数多くあります。最近の世界的な傾向としては、従来の知性主義と、それに対抗する反知性主義の人々との間における対立も、増えていると言えるでしょう。知性主義は、普遍的な価値観の存在を信じ、その価値観に従った生き方を「好ましい」とし、それらを論理的に考えるべきとする考え方です。反知性主義は、それを否定し、自分たちの直感を信じて考えることを優先する思想です

政治的には、多数決原理に基づく方法で、多数派の意見を選択する決定が行われていますが、その結論に反対する人々との対立が著しくなっています。このため、国内においてもそれぞれの代表的な世論の下に、人々が別々の世論グループを形成する傾向が生じており、国家が分断されているかのような状態になっています。特に、国民の世論を2分するような問題では、単純な過半数による多数決は、結果的に正しいとは言えない政治選択に帰結する例が少なくないようです。それは、「国民の一人一人は間違えない」とする民主主義の基本的な仮定に間違いがあるからでしょう。人類は、「人間が選択を間違えることがある」とする、新しい仮定に基づいた、新しい社会的意思決定の方法を模索しなければならないのです。


(つづく)